シンパシー

昨日だったか一昨日だったか、漠然とテレビをつけて見ていて、ふと感じた。
バラエティ番組の収録で死者が出るな、と。

こういった話題は、書くべきではないと理解している。師匠の講演会。人間として決してやってはならない三つのこと。誤った神の知識を伝えること、自殺すること、そして、占い師のように他人の「経験」を剥奪する行為。
見解の相違はあろうかと思うけれども、私が考える「生きている意味」の一つは、自分で考えて行動し、その結果を自分自身で受け止めて、少しでもマシな判断能力を養うこと。今回その経験を積めば次回以降にきっと役立つ。一方占いみたいに「あなたはこうです」と決めつけて、相手がその「御宣託」に従って自分で判断することをしなければ、他人の経験を奪うことになる。それは、自殺することで「肉体を持つ」という神に与えられた貴重な経験を、否定することと同格で、神の思いに背いているからだ、と理解している。

そこまでわかっていながら、この話題を書いたのは、ただ単純に、師匠の講演会の内容をきっかけに、書くべきだと思ったから。師匠ももしかしたら同じ番組を見ていたかも知れないけれども、その部分は書かない。師匠の講演内容を、鵜呑みにして、自分自身で経験せずに表面的に他人に伝える行為は、結果において「占い師」と同じことをしていることになりかねないから、それは避けたい。ただ、幸い僕は(たぶん)昨日確かに感じたから、だからこれは書いてもいいのだろうと思う。それに、冒頭の話題は、単なる話のマクラでもある。

本題も書くのが難しい。師匠の講演内容の引用は可能な限り避けたい。ましてや、今日聞いた話で、「寝かす」ことも「熟成させる」こともできない状況だから、私自身が考えたり感じたりした「持ちネタ」から言葉にする。

先週だか、先々週だか、電車内で出産された女性がいた。大変でしたね、と思う。ところが、そのニュースに「ドン引き」だとか「臨月なら外出するな!」なんていうコメントがネットにあったらしくて、その発言もネットで話題になっていた。

随分昔(高校時代かな)、大きいお腹で仕事をしていた女性に、「お産前は、ご自宅で安静にされないんですか?」と無造作に言葉にしたら、その女性は私に、噛んで聞かせるように返事をされた。「あのね、仕事ってのは休めないのよ。休むとお金が入って来ないの。だからね、いつ産まれるかって思いながらもね、こうやって仕事するしかないのよ。」僕は、高校時代から喫煙していたし、そういう場所にも出入りしていたし(まぁ、喫茶店ですが・・・)その延長でTPOは適当にご想像ください。でも、あの時のあの人の話は、今の女性にも通じる話だと思う。出産間際なのに電車に乗らざるを得ないなんて、大変だな、と思ったけれども、そんなことは前述の「ドン引き」だとか、「臨月なら外出するな」と書き込んだ方々には、たぶん通じない話題なのかも知れない。無知なのか、シンパシーの欠落なのか。

でも、母子ともに健康みたいで、良かったです。昭和初期以前の農家には、「ナスビが垂れ下がる」という表現があったらしい。農作業の途中に子供を産んでしまうことすらあった、破水せずに羊膜ごと子供がぶら下がった時の表現。農家の嫁は臨月でも仕事に駆り出されたことを端的に表した表現。ちなみに、この「言い回し」はグーグルで検索しても出てきません。僕は濫読だったのでどこかの文学小説か労働史みたいな本か、何かに書かれていると思います。引用元を明示できないのは、僕が学術論文を書こうとした際に最大のボトルネックになる部分で、でも、このWEBページは学術論文じゃないからご容赦。話題を戻す。シンパシーの欠落が当たり前になっている。
シンパシーの欠落なのか、無知なのか。

バングラディッシュでJICAの関係者が殺された事件があった。イスラム国のシンパらしいが、そのニュースに、「そんなところに出かけている奴らは、殺されても文句は言えない」というコメントもあった。あれらの発言って、僕らJICA関係者やそのOB・OGに喧嘩を売ってないか?

かつて明治時代、日本は欧米から多くの技術者や科学者を「お雇い外人」として招聘した。当時の日本は、武士道とか「精神性」では決して卑下することはない部分もあっただろうけれども、あるいは、平賀源内のような方もいたかも知れないけれども、社会全般の科学技術の水準としては、必ずしも「先進国」とは言えなかったと理解している。科学技術を教育に取り込んで、「平均」を底上げすることが大切なんだと私は考える。僕らはそのために海外に行っていた。それはスポーツの隊員にも、農林水産業の隊員にも、全員に共通したと思う。今の僕らは、当時日本に来てくれた「お雇い外人」にほとんど感謝していないのかなぁ。もしも彼らが「あんな後進国に」と言って、誰も来てくれていなかったら、今の日本があるのかなぁ・・・。歴史に「もし」はないけれども。じゃぁ、僕らが出かけて行ったのは「殺されても文句を言えない、バカな行動」だったのか?

最近のテロは、無差別の色彩をかなり強めている。殺す側にも「シンパシー」の欠落がある。殺されたのが自分の身内、大切な人だったら、あるいは自分自身だったらという「共感」など、ほとんど感じられない。それというのは、無知なんだろうか、それともシンパシーの欠落なんだろうか。もし「宗教」がそうさせているなら、誤った神の思いを伝えている以外の何物でもないと私は考える。

北朝鮮。僕は、彼らが拉致日本人を返そうとしないことにも、核武装に突き進んでいることも、容認する気は無い。彼らの言動の8割は容認できない。ただし、残りの2割、彼らなりに必死で「我を押し通そう」としている部分、「生き抜こう」としている部分については、ある程度の「理解」と「共感」は持っている。その「共感」を持った上での、残り8割の「拒絶」でないならば、今後の状況の進展は難しいかも知れない。
イスラム国についても同様で、彼らの「必死さ」について、2割は理解も共感も持つけれども、残り8割は、私には容認できない。

同様のことが、昔ながらの生き方を貫いているアマゾンだの、ニューギニア島だのの人たちについても言える。外から来た「人」を全て敵とみなし、殺すことだってある。おそらくは、番組製作の関係者は、彼らが生きるために必死になっている部分を全く理解できていない。殺されても文句を言えない状況をなぜ敢えて作ろうとするのか。極めて個人的な話題を持ち出すならば、太平洋戦争当時の旧日本兵の遺骨収集で、そこそこの「奥地」(文明と接点はあっても、生活のベースは昔ながら)の人たちと遺骨返還交渉をしたことがあるけれども、僕らの思考回路が彼らに通じていない感覚を持ったことがある。話がそれるので、その話は書かないけれども。

野生生物だって、必死で生きようとしている。面白半分で生きている訳じゃない。生まれて来た以上、必死で生き抜こうとしている。野生生物と「自撮り写真を撮る」って、それこそ殺されたって仕方ない状況をなぜ敢えて作ろうとするのか。
野生生物なども、北朝鮮やイスラム国、あるいはいわゆる「未開民族」など以上に注意すべき相手だと思う。

なんだか、野生生物とかいわゆる「未開民族」の話題に、北朝鮮やイスラム国を持ち出したものだから、微妙に論点がずれているかもしれないけれども、基本的に伝えたいことは書けたかも知れない。

冒頭の話題に戻るならば、僕らの未来には、動かすことのできない部分と、いくらでも動かせる部分とが混在している、と理解している。冒頭に書いた私の直感が、そのどちらかなのかはわからない。書いたことに意味があったのかどうかもわからないけれど、僕は書くべきだと考えたから書いた。結果は甘受する。