あれやこれや

完全に暴走状態。いえ、書き尽くして疲れて眠ったら、起きていきなり仕事を始めます。私と仕事で関係を持たれている方、大丈夫です。自分なりのやり方で、コントロールはできてます。

意識が暴走している。僕は、師匠と違って「上の意識」は受け取れていない。たぶん。僕が受け取れているのは、おそらく僕の指導霊さんの意識と、おそらくは親父の意識だけ。ただひたすら、師匠の講演会の内容を反芻している。師匠の講演会に参加しようという方は、限られていると思う。その師匠の講演会の内容を、少しでもわかりやすく、少しでも多くの人が読める環境に流して、一人でも多くの人が、最低限「あの方」の意識や思いを知る、そもそもそれ以前に、「あの方」が実在していることを確信できるような材料を、一つでも多く提供すること、だと思う。一番厄介なのは、自然科学系の方々かな、と思ったので、というよりも、自然科学系の方々が一番厄介だとわかっていたから、僕は肉体を持って、軸足を自然科学に置く計画を立てた。インターネット、パプアニューギニア、医療機器、教育関係の仕事、盗聴と盗撮、全ての僕の経験が、一つに繋がって来た気がして、ようやっと「エンジン全開」の環境が整ったんじゃないかと、それも思った。

At Random.無作為、なんの脈絡もなし。全部吐き出す。

少し前に書いた公共交通機関の乗り物に、片っ端から撮像機器を取り付けたら、犯罪抑止になるんじゃないか、と書いた話題。書いてしまった後、何度となく、読み返してはいないけれども、自分の吐いた言葉を反芻した。師匠の講演会の話題。本来ならば、鍵がかかっていなくても、誰も盗まない。それが「当たり前」の世界のはず。画像記録装置があるから、犯罪を犯さないというのは、間違ってる。あるべき姿じゃない。だけれども、その一方で、師匠は講演会でこんな話題も持ち出されている。
「詐欺で、騙される人間と、騙す人間と、どちらが悪いと思う?」これ、言葉の断片だけを切り出すと誤解が生じると思うので、講演会の長い文脈を聞いて、あるいは、聞いた内容を正確に覚えている方だったら思い出していただけたならわかると思うけれど、「騙される」側の人間は、「感情に流されて、考えて検証するという意識がない」ことが問題だと私は理解する。人間は、本来ならば、相手の発する言葉や動作から、相手が何を求めているか、感情に流されずに、冷静に判断して適切な対応をするべき状況というのが多々あるのに、「騙された方々」は、概ねその「感情に流されずに、冷静に考える」という部分が出来ていない。その部分を師匠は、「騙される側が悪い」という文脈で話されたと、私は考えている。この「感情に流されて、状況を冷静に判断できない」結果として、時として戦争が起きたり、国家規模の殺戮事件が起きたりする。振り込め詐欺に騙される方々も、国家元首も、「感情に流される部分」があれば、問題の根は同じなのだと、私は考えた。
自転車が盗まれる。鍵をかけることによって、「盗もう」という人の出鼻をくじくことはできる。「鍵をかける」行為は、盗もうとする人に、犯罪を起こさせない行為、とも言える。自分の欲のためじゃない。他の人が落ちないための愛情、配慮、だとも考えられる。じゃぁ、(駐輪場以外に停めた自転車は別にして)自転車に鍵をかけるべきか、かけないべきか。答えを出すのは一人一人の自由だけれども、「鍵がかかっていないなら、盗んでも構わない」という判断をする人が総人口の20%以上は(国によっては50%以上は)いる現状では、現実問題として「犯罪抑止」によって「最低限の社会のルール」を経験させることも必要なのかも知れないと自分は考えた。全然、上級課題に進める現状じゃない。殺さない、奪わない、その程度のことが学習できない人が、とてつもない数いる。法律を活用して奪うことのは「正当な経済活動だ」と考える人は、多少は進化していても、人としてあるべき姿からはかけ離れているし、あの方の意識からは「十分に成長した」とはとても思えない、未熟な魂でしかない。
本来あるべき姿じゃない。だけれども、現在の地球では、「犯罪抑止」は現実問題として必要な行為なのか、という、行って、戻って、また行ってという結論にたどり着いた。この話題はもう、思い出さない。

言葉の重み。「あんな奴、死んじゃえ」と思った相手が、本当に死んでしまったことが、何回あるか。私は、とりあえずは片手で数えきれる程度。だけれども、何度もあった。そのほとんどが二十歳前。最後が、盗聴法を成立させた小渕総理。小渕さんの時は、何度となく、盗聴法そのものに猛烈な敵意を示した。(その理由?もう書きません。)その後は、そうした意識そのものを持たないように、かなり厳しく自戒もしているし、感情をむき出しにした「憎悪」の意識を持てなくなってきたのは、師匠の講演会に参加してから、だったと思う。
ただ、「昔ほどではなくなった」と自分で感じた変節点がある。「言葉」をストレートに解釈しなくなってから、意識が直接暴発することはなくなって来た。
前にも書いた。大阪に住んでいた頃、阪急電車で何回か満員電車の中で周囲の誰かの意識が、全くブロックできずに流れ込んで来たことがあって、辟易したことがある。上司から罵倒されている臨場感のある意識。昨夜の情事を反芻している女性一人称の意識。満員電車だと、もう身動きできない。ブロックもできない。以来、満員電車は極力避けている。今は、始発駅だから座れるし。ただ、その後は、あの頃ほど意識が流れ込んでくることはなくなった。以前と今と、どこが違ったか。決定的な違いは、「社交辞令」という「言葉」を、感覚的にも理解できて来たことだろうか。大阪にいた頃は京都人とも親交はあったけれども、彼らほど「言葉」に意味がない人たちは(すみません)いない。「どうぞ、お上がりください」という表現には、全く言葉としての意味がない。ほとんどがそうかも知れない。そして、その「社交辞令」は、京都だけではないと理解して来て、相手の発した「言葉」を、ストレートには受け入れないようになれたのは、たぶん、ニューギニア以後、だろうか。言葉そのものを「意味のあるもの」とは考えなくなってから、意識も流れ込まなくなった。おかげさまで、というべきなんだろうか。
肉体を持っている限り、「意識」だけで意思疎通できることは、普通はない。明確に私に意識を投げてくれたら、たぶん拾うけれども、普段は全く取れないし、時々経験する満員電車でも、昔のようなことは今は全くない。逆に言えば、それだけ僕が他人を信じなくなったから、だとも思う。言葉すら意味を持たない。これはある意味で、自分の人生経験で、得難い変節点だったかも知れない。
おかげさまで、というべきなんだろうな。今は僕は、金正恩さんも、トランプさんも、「憎む」ことができない。そもそもが憎めないし、加えて言えば、「お前なんか、死んじゃえ」と思っても、たぶん、何も起きない。昔と今と、何がどう変わってしまったのか、そこの違いを自分なりに読み解けたなら、もしかしたらということはあるけれども。

ピラミッド話。
ピラミッドは、人が作ったものじゃない。乾燥地帯における「貯蔵庫」として、UFOで飛来した、いわゆる「宇宙人」が作った。それを、「奴隷に働かせて作った」という説が今は主流なのか。
あれ、石の加工精度がどうなっていたか。今の技術で表面研磨ができるのはともかく、当時の工具だけで現存しているピラミッドの石を加工できたのか。できたとして、その熟練工を教育するのにどれだけの日数が必要となったか。そこに「熟練工」なんていう概念を持ち込まず、「誰でもいいから」でかき集めた奴隷が加工して、現存している精度の「石」を切り出せた、というシミュレーションが、まず、荒唐無稽に思えた。
次に、「石」の移送技術。映画なんかで、奴隷が「えんやこらさ」で運んでいる、そういうのを何編も見たけれども、運送会社の関係者の方々に聞きたい。あんなやり方で、石の「角」とか「面」とかに傷をつけずに運べるものなのか。移送途中にクラックが入って、いざ現場で石を積もうとしたら、突然割れたなんていう事態は起きないものなのか。直感的に思うのは、映画で見たような、あんな運び方をしていたら、石の「角」は取れるし、面には傷が入るし、下手すりゃ、自重でコロとの接触面に荷重がうまく分散せずに、クラックが入って、途中で壊れるなんていうのがすごい数あったに違いない、と思うのだけれども。建築工学系、機会工学系の方々、もしくは、クロネコとか、FEDEXの方々、どうなのよ。あれ、無理だと思いませんか。
そして最後が、石の積み上げ。クレーンがあれば、そこそこの精度で石を詰めるだろうけれども、奴隷に働かせて、図面を見て指示をだす技術屋がはいたとしても、測量機器もなく、かき集めの奴隷の方々に「積み上げ」をさせて、あの完成形を作れるもんだろうか。
そこまで考えて、シミュレーションをしなおしたら、奴隷の頭数とか、日数とか、根本的に成り立たないくらいの数字になる、つまり荒唐無稽だと、私には思えた。
あれ、いわゆる「宇宙人」の制作物、だと、師匠は講演で話されていた。こういう話題は、世間一般的には、眉唾で済ませられちゃうけれども、百歩譲って、UFOとか宇宙人は忘れていいけれども、奴隷に作らせるのが無理だ、っていう所に、技術的な検証は加えられないもんだろうか。考古学者だけじゃ、扱い切れない話題だと思うんだが。

そして、質量。
いわゆる「物理量」として質量。これは、三次元的な「物理」モデルでしか存在しないと、自分は感じた。ごめんなさい、自然科学に軸足を置く、と言いながら、今僕は、左脳は使わず、右脳だけで言葉を発しているかも知れない。もっと言えば、脳じゃなく、自分の感性だけで書いているかも知れない。
三次元空間では「物質」が存在する。ただし、(しつこいな)超ひも理論では「重力」の扱いが極めて厄介だったと思うけれども、少なくとも六次元以上では「質量」をもつ「モノ」の存在を否定しないと、理論が成り立たないんじゃないか、と感じた。考えてはいない。ただ、もし何か考えているとしたら、師匠の講演内容からの逆算。六次元は、神の実在を確信した方々の世界で、六次元以上でなければUFOには乗れない。UFOに乗るということは、神の肉体を自在に行き来できる、ということで、意識体としての純粋さがなければ、まず無理だと理解する。いや、神の実在は信じないけれども、宇宙には出たい、ということならば、亜光速で移動したらいいんじゃないでしょうか。ただし、肉体の「凍結」は無理。すでにアメリカなんかで肉体を冷凍保存している方がいらっしゃるようだけれども、肉体が「意識体」を受け入れ可能でないならば、その意識体は抜けざるを得ない。受精卵ならいざ知らず(受精卵に、どのタイミングで「意識体」がどのように入り込んでくるか、という話題も、講演会では細かく聞いているけれども、)一旦成熟した肉体を「凍結」したなら、それは、自動車事故で肉体が激しく損傷したのと同じで、普通の「意識体」さんは、入っていられなくなる。自動車事故、と書いたけれども、我々の「肉体」と「意識体」の関係は、運転している「自動車」と「ドライバ」の関係に極めて似ている。車が大破したら、ドライバはそこに留まれない。それだけの話か。
超ひも理論で扱う「質量」を、多次元空間に持ち込むのは、アプローチとして間違っている可能性が大きいと思う。重力場の扱いが、一番やっかい、なんだと理解しているけれども、むしろ、重力場とか「質量」は、多次元宇宙のエネルギーの投影として扱うのが正攻法だと、私には思えた。

次に、大槻先生。大丈夫です。神様、ちゃんと大槻先生の意識も読まれているし、ご本人がテレビでプラズマとかあれこれおっしゃっていても、大槻先生がちゃんと「霊」とか「神」の存在を信じていらっしゃることは、伝わっているみたいで・・・。ただ、営業的に、テレビであれこれ話されていることも、伝わっているみたいで。
自然科学っていうのは、デカルトの弁証法ではないけれども、「否定して、否定して、否定し切れないものだけを真実と認める」みたいなところがある。他に可能性があるならば、その可能性を潰すことが先になる。その辺の事情すらも、神様って方は、我々とは桁違いだから、完全に理解されているみたいでして・・・
だから、「不存在の照明」に対する「反例」をたった一つ示すために、モーゼ様とか、イエス様とか、(イスラム教徒の方、ごめんなさい、ムハンマド様は格下で、)アッラー様だとか、そうした方々が、あれこれと、「簡単には、神を信じようとしない人間」に対処するために、四苦八苦されてきた。(師匠もたぶん、四苦八苦されている。)僕は、全然苦しんでいませんけど。(仕事の納期が、気になるだけで。)
話がそれて、もしも僕が、ピンポイントで金正恩に(いわゆる「呪い」を)仕掛けて、あの人を排除出来たとする。でも、たぶん、拉致被害者の帰国には直結しない。あの国は、そんな単純じゃない。

さらに話が逸れて、北朝鮮。
僕が今一番気になるのは、在日北朝鮮人。韓国は、とりあえず脇にのける。事実とか理論とか、そうした議論は出来ないので、除外。拉致被害者が帰国できなければ、在日朝鮮人の方々が「割りを食う」と思う。順番逆だろう。拉致日本人が帰国すれば、日本国内の世論がかなり変わる。そうなりゃ、外務省の「人道支援」だって動けるのに、金正恩、今まで、北朝鮮がどれだけ在日朝鮮人のお世話になってきたか、理解しているんだか。

で、なんの話でしたっけか?呪い?重力場?

あ、支配欲。
これも、師匠の講演会で、過去600時間の間に、5回以上は話題になったと思う。(不確かな記憶ですが。)
人類が持つ、最悪の「欲」の一つが支配欲。ルシフェル様、偉大な天使が堕ちた時に、肉体を持たれたお名前が、モンゲール・アウル・サウタンで、6番目の天使が、6つの霊能力(予知、心を読む、人を操る、動物を操る、などなど)を駆使して、6つの大罪を犯した、っていう、あの、キリスト教と、イスラム教と、ユダヤ教の、共通経典に書かれている奴か。(間違っていたら、ごめんなさい。)
この支配欲。今の日本人が、一番気にしなけりゃならないのはこれ、だと思う。最悪のわかりやすいサンプルは、トランプだと思うけれども。
金正恩の支配欲と、トランプの支配欲と、この喧嘩、どちらが勝つか。ぶっちゃけ、頭のいい金正恩が負ける。トランプの方が頭が悪いから(バカ、って書くと、差別語らしいから「頭が悪い」と書いた)自分の行為の影響範囲を、より「読めない」のはトランプ。だから、なんでも出来る。そういう人が、過去何人も戦争を起こしてきた。この類の喧嘩は、頭のいい方が負ける。
誰がどんな支配欲を持とうが、僕はそれを「否定」する立場にない。神ですら、「否定」はされない。「いつか気づく」ことを、信じられないほどの忍耐強さで、待たれている。それを知らないのは、人間だけ。神ですら、人間を「支配」してはいない。あらゆる「自由」を与えられた。国民の自由を制約しているパンダの国があるけれども、あれは、かなり「問題視」されていると自分は感じる。おそらく、何を言っても通じないから、最後は「強硬手段」になるのかもしれないけれども、それは神様次第。私にはわからない。

米朝はどうでもいいが、拉致日本人を日本に返さなかったら、日本の総理は、トランプよりは賢いと思う。話題を変える。

全てのヒトは、自分自身の判断で、行動すべきだと、その「自由」を与えたはずだと、神がお考えだと自分は理解する。自分の経験から、他人に助言する程度は許されていても、明らかな誤りは「お前はこうしろ」と命じること。ところが、宗教そのものがそうした「神の思い」に背いている。「あなたはこうしなさい」と指図しない宗教がどれだけ多いか。って、宗教の話じゃない、金正恩の話だったっけか?訳が分からなくなった。バチカンも、金正恩も、バグダディも、どこが違うのか、よく分からない。この文脈では。
で、じゃぁ「自由」を勝ち取った国で何が起きているか。結局殺人に強盗。ヒトには、その程度の「自由」の享受しかたしかないのか。

で、何を言いたかったか。

別に何も。
いや、師匠にはとっくの昔にバレてるけれども、今日のこの文章、アルコールが入った状態で書いています。シラフだったら、僕は多分、全ての言葉を飲み込んで沈黙する。ガキの頃から、ずっとそうだった。何も言えなかった。話題が飛びまくっているのは、もう仕方ない。(黙っているだけで、いつもそう。)願わくば、一応は言葉として成立していることだけを祈る。

明日は、明日こそは、朝から仕事に全力集中したい。

結果

一週間が終わった。一つだけ、大幅に予定を遅れている仕事がある。その話題は、いずれ書く機会があるんだろうと思う。割り込み処理の最中にも割り込みが入る。疲れた。土曜の夕方。走りに出たら、膝と腰にきた。体が固まってしまっていて、ほぐしきれない。途中でUターン。妙な疲れ方だけれども、妙に充実している感もある。変な感じ。

しばらく前に見た映画。遠藤周作さん原作のあれ、です。信仰って何なんだろうかと思い出しながら走った。いや、異論があるのは承知で書けば、師匠の講演会では、時々直接ある方の言葉を伝えてもらうことがある。イエス、モーゼ、多くの方が、その方の「言葉」や「思い」を伝えようとした。内容は書けないけれども、感じたままに考えたことを書くならば、結果について極めてシビアな方だという気がした。(「方」という言い方はおかしいかも知れないけれども、人間の「意識体」の大元だから、やっぱり「方」なんだろうか。)

「その方」の思いに従って日常生活をしているならば、殺すことはもちろん、他人を傷つけることもないはず。自分が傷つくことがあっても、その原因を考え抜いて、自分を変えて行けたなら、必ず器が大きくなって上に戻れるはず。それが「結果」の一つだと私は理解している。誰かを傷つけるような言葉を発しない。自分を守るだけのための嘘はつかない。それら全てができていることが「結果」であり、肉体を抜けた時にその「結果」は歴然とする。逆の言い方をするなら、肉体を抜けるまでわからないかも知れない。

無論、私も(一応・・・、基本的には・・・)今自分が存在している、そのことだけで、その方への感謝の祈りはしている。(一応・・・と書いた理由?適当に推測してください。)けれども、別に特別の場所にいく訳でも、どこかに向かって頭を下げる訳でもない。相手が誰かを理解した上で感謝の思いを持てば、そのまま届く。で、実は形式的に「ありがとーございますー」なんて感じで思いが伴わない言葉だけ投げたりしていると、「鬱陶しいからやめろ」と言われたりもする。逆に言えば、届いている証拠なんだろうけれども。
結局、毎日どこかに向かって祈ってます、とか、そういうことではなく、日常生活で自分がいかに「あるべき」かを考えながら生き続けていくこと、その結果として、前述したように誰も傷つけることなく、一人でも多くの「異なる考え方」を受け入れて理解し、そして肉体を抜けて上に帰ることができれば「それが結果」だし、その「結果」が出せなければ、いくら「毎朝、神様ありがとうございますと、祈り続けました、」と言っても、一応聞く耳は持ってもらったとしても、事実として器が小さくなった分、「進化」ではなく「退化」してやりなおすことになる。なんとなくだけれども、最近その辺が妙に細かく理解できて来た気がする。何と言っても、我々自身があの方の肉体の一部だから、誤魔化せるはずがない。

決して、他の方の信仰を否定するつもりはない。ただ、今私が聞いて理解しているのは、こういうことだ、ということを書いただけ。なぜ、なんのためにという部分で根本的な違いはあるものの、やっていることには、遠藤さんが描かれた信仰などに重なる部分もある。

なんのことはない、仕事と同じ。納期が割れているのに、「ごめんなさい、今一所懸命やってます」なんて言い訳して、一応は聞く耳を持ってもらったとしても、それこそ、一刻も早くモノを仕上げなかったら「結果」を出したことにはならない。

最後まで「あの方」で通すつもりが、結局何ヶ所か例のあの単語を書いてしまった。走りながら、ぼんやりと考えていたんだか、感じていたんだか・・・。なんだか、これも仕事と似ているなぁと思った。ただ、それだけ。なんやかやと意識がそちらに向いてしまって、目の前に仕事に集中しきれなかったのは事実で、少しずつ、モヤモヤがスッキリしつつあって・・・多少は好転するかも。

ごちゃごちゃ書いていないで、すぐにも「結果」を出さなきゃならない仕事が一つあるんだが、走って来て体がほぐれて、他の優先順位が高かった仕事をなんとか片付けたので、これから集中します。今、生きていて、こうして仕事があるだけで、感謝。