台風12号

日照りで干からびていたから、農作物にはいい雨なのかなと思っていたら、何とも両極端な・・・

今日、小川町は七夕祭りだったんだよなぁ・・・花火大会は明日に延期。飾り付けをする人も大変だろうな。

なんていう、呑気なことを書いていて、被災地の方ごめんなさい。

仕事は・・・色々と新しいものを一度に試し過ぎて、若干の混乱が・・・
「過去の経験が通用しない」かぁ・・・

・・・ 点々々ばっかし。切れ味悪い。
ちょっと疲れた。慢性的な停滞状況。
気分転換が下手くそ。

文明考

死刑制度について、つい、突っ込んでしまった。
言葉を発してしまうと、リアクションというか、フィードバックが怖い。考えている訳じゃないのに、何か流れ込んでくる感じで、毎回僕は体感で、自分が発した言葉の解釈され方に振り回されている。そういう体質なんだろう、きっと。
あんまり、仕事に集中できないなぁ。天災にしても事件にしても、何もないのがありがたいけれど、つい反応してしまう。深くは考えない。これで良かったのかは、死んでから(肉体を抜けてから)じっくり反芻することにする。

生きること自体に、必死になる必要がない、そういう世の中になった。少なくとも日本では。
いや、昔っから、親のすねかじりというか、何も考えずにノホホンと生きていける羨ましい奴らは少なからずいたけれども、昨今はそれが当たり前になった気がする。サラリーマン制度、雇用制度の目指した姿なのか。
結局、「自分は何のために生きているのかわからない」なんていう結構重い課題を抱えて、迷走する若い人たちも増えたんだろうか。「食うために必死」なら、そんなことを考える余裕はなかったはず。(ってか、今僕はその「必死」の側なんだけれども)

言わせてもらうならば、そうした状況(生きる意味を考える余裕がある状況)こそが「望ましい社会の姿」かもしれない、とも考えている。師匠の講演会の話題。なぜ「通貨」は発明されたのか。「お金」を敵対視する宗教が少なくない、例えば「お金があるから人が欲に迷う」から「お金は罪悪だ」的な(だから、教祖様にお金を全部差し出しなさい、的な・・・)そういう宗教もある中で、師匠は短く簡潔に「お金」の存在価値を説明された。
「価値」を保存し、物々交換のための多大な労力を排除し、価値の評価を客観的に行うことで、生きるための「オーバヘッド」(間接経費、間接作業)を一気に小さくした。
生きる(=肉体を持つ)ということは、何層にも階層化されている「意識体の世界」(=霊界)では出来ない経験をする、ということ。私の感覚では、肉体がなくても意識体として生きている方々が少なくないから、「生きる」という言葉の使い分けが難しいけれども、とりあえずこのページでは「生きる」とは「肉体を持っている」という文脈で書く。
肉体を持つことによって、自分と「波長の合う」人たちと、だけではなく、あらゆるレベルの人と相互干渉することが可能になる。この「レベルが違う」というのは、別に「優れている」とか「劣っている」とか、そういうことではなく、ただ単に、「意識体」として生まれた時期が違うから、経験値が違うというそれだけのことで、レベルが低い人が「劣っている人」だなどという気は毛頭ない。例えて言えば、コンピュータ・ゲーム(RPGなど)で、ゲームを始めた時期が早ければ「経験値1000」なんていう人もいるだろうし、始めたばかりでゲーム世界に入り込めば、最初は皆「経験値1」あたりから始めるんだろう。それだけのこと。

現実問題として、自分よりも意識レベルの高い方と知り合って、その方の本気を伺うと「きれいごと」とか「絵空事」としか思えないような話題を列挙されることもある。しかし、それらを「実現」するための具体的な視野を持って、着々と進めている場合すらある。ご本人はごく自然にそれを語っている場合も、少なくない。あ、この人はそういうレベルの方なんだ、と自分は考える。ところが、そうした「自分の思い」を本気で伝えても、「何言ってんだ、このアホ、そんなこと出来るわけないだろう」とか、「カッコつけてんじゃねぇ」とか、そんな程度の反応しか返ってこないことも、少なくないと思う。わかりやすく伝えたつもりの比喩表現の解釈ですら、全く通じない場合も少なくない。
この年齢になって思うけれども、それは、自分の本音を伝えて、それを自然に理解してもらえる相手と、意識レベルが違いすぎて、全く通じない相手と、両方ともいる、ということで、それが「意識レベルの違い」ということなんだろうか、と思っている。相手に合わせて表現を変えなければ、意思疎通が出来ない。さらには、本音を伝えてもそれが全く通じないレベルの相手もいる。それがこの世界だ、と感じている。RPGのように、あらゆる「レベル」の人が強調したり、争ったりしている。わかりやすいのは、トランプ。

ところが、肉体を抜ければ、自分と同じ意識レベルの相手としか接点を持たないから、低すぎる相手に振り回されることもない代わりに、高すぎる方々がどういう考え方をするか、どういう生き方をするかを知る手段すらない。その両方を知ることができるように、意識体を無理やり「肉体」という「共通の舞台」に押し込んで、「ヒト」を成長(上のレベルに進化)させるために、この世界が神によって創造された、と自分は理解している。「ヒト」は「猿」の延長じゃない。創造された経緯が違う。

つまり、肉体を持つ(生きる)なんてことは、そもそも、容易じゃないように仕組まれているんだ。生まれてから死ぬまで、何一つ不自由なく幸せいっぱいで、人生の軋轢なんて全く感じませんでした、なんて方は、大方肉体を抜けてから、「あ、あれが出来たのにやらなかった、これも見逃した」なんていうことを後悔して、数百年に一度のチャンスを「一回休み」にしたことに気付くんだろうと思う。セカオワの歌の歌詞にもあったかな。

通常の感覚で言えば、「生きる」ということは「肉体を維持する」ということにつながる。食う。食うために働く。その部分に必死になれば、そのプロセスで人と出会って、自分とは違う意識を持つ人との接点を持っても、そうした方々の意識を取り込む余裕なんてまるでない。僕が生まれて育った昭和の中期(「戦後」がようやく終わった頃)は、そうした時代だったかもしれない。逆に、だからこそ人との接点が重要になって「生きている」実感を感じる側面もあった、そうした逆説的な解釈も、無論成り立つ。
今は「肉体を維持する」ことへの労力が、かなり低減し、ただ単純に制度に乗っているだけで肉体は維持できるようになってきている。他人との接し方に神経を遣う必要すらない。その結果として「何のために生きているんだ」という部分を関心事として意識する人が増えているんだと感じる。むしろ「意思疎通困難な他人と接点を持つ」部分に専念できるように、文明は発達して来たんじゃないか、と、僕は考える。

「自殺したいけれども、その勇気がないから死刑になりたくて人を殺した」という人は、マジョリティではないと思う。ただ、そこに至らないまでも「何のために生きているのか、わからない」という人は、少ないとは言えなそうだ。でも「いい点に気づいたね」と言いたい。「その答えを見つけること」自体に、まずは意味があるし、その「何のため」を実行したなら、そのプロセスにも全て意味がある。と、私は思う。

ただ、「このこと」がわかっていないと、何のためにヒトは文明を発展させてきたのか、という答えは出ないかもしれないと思った。その「このこと」というのは・・・
「生きる」ということは「肉体を持つ」という部分に限られていない。肉体を抜けてもヒトは意識体として「生きて」いて、その意識には「継続性」があって、肉体を持つ前も、肉体に入っても、その肉体から抜けても、「私は私」であり続ける。そして、肉体を持つ間に、様々なレベルの意識体と出会って接点を持ち、意識体の相互作用でエネルギーが大きくなれば、ヒトとしてのレベルが上がる(経験値が大きくなって、スケールアップする=進化する)。
そうした「仕掛け」があることは、感じ取ることが無理でも、知って欲しいと思う。この前提の理解がなければ、僕のこのページは論理的に成り立たない。

こういう話題を書くから、「あ、変な宗教だ」とか言われそうで、腹立たしいけれども、個人的には、自然科学としてヒト全般に当てはまることを証明したい、と思ったこともあった。私にゃ、無理かも・・・。「変な宗教に染まっている」なんていう言われ方には、反発したい。ただ、「マッド・サイエンティスト」扱いならば、甘んじて受け入れます。僕は最初から、この話題は「自然科学」だと思って書いている。

最後に要点をまとめたい。(論点が、どうズレているか、自覚がない。)
人類が「文明を発展させた」理由は、「生きる=肉体を維持する」という部分の間接コストを下げて、「生きて、少しでも多くの意識レベルが異なる人と接点を持つ」ことが出来るように、すること、じゃないかと思う。

死刑制度

「死刑制度 維持する必要ある」上川法相

死刑になりたいと望んで引き起された犯罪事件の一覧

死刑になるのが嫌だから人を殺さない、なんていう理性が働くような人は、そもそも、自分が生き続けることへの執着を持っている気がする。結果的に、そういう人は、相手も「生きたい」という思いがあるであろうことを前提に考える、と思う。その上での犯罪ならば、原動力は憎悪だろうか。

厄介なのは、自分が生き続けることへの執着がない、投げやりな人で、今増えていないか?時代が大きく動いている。簡単に生き続けられる世の中に変わって来たからこそ、犯罪の性質も変わる。当然、抑止するための視点も変わらなければならないはずだと思う。この人たちには、死刑は抑止力にならない。

犯罪の抑止力という文脈ならば、死刑よりも無期懲役で、「何十年でも自由を奪われたままで働け、自分のしたことの意味を何十年でも考え続けろ」と、その方が抑止効果があるんじゃないか、と個人的には思う。

歴史認識

日本は散々、中国やら韓国やらからこれを言われている。確かに、悪いことも随分やっては来たと理解するが、言いがかりも少なくない気はする。
ただ、中国に関しては、欧米などにも記録が残っている「史実」について客観的な判断を下してもらいつつあるようで、いや、「史実」を無視して感情論だけで押し切ろうとしても、不利になるだけなのは、中国人には理解できるんだろうと思うけれども、自分たちが「史実」を無視している(というよりも、学校でもあえて教えないことにして、虚偽の歴史を教えている)ことに、一般の人が気づいていない近くの国もあって、そちらはまだ、根深そうだ。ただ、感情論だけで押し切るつもりなら、国際的には、日本にとってそれほど気にする必要はないような気はする。信用を落とすのは本人たちだから。

で、決壊したラオスのダムはどこの企業が作ったって?日本じゃ、自然堤防は決壊しても、ダムの決壊はあんまり聞かんなぁ・・・で、ビルの耐震性はどうなんだろうか。「まさかあの国で大地震が」の、まさかは、今はもうどこで起きてもおかしくない。

イランとアメリカが、また不穏だ。というよりも、個人的な意見として、欧米人はもっと「歴史認識」すべきだという気がする。植民地支配は、日本が散々言われていることだけれども、植民地でなくても「契約」を著しく自分たちに有利にして、挙げ句の果てに国営化されちゃった「歴史」は、どこに行っちゃったんだろうか。

加えて、古い話だがパーレビ国王の支持。極めて個人的に、いわゆる「世俗化」の部分は、たぶん僕の考えはホメイニ師とは噛み合わず、神が与えてくれた「自由」を宗教が制約してはならないと、僕は個人的には理解しているけれども、幸いなことに生きている国が違うし、接点もないからただ単にそう思うだけ。ただ、パーレビ国王ご自身の放蕩や自国民への強権やらが、民衆の反発を招いていたのに、アメリカはそれを斟酌しなかったという部分は、大問題だろうという気がする。パーレビ国王の国民への接し方は、なんだか北朝鮮を彷彿させる。夕食をフランスから空輸させた、なんていう話もどこかで読んだ。そういう国王だったらしい。
そういう国王をアメリカが支持していたのだから、イラン国民の目で見たなら、おそらくアメリカが国王のイラン国民への残虐行為を容認し、ただ国王だけが贅沢することをアメリカが認めて、そして傀儡にしていた。その部分をおそらくは、アメリカでは教科書でも教えていない。当然、トランプはそんな「歴史」そのものを知らないだろうし、仮にアメリカの教科書でそれを教えていたとしても、それでもトランプにはそんな「歴史」の意味を理解できない気がする。
だから、いわゆる「共和党」の決まり文句で、「イランは悪い国だ」なんていう、アメリカ大使館事件以来のフレーズを蒸し返して、いい加減に終わりにすりゃあいい「対イラン経済制裁」の蒸し返しに躍起になっている。

世界的な貿易摩擦の元凶が誰かは、もはや全世界の懸念するところとなり、政治的にはあらゆる場面で、なんというか、「大国の論理」を平然と押し通すことが問題となっている。トランプ後の世界を元に戻すのに、一体何年かかるか、という状況じゃないだろうか。

温室効果ガスの問題については、もう随分前から指摘されていた。データも、かなりはっきりとしたものが揃っている。それなのに、「あんなのは嘘だ」みたいなトランプ・・・。日本では「つける薬がない」という表現で括る。アメリカと中国が動かないなら、日本でも42〜43度、中国でも内陸の大都市で50度越え、アメリカでは中西部で60度越え、なんてことは、想像するに難くない。米中はギネス記録更新に命をかけてるのか。ギネス更新の競争、有利なのは中国か。これまで温度計がなかったところに、設置すりゃいいだけの話。

そして、これら全てがいずれは「歴史」になる。きっと50年後には「民主主義の落とし穴」あるいは衆愚の好例として、世界中の教科書でトランプが取り上げられることは、想像するに難くない。

朝採り野菜

百均と郵便局に用事があった。
今朝、麦茶を凍らせようとしたら、冷凍のまま放置してあった梅を見つけてしまい、ついでにラッキョウ酢を買いに、外出。

なんとなく過ごしやすいな、と思ったけれども35度。昨日まで39度とか、駐車場だと42度とか、もう無茶苦茶だったから、ちょっと風が吹くと35度の熱風のはずなのに、なんとなく涼しい感じすらした。なんだか感覚が狂ってる。でも不快じゃないから、感覚も狂ってくれた方がありがたい。

事務所の冷房は30度で、(前にも書いたけど)人間ナメクジ状態だから、本人はちょっと風があるだけで涼しいんだけれども、周囲の人から見たらきっと、一番近寄って欲しくないアブラギッシュなジジイなんだろうな。ギトギトヌメヌメ。でも、事務所籠りの時には、周囲には誰もいませんから。

百均で、そうめんを見つけてしまい、梅干しと合わせて216円の衝動買い。しまった、この領収書、会社の経費に使えない。108円分くらいいいか、というズボラな私。事務所に乾燥食材のストック(炭水化物だと、パスタにそばに、ラーメンとか)が結構あって、なんだか2週間くらい「篭城」できそうなくらいになってる。生鮮野菜以外は肉や魚の缶詰もあるし、乾燥海産物、乾燥農産物などはかなりの量。水と火さえ使えれば十分サバイバルできるな、なんて思う。青年海外協力隊OBですからね。川の水でも雨水でも、普通にお茶に使ってたから、私なら平気。(帰国後の身体検査で寄生虫が出たけど。)

郵便局から、何となく農協の直売所に寄りたくなって、足を伸ばした。農協でキュウリとナスを衝動買い。キュウリ6本とソフトボール大のナスが2個で、それぞれ100円(本体93円)。それと、ハンドボール大の小玉スイカも250円で衝動買い。
合計450円の衝動買い。ナスとキュウリは、朝採り野菜みたい。
このまま値上がりしなければありがたいんだけれども、雨が降らないからなぁ・・・

事務所に戻って、ナスとキュウリをざく切りにしてフリーザパックに入れ、浅漬けの素(粉末)をかけて、揉んで、冷蔵庫へ。

それから衝動買いしたソーメンを、衝動的に茹で始めた。最近、和風出汁(粉末)とか醤油の使い方を覚えてきた。インスタントに、結構それっぽい味になってる。ついでに梅干し3個を衝動喰い。ソーメンを茹でている間に、冷凍の梅のフリーザーパックにラッキョウ酢を流し込んだ。ラッキョウ酢に漬けた梅は4パック目。3パック分は収穫してすぐに酢につけた。そのうちの一つを試飲。梅とお酢だけなのに、かなり甘い。梅がみんな完熟だったから、砂糖を全く使っていない、お酢を加えただけの梅なのに、甘い。カルピス位の比率で割ると、すごく飲みやすい。今年は収穫が普段より2週間くらい早かったけれども、ほぼ全ての梅が完熟状態だったので(まだ早いと思ってグズグズしていたら、梅がみんな赤くなってしまって)どれもこれも、甘い梅ばかり。この夏は、このお酢だけで乗り切れそう。

ソーメンが茹であがり、食べ終えた頃に、キュウリはもう食べ頃になってた。超浅漬けのキュウリを衝動喰い。
ナスは、粉末の和からしも加えた。まだ早いかな、と思いつつ一切れつまみ食いしたら、小ナスの辛子和えみたいな感じで、いい感じになってる。キュウリは2cmくらい、ナスは5mm厚のザク切り。
今、フリーザーパックからドンブリに移し替え、パソコンの隣に居座っている。

かなりの量の「浅漬け」が出来てしまった。「衝動買い」を後悔。
キュウリはいい感じで、6本くらいすぐいけそうなんだけども、ナスがなぁ・・・。最初のふた切れは美味しかったけど、すぐに飽きた。飽きない味に漬けるってのは、案外工夫が居るかも。その点、キュウリはこの季節、どうやっても美味しく大量に食える。ナスは、どうしようか・・・

そして、あれを加えて、これを加えて、ってゴチャゴチャやっていくうちに、すごい味になっちゃうんだよなぁ。
でも、自分で色々試してみると、結構「思い知る」ことが多い気がする。

jQueryにしても、node.js、Ajaxにしても、今一つ「理解」が浅い。エラーを吐かれた時に、内部で何が起きているのか読み切れない。今日は、煮詰まるばかり。ですけどね、いずれにせよエラーを出されるから調べて知識が増えていく訳で、やはり実戦投入は正解だったかな。

あ、そうだ。このナスにちょっとマヨネーズをかけてみようか。なんとなく想像はつくけど、やってみなけりゃわからん。

社会実験

朝のNHKニュース。小学生、中学生が次々と熱中症になったとのこと。
「命に関わるような危険な暑さ」という状況は、確かに理解できる。けれども、決定的な問題点が一つあると思う。

今の若い人たちの大半の「汗腺」の数が大人に比べて数分の一、ほとんど「汗腺」が発達していないまま大人になっているらしい。子供の頃からエアコンの効いた環境の中でしか生活していないから、汗がかけない体に育っている人が大半だと理解している。

昨日のラジオ番組。親たちが「子供がエアコンのない学校で、悲鳴をあげている。税金を払っているんだから学校にエアコンを設置しろ」という投稿をしていたようで、気持ちはわからんでもないけれども、絶望的な気分になった。今の若い人たち、特に子供たち、サバイバルできない子供が増えるだろうな、と思った。
悪いんだけれども、大人になれずに死んじゃう子供が増える、そんな気がする。環境適応能力を子供から奪っている、と思う。「お前は子供がいないから、親の気持ちがわからないんだ。」ああ、そうですよ。その通りです。だから、黙ってこの壮大な「社会実験」をただ見ていようと思う。
でもね、会社が若手の社員に「顧客回り」を命じたら、暑さの中で倒れちゃいました、なんてのが日常茶飯になりそうな気がする。

それは、免疫についても感じる。神経質なくらいに「キレイキレイ」にこだわる親。日常生活の中で自然に身につくはずの免疫力を子供から奪う。ほんのちょっとした食中毒で亡くなったり、そういう事例が増えるような気がする。僕の教え子にもいた。「原因不明」の感染症疾患。なんだか、あっという間に亡くなったらしい。まだ若かったのに。
あるいは逆に、免疫力が攻撃するべき雑菌が周囲にないのに、「免疫力のつく食材」なんかを与え続けた挙句、免疫系が激しく自分の体を責めたり、あるいは花粉症のような免疫系の暴走を簡単に誘発し、そのうち、「この子には、小麦粉アレルギーとお米アレルギー、とうもろこしアレルギーがあります」なんていう、食べられるものがないような人も増えたりするんじゃなかろうか。体が敵味方の区別をつけられず、ガンのような内部の異常細胞は味方と勘違いして攻めなかったり、その結果小児がんや若年性のガンが増えたり。さあ、どうなっちゃうんだろうか。口出しできる問題じゃないけど。

無論、暑さにしても雑菌にしても、暑くても我慢しろとか、汚い方がいいなんていうつもりはない。「適度」ってものがあると思うけれども、その「適度」を奪う、潔癖症な親が増えて、環境虚弱な子供が増えるんだろうな、とは感じる。はい、発言する資格のない私は、こうやってボヤくだけで、あとは黙って見てます。

Colonia Dignidad

「コロニア」という邦題の映画のDVDを借りた。見終わった。

昔だったら、濫読したいところだけれど、最近、目が疲れちゃって・・・(仕事で、プログラムを読むのが精一杯)あんまし活字は読みたくない。
美しい日本語を書きたいから、もっと活字を読みたい。若い子たちがとても読めなそうな難しい単語を並べて、自己陶酔したい気分はあるんだけれども・・・って、全然、そういう書き方してないじゃんか。
虚勢をはるのは、やめよう。
いや、でもね、高校時代(あの高校で)学年一位の偏差値70越えを記録した唯一の科目が、理系の僕なのに、あろうことか国語だった、という不思議な思い出があって・・・。やめよう、ウザい。でも、日本語は綺麗に書きたいんだけどなぁ。

なんなんでしょ。師匠の影響を受けて、というか、やっぱり自分の趣味か、最近映画にハマってる。それも、昔の濫読よろしく、ジャンルはなんでもありで片っ端から、目に留まったものをレンタルして、見ている。結構楽しい。

楽しいんだけれども、重かったのが、この「コロニア」という映画で・・・「宗教」の名を借りた「支配欲」の発露。こういう世界を作っちゃう人たちがいるから、「神」という単語を使うことにものすごく抵抗が出てくる。いやだなぁ・・・。僕が自分で納得している、師匠の講演会から感じている「世界観」は、全ての人間が「あらゆることを、自分の意思で行う自由」を与えられている、ということだろうか。

極論する。「あらゆることを行う自由」に、「人を殺す自由」は含まれているのか、という質問があったなら、僕はこう答える。「そんなもん、良いはずがない。だけれども、殺してしまう人は確かにいるでしょ?ついでに言えば、自分自身を殺してしまう人だって、いるでしょ?それが、良くないことだと、自分自身で理解して納得して、そうした行為をいつかは行わなくなることを、神は信じているから、黙って見守っている、と私は理解している。気付け!と。その本人が気付くための機会を与えるように、本人が気づけるように、一つでも上の世界を見ることができるように、周囲は助けてあげなきゃ。そして、殺したその本人には、自分の解釈した【自由】なるものが、必ずしも神の望んでいる自由ではないことを、自分で気付くための【自由】が与えられている、と僕は思う。」と、そんな感じなのかな。説明しがたいけれども、これが僕にできる精一杯の表現。

何に触発されてこのページを書いたか。疑問を持たれた方は、是非「コロニア」という邦題のこの映画をご覧ください。そして、師匠の講演会から僕ら会員が聞いたり学んだりしている内容が、果たして危険な思想なのか、反社会的なのか、疑問を持たれる方がいらっしゃるなら、僕はこの「コロニア」の世界を全否定しているし、師匠もこんな世界は考えていらっしゃらない、もしこの「コロニア」のような世界を考えているなら、僕がこうして好き勝手をWEBに書くなんていうことが容認されているはずがない、この「コロニア」の世界を全否定したい私の主張で判断をして欲しい、と思う。全ての人には「自分で、自分の行動を決める自由がある」と私は思う。(国によっては、制限しているみたいだけれども、)少なくとも神は、その「自由」を与え、じっと「結果」を待っていらっしゃる、と私は理解する。その「自由を与えた」ことが、「パンドラの箱」の比喩の、真の意味だと、私は理解する。

「支配欲」の醜さに、気付かない人が多い気がする。他人を自分の思い通りにしたい欲。その真骨頂のお二方が、昨日だか、一昨日だか、会談していたなぁ。いや、「支配欲」があっても、結果的に正しい判断をしているなら、まだ容認できるけれども・・・

ところで、全く下世話な話ながら、この「コロニア」を主演した女優さん、僕が以前知り合ったある人にとても似ていて、すごく懐かしくなった。ついでに言えば、主演した男優さんの雰囲気も、その人のご主人に似ていた気もして、ただただ、懐かしかった。こういう映画の見方も、あるんかなぁ・・・また、Home Brewのビールをご馳走になりたい気分に、ちょっとだけ浸っていた。

土砂災害危険地域

昼飯食った後、テレビを見ていてふと思った。

昔、日曜日に講演会に行ったりしていなかった頃、「噂の東京マガジン」だったかな、番組で取り上げていた「問題」に、この「土砂災害危険地域指定」の話題があった。と思う。たぶん。

どういう問題かと言えば、行政が「危険地域」に指定すると、土地や住宅の価格が下がってしまい、造成している業者などが損をする。だから、業者が行政に働きかけて「危険地域」の指定をやめさせたり、あるいは、売り抜けるまで待ってもらったり、そういう問題だったと思う。たぶん。
時代を考えたなら、場合によっては×力団の力を借りたりとか、そういうこともあったんだろうか。

今、どんな感じなんだろうか。行政は透明に、本来「危険地域」に指定するべき場所を、きちんと指定しているんだろうか。あるいは、意図的にランクを下げたりとかしていないんだろうか。

知らずに買わされた人たちも、いるんだろうか。あるいは、昔は「危険地域」なんて気にする人は少なくて、「あ、安い土地だ、ラッキー」みたいな感じだったんだろうか。もし行政が意図的に「危険地域」指定を遅らせたりして、結果的にそこに住むことになってしまった人がいたとしたら、行政は責任を取る必要はないんだろうか。

日本では「居住の自由」も憲法で保証されていて、どこに住もうが(ルール内で)勝手、ということはあろうけれども、何らかの詐欺的な行為で危険地域に住むことになった人たち、あるいは、科学的なアプローチによって昔から住んでいる土地であっても「危険性が大きい」ような土地から「危険性の低い土地」に移転することを、住民が希望したような場合に、何らかの支援とかはないのだろうか。

多くの人命が奪われてから「やっぱりあの土地は」なんていう、いわゆる「後知恵」は、後出しジャンケンみたいだし、便乗した議論みたいで、書いていて心苦しいけれども、特にもし「騙され」たりした人とかの場合、経緯によっては行政が何か、できることをすべきじゃないか、という気がした。

よく地形の話題などでは、「川が長い年月をかけて、この地形を」なんていうフレーズをよく聞いた気がするけれども、一気に1mとか(それ以上?)堆積するなんて、「長い年月」じゃないのかも知れない、という気がした。やっぱり、いつどこで起きても不思議じゃないんだろうか。

(暑い。それにお腹いっぱいで、頭がぼーっとして眠くなった。)以上

設定30℃

用足しの外から戻ったら、エアコンが効きすぎてる気がした。でも、確か一昨日も似たようなことを考えて、30℃に設定していた。これ以上あげられない。

30℃の設定温度で「冷えすぎてる」気がした、なんてのは、これが初めてかも。いかに外が無茶苦茶に暑いか。

今僕の車、エアコンが壊れてるから、ちょっとした拷問。熊谷ナンバーの凄さを、思い知れ!みたいな・・・

それはそうと、今日何行プログラムした?>> 自分
うるさいなぁ、今からやるよ。

なんか知らん、雑用ばっかしやってた気がする。あ、自治会保険なんてのもあったな。(もう忘れてる。)

自治会保険

保険屋さんから突然のお電話。
自治会会計として、保険料の支払いの手続き。そして、保険屋さんとの世間話。

これまでほとんどなかった「保険金/見舞金支払い事例」として、町内、自治会の集会で、集会中に転倒して骨折、あるいは、区長さんが回覧板を各隣組長さんに配布している最中に、やはり転倒して骨折、などの支払いが出ているらしい。今後、増えるんでしょうね、なんていう世間話。

区長会の年会に、参加できる時は参加した。日曜日は原則、師匠の講演会だけれども、日程が会えば、あるいは、近場なら戻ってすぐに参加したりできる。近場なら、朝の清掃活動に参加してから、講演会に参加も出来るし、「地元」というのはありがたい。
その「区長会」の参加者は、僕など、かなり若い部類で、80代の方とかもかなりいらっしゃる。無論、かなりお元気な若々しい方もいらっしゃるが、あまりそうでない方もいらっしゃる感じで・・・

加えて、自治会活動に参加する組長さんたちも、やはり高齢者が多い。息子さんとかが同居されていても、お父さん、お母さんが出て見えるケースが多くて、僕自身も親父が生きていた時は親父に出てもらい、僕は逃げていた。

6月30日に「自主防災組織リーダー研修会」なるものがあって、それに参加した。災害時の図上訓練(DIG;Disaster Imagination Game)に参加した。区長さんと「うちの自治会でもやりましょう」ということになった。自覚を持ってもらうためには、ここまでやらないと意識が徹底しない。一度、こういうのをやっておくと、いざという時の連絡や、お互いの声かけも、多少は違うような気がする。

と思いつつ、私の年代、まだ現役サラリーマンの世代の方々は、緊急時に地元にいるとは限らない。どうしても、リタイアした方々、地区の老人会の方々に、中心になって動いてもらわないとならなそうだ。
日中に大地震が来たなら、僕も区長さんも、地元に戻るまでが大変な場所に職場を持ってる。曜日によっては僕も地元にいるが、基本的には、僕だって忙しく客先を回って、システム受注の商談をこなすようになりたい訳で・・・あんまり「暇」だとは思われたくないんですけどぉ。事務所にいる時間が長いと、どうも暇だと思われている節もあるみたいで。
いずれにせよ、いざという時の「戦力」として期待されても、参戦することが難しいかも知れない。

町内の、(昔で言えば)超高齢の方々に活躍してもらうしかないんだが、こうして「転倒して骨折」のお話などを聞いてしまうと、なんだか、「役割分担」だの「自覚を促す」だの、こうした単語を持ち出すのが心苦しくなる。

でもなぁ、いざ緊急時となったら、高齢の方たちだけだとしても、互助活動として機能しないと、悲しいことになるかも知れないし。という訳で、「ぜひDIGをやりましょうよ、」と昨日も区長さんを焚きつけた。

具体的にっていうと、兜川の氾濫は、かなり考えにくい。上流の竹沢地区に集中豪雨があったとしても、この辺までは「土石流」はおそらく来ない。深谷断層帯などの震災による家屋倒壊。これも、この地区の岩盤の状態とかを考えると、確率的には低い気がする。
むしろ、想定した方がいいのは、富士山の噴火のような気がする。私の地元の関東ローム層は確か30〜50cm程度だったと記憶しているが、富士山の火山灰由来だと聞いている。火山灰が降って来た時に、公的支援が入るまでのサバイバルをどうするか、火山灰+雨で周辺がどうなるか、確率的には低いとしても、なんらかの想定は必要な気がする。
風向きによって、首都圏のどこかが機能停止することは容易に想像できるが、首都圏全体で見れば全てが「機能停止」するとは思えない。全体として「互助」が機能し始めるまでのサバイバルが問題になる。

自治会での備蓄など、雀の涙程度しか出来ない、とは思うけれども、皆無なのと、ほんの半日分、ほんの一日分だけでも「ある」のとでは、そのわずかな備えの有無が生存の境界となるかも知れない。半日分だけだとしても、公的支援の遅れをわずかでもサバイバル出来るように、考えるべきことは考えて、出来ることはやっておいた方がいいんだろうな、ということは考えた。

何かが起きそうだとしても、総理大臣とかは総裁選の根回しとかで、宴会をやっていそうだし。すみません、飲んじゃってました、アイ・アム・ソーリー、なんちゃって。

それ以前に、各家庭で数日分の備蓄を持ってもらうのが、優先するか。研修会ではそうしたお話もあった。家屋が浸水する、家屋が倒壊する、そうなってしまったら備蓄も意味はないけれども、そんな最悪中の最悪のことばかり考えていたら、何も出来ない。被災しなかった家屋の備蓄から、互助が機能することだって考えられる。備蓄のある世帯が多ければ、地区全体としてもサバイバル確率が上がる。火山灰が降ったら、おそらく相当な広範囲にわたって道路の復旧に時間がかかり、物流が途絶する。(鹿児島県あたりに、今の内に「指南」を仰いでおいたらどうかしら。)いや、自分の家の備蓄は、自分たちだけで使う、それだって構わない。互助っていうのは、強制する性質のもんじゃないから。田舎だから、その後何十年も、周囲に何かグチグチ言われるかもしれないけど。でも、自分の家優先は、本来他人が口出しできる問題じゃない。まず自分が生き延びてから周囲を助ける。当然それでいいと私は思う。

いざ、「噴火確率が高まった」なんていう警告のニュースが流れたら、モノが少なくなって買えなくなり、「本番」に間に合わないかも知れないから、確率が十分に低い間の方が準備はしやすい気もする。

そして、出来る範囲で出来る準備をしておいたなら、数パーセントの確率の事象に、いちいちオタオタしないのが得策、だとも思う。何も起きない確率の方が、はるかに高い。

で、その上で、じーちゃん、ばーちゃんたちにも、サバイバルの心得を自覚していただく、と。

転倒しにくい体になっていただく、転倒しても骨折しにくい体になっていただく、それはそれで別問題だけれども、独居の方が多いと、これも自治会の守備範囲になるかも知れないなぁ。

「イキイキ百歳体操」に参加しろ、と再三お声がけいただいているんですが・・・ごめんなさい、今僕は、システム開発を最優先してますので、自前の蓄えと、年金とで、悠々自適の状況が想定できるようになったら、そちらにも参加します。っていう感じかなぁ。こればっかりは、大した「公助」は期待できない。

「百歳体操」以外の話題については、会計の任期中は、しっかりと考えて、区長さんとか、相談役さんたちに相談して、場合によっては「前例」を作って、それから次の会計さんにバトンを渡したいと思ってます。

日本にいると・・・

何だか、わかった気がする。HTMLの透過性を考えたら、TempfileはASCII-8bitで保存するという基本設計は、十分に考え抜かれていた気がした。

そもそも、クライアント環境では、アラビア語みたいに右から左へ書く言語もあるし、Encodingをどうするかは、サーバサイドとクライアントサイドで扱うべき問題であって、透過性の担保がHTMLの責任か。

つい、日本語環境のことしか考えなくなってくる。鈍いなぁ・・・

ま、アメリカのことしか考えられないどこかの誰かよりは、たぶんマシかもしれないけど。
やっぱり、午前中が一番頭が働くのかも。(いや、トシかもしれない・・・)

RubyのTempfileで、Encoding情報が取れない・・・

表題どおり!

ruby on railsで、ファイルをアップロードさせます。受け取るファイルはTempfileクラス(テンポラリファイル)。

さて、Shift_JISで使う人、多いだろうな。でもUTF-8も増えてるはずだし、一応Encodingを調べて、EUCも含めた一通りに対応させよう・・・なんて思って、Encodingを調べて固まった。

ascii-8bitに変換されてる。既存のツールが使えない。どうしましょ!?

Shift_JISから変換されたascii-8bitと仮定して、Shift_JISに戻せばOK。UTF-8ならエラーが出るから、意図的にエラーを出させて判定するか?逆はどうだろう?UTF-8を想定して変換させ、エラーが起きたらShift_JISで変換させる、なんていう方法もあるか。でも、EUCだったらどうする?そんな人いないかなぁ。滅多にいないとは思うけれども、想定しなくていいのか?悩みどころだ。

昔、サザエさんの漫画で、こんな感じのがあったな。

「昼飯何にする?」「あの角を曲がって、最初にすれ違ったのが男なら、立ち食いソバ。女なら、カレーライス。」「もし、馬だったらウナギにしよう。」(池袋で?)

いや、EUCでファイルがアップされるなんて、池袋で馬とすれ違うくらいの確率じゃないのか?なんて、決めつけていいんだろうか。

それにしても、明らかにascii-8bitに強引に変換してるんだから、Encoding属性をどこかに持たせたっていいじゃない。ケチ!

まいっちんぐマチコ先生(化石か、あんた)

もういくつ寝ると夏休み

非常勤講師の学校の授業教材、なんとか夏休み前の分は、フィードバックをかけた上でも作り終えた。だんだん演習系が多くなって、定期試験は実施しない代わりに、毎回が真剣勝負っぽくなっている気はする。(切れ味は悪いけど・・・)
学校の先生どうしでも、「あと何回で、休みですね」なんて会話を、昔もよく交わしたし、今でも交わすかなぁ。休みが楽しみなのは、学生さんばかりじゃない。

ただ、その分、本業の方で「今日は、あれとこれとこれ」のような、時間刻みの目標設定を仕掛けないと、あまりいい結果にならない。頭の切り替えが面倒くさい。本業の方は、全く休みがない。こうして書くことが唯一の息抜きかなぁ・・・

サラリーマン時代は、とにかく日中は仕事にならなかった。「小林さん、外線入ってます」で、「はい、お電話代わりました。」「この度、マンションのオーナーさんを募集して・・・」うるさい。というのは、総務とかに文句を言えば、繋がないでくれるようになったけれども、こういうのもあった。
「あの、東北営業のSですけど」「はい、小林ですが、何か」「X大学のI先生が、お話ししたいとかいうことなんで、代わります。」「ロータス1-2-3なんだけど、グラフを作る際に・・・」使い方を教えてくれ、と・・・。ロータス1-2-3が何か、ご存知ない方は、気にしないでください。昔話です。
こういう電話を受けたあとは、元に戻るまでに小一時間かかる。「えぇと、何をやってたっけ・・・あ、そうそう、あれのデータ構造設計だっけか・・・このファイルが開きかけで、どこに手を入れていたっけか・・・ここのfor文を書きかけていた、何を反復しようとしていた?・・・そうだ、ここを含めて3箇所くらい同時修正しないと、ロジックが噛み合わないんだけど、どことどこだっけ・・・」全体像を正確に思い出せればOKだけれども、復元できないこともあった気がする。結局、スムーズに仕事になるのは夕方から、なんだけれども、夕方にはなんだかもう、気力が朝から半減している。そんなこんなで、仕事の効率は悪かった。会議が多い、なんてこともあったような気はする。で、結局社長は何を言いたかったんだ?みたいな。

今は自営業。全部が自分で管理。その代わり、この自己管理も難しい。テンションを上げることがまず最初の難関で・・・学校ってのは、ある意味「楽」かも知れない。教材の準備ができていて、あとは学生の前に立つと、勝手にスイッチが入ってくれる。そこはきっと、親父譲り、お袋譲りなのかも知れない。っていうよりも、生きた人間相手っていうのは、ひたすらマシンを相手に黙々と指を動かすのとは違う気もする。でも、授業が終わると、いきなり萎んだりして・・・凄まじい「ネクラ」が顔を出したりもする。

俺は、一体何のために生きているんだ?みたいな、ガキの頃からの重しのようなものが、全く外れない。「お前は、ただ生きているだけで、生きている価値があるんだよ」と、そういう接し方をしてくれた人が、いないもんなぁ・・・。あ、いたか、師匠がいたか・・・。でも、師匠だけだもんなぁ・・・つまらん。
あ、嘘です、ごめんなさい師匠。心にもないことを書きました。とってもありがたいことです。あ、「心にもないこと」なんて、つい嘘を書いちゃいました。つい本音が表に出ただけで・・・

やめよう、見苦しい。

心を裸にするのは簡単。でも、見られても何の問題もない、見られても何一つ恥ずかしくない「裸の心」を持つってのは、簡単じゃない。
本当に、見苦しい裸をしてますもんね。腹は出てるし。でも、見られることを意識しなければ、綺麗にしようとも思わない。

あ、夏休みが心待ちなのは、紛れもない本音・本心です。

余談ながら、3年ほど前の講演会で「本音」と「本心」の違い、というお題があった。まだ理解できてませんが・・・

deviseがコケた

rails version 5.2.0と、devise 4.4.3の組み合わせがうまくいかない。
routingパスがうまく生成されない。
devise_for userなのに、user_registration_path が registration_pathとして合成されてしまう。no method エラー?検索したけど、情報がうまく取れない。
何か、使い方間違えたかなぁ、コマンドに綴りミスは?

バージョンを戻す?「枯れた」組み合わせを調べておかないと、と思うんだけれども・・・
焦りすぎ!>>自分。
いや、きっと何かミスしてる。

いいかなぁ・・・ゴゴモンズとか聴きながら、マッタリと仕事しようか。(って、そんな余裕あるのか?)
残業150時間なんて感じのブラックなこの業界なのに、この緊迫感のなさ。自営ですからね。責任は最後は自分に返ってくる。

別のgemを探すか、バージョンを巻き戻して、リトライするか。でも検索したけどdeviseしか出てこないじゃない。さてと・・・

ちょっとコンビニまで、出かけてきます。戻りは夕方、って、おい!まだ昼だろ。

今、自分にできること

気が重い。自分は今、いわゆる「仕事」がきちんと出来ていないし、生活もきちんと出来ていない。
だからあまり書きたくない。しつこいようだけれども、自分の立ち位置として、書かなきゃならないんかなぁという気分で(勝手に思っているだけです)プレッシャーを感じて、書くかなぁ。
しかも、散々固まった挙句に、日付が変わってから・・・

いや、昔からよくある、たった一人で固まり続けて壁に向かってブツブツと独り言を呟くモードの私、からの、いきなり何かを書き始める私。

師匠の講演会の、受け売り。自分の言葉、自分の経験からの言葉が、どうしても引き出せない。それはそれで、話題の性質上仕方ないのかも知れない。だから、「自分の立ち位置として」と書いた。読み手の皆さん方が、師匠の講演会に来てくれりゃ、話が早いんだ。それでも、私が「師匠の受け売り」を書いて、多くの方々が呼んでくださりゃ、(師匠に破門されても、)それで本望。

こうして僕らが生きている(肉体を持っている)「物質世界」は、ある意味で「舞台の上」みたいなものなのかな、と思うことがある。もしも、同じ舞台にガブリ様やらミカ様やらが立てれていたなら、僕は「共演」できる。あの方々は「主役級」だから「劇」を展開させる言動を舞台の上で展開される。共演なんて言ったって、僕らはその後ろで「町民その1」を演じる程度の役回りでしかないにしても、それでも直近で主役級の方々の演技に接し、もしも直接セリフを交わす場面があるならば、演技を交わす場面があるならば、その主役級の方々の演技を直近で目にすることができる。そして、今この舞台の上には、70億の人々がひしめいている。

その舞台を、500億を超える方々が見ている。意識の世界の方々だから、我々の「舞台の上でのセリフ」は「言葉や行動」だけではなく、我々の「意識」に他ならない。つまり、僕らが今、誰に対して何を思って、何をしようとしたかを、舞台を見ている観客席の500億を超える方々は、全てわかって「次に何が起きるのか」を見ることが出来る。いや、興味がなければ見ないで、観客席ではなく、劇場の外の「自分の場所」で何かされているかも知れない。だから500億の方々が皆さん見ているとは限らず、興味のある方々は、見ているだけ、ということなんだろう。でも、出番の近い方、例えば、今生きている我々の誰かの子供となってこの「物質世界」という舞台にすぐに立とうとする方などは、かなりの緊張感を持って、展開を見守りつつ、タイミングを測っているのかもしれない。

観客席は、役者の「格」によって厳密に仕切られているから、一旦舞台から降りたら、格上の役者さんたちとは一切言葉も交わせない。格上の役者さんと共演できるのは、唯一舞台の上だけ。だから、この舞台の上に立っている経験というのは、とてつもなく貴重になる。自分を磨くのは、この舞台の上という場所でしかない。一旦降りてしまえば、自分と同じ「格」の人間としか一緒にはいられないから、つまり、霊格は何段階にも分かれていて、僕らよりも、数十億年、もしかしたら百数十億年も年上のガブリ様とかミカ様クラスの方々と「共演」する機会などそれこそ数十万年に一度あるかないか、だし、逆に(悪いけれども、僕はたぶん、地球生まれじゃないという気がするけれど)、地球生まれ地球育ちで、まだ数千万年程度の経験しか持っていない方々とも、舞台の上でしか、知り合うことはできない。それがこの「物質世界」なんだろうと、そんなふうに、感じた内容をまとめてみた。

だから「生きる」という表現は実は不適切で、誰もが永遠に「生きて」はいるんだと理解する。我々が「生きている」と感じている時間というのは、この「舞台に立っている」時間であって、舞台から降りてしまった方や、これから舞台に立とうとしている方々も、みんな生きてはいる、と理解している。そして、いわゆる「生きている」我々、言い方を変えるなら「舞台に立っている私たち」は、舞台を見ている多くの観客の存在を、まったく認知出来ていないということなんだろうと思う。

舞台からの降り方は、様々。新人の役者が舞台を荒らして、誰かを突き落とすこともあるんだろう。観客席からは、その見る角度によって、見ている高さによって、かなり先まで展開が見えているに違いない。そして、舞台を見ている時には「自分だったら、あれはもっとうまくできる」なんて思ったりするんだろうけれども、いざ舞台に立ってみると、何も出来なかったりする。役どころがわからず、目立つところに座ったまま何もしない人もいたりするんだろうし、結局、周囲の動きを見ながら、誰もが自分の役回りを模索し続ける。そうして、遅かれ早かれ、いずれは誰もが舞台を降りて、次の機会に備える。

そんな風にこの「物質世界」のことを考えてみた。

いきなり、比喩表現を終わりにするけれども、様々な理由で舞台を降りる方々がいる。不本意な方々もいらっしゃるでしょうね。でも、次はある。

災害で亡くなられた方々に対して、「ご冥福をお祈りします」という言い方を、便宜上したりした。でも、それがきっと不本意な「降り方」だったとしても、現実には僕は、「お疲れ様、今回は残念でしたね」程度しか、感じてはいなかった、というのが正直なところかも知れない。

肉体を抜けたなら、早い人で数日だし(僕の親父は、亡くなった翌日には僕の事務所でうろちょろしていた。癌などで肉体にとどまっていられなくなるような場合には、肉体を抜ける前から、すでに霊体に近くなっているらしい)、遅い人でも10日もあれば意識体として覚醒する。意識体として覚醒した時に、自分が亡くなったことがわかるような状態(日本で言えば、遺影が飾られたり)であれば、わかりやすいらしい。それを、10日後には、遺影も祭壇もなく、全てを片付けて、誰もその人が死んだことを話題にすらしなければ、自分が死んだことがわからなくて、迷ったりもするらしい。(自治会で対応する、独居高齢者の場合に、どうしたらいいんだろうか、なんてことは、私の立場では考えたりもする。役場で火葬して、民生委員さんや大家さんが借家を片付けたりした後に、ご本人が「覚醒」して、戻ってきたりして、ご自身が死んだことがわかるか、なんてことは、考えたりもしていた。)

災害の場合、「あ、もうダメだ」という意識が最後にあれば、わかりやすいんだろうと思う。僕は先月、三脚から落ちて、首を打った。あれ、落ち方が悪かったら死んでいたかも知れないけれども、落ち始めてから、頭(というよりも顔か?)を打つまでの、コンマ何秒の間に、間違いなく「あ」と思った。その時は何が起きたのか理解出来なかったけれども、落ちた後で「落ちた」ことはわかった。おそらく、肉体を抜けちゃったとしても、「何かが起きた」ことだけは、きっと理解出来ただろうと思う。水に流される、などの災害で、周囲に水が来ていたことがわかったなら、あるいは、家が潰される前に大雨が降っていたことがわかっていたなら、おそらく、「迷う」ことはないだろうと思う。

余談ながら、師匠は、広島と長崎では、除霊をされた。原爆の場合には、一瞬で肉体が消滅した方々もいらっしゃった。そうした人は、自分が死んだことがわからないまま、ずっと迷っていたらしい。まったく予期できない死に方と、一瞬であっても「予期」できた場合とでは、結果が大きく違ってくる、というように、自分は理解している。
舞台から降りた方が、次の準備にスムーズに移行できるかどうか、という視点では、核兵器などはたぶん最悪なんだろう。どこからか飛んで来た銃弾、流れ弾が頭に当たり、本人がまったく「何が起きたかわからない」という場合も、たぶん、迷う可能性は大きいと理解している。少なくとも10日程度は、それぞれの文化、宗教に応じて、「亡くなったことがわかるように」しておくことが大切、なようだ。日本の「初七日」の慣習は、実は大きな意味があったらしい。

亡くなられた方も、大変。もっと大変なのは、災害にあって、生き残った方々かも知れない。
ただ、生きていれば、当面は舞台には立ち続けられる。
「何か」が起きなければ、経験にはならない。お金に恵まれ、人間関係にも恵まれ、何一つ苦労がない人生っていうのは、案外、この舞台の上で「立木の役」をやっているようなものかも知れない、と自分は思ったりしている。(そうやって、自分を慰めていたりして・・・)
あるいは、権力やら金やらで、他人を強引に動かす、そこに何か舞台の展開上で重要な「目的」なんかがあるならば、観客席からは「なるほど」と見られるのかも知れないけれども、ただ単に自分のためにそれをやっているなら、(観客席は意識も見ているから)あいつは迷惑なやつだと認識されて、次はろくな役回しでは舞台に立てないかも知れない。

そういう、この「物質世界」のカラクリを、知った上で「生きる」(肉体を持っている)のと、知らずに生きるのとでは、経験としての意味合いが随分違ってくる気が、自分はしている。

どこかで「解釈」に間違いがあるかも知れない。いや、大きな間違いがあったら、きっと来月には私は舞台を降りていると思います。まだ舞台に立っているなら、それほど大きな間違いはない、まだ師匠に「破門」をされずに済んだ、ということだろうと自分は理解する。

そうして、今自分にできることは、この話題を書くこと、だけかな、と思った。

あと、蛇足。のような「追記」

肉体を持っている我々の「オーラ」の色を、あれこれとテレビで話されている方がいらっしゃるけれども、塗り絵じゃないんだから・・・。色とりどりなアレ、あり得ないです。細かい話は、機会を改めて。

噛みつくのは、もう少し自分の中で「確信」に変わってから。というよりも、逆襲にどういうクロスカウンターをあてるか、自分の中で固めてから、にします。いずれにせよ、間違った「知識」を拡散することの罪は、非常に重い。

とりあえず、以上

米朝会談

北朝鮮は、「アメリカが一方的に非核化を押し付けている」と主張しているが、トランプ大統領がどういう人か、まさか知らずに交渉していたんだろうか。

まだ相変わらず、北朝鮮は「拉致問題は解決済み」などという妄言を吐き続けるんだろうか。

日本は、信義を重んじる。そもそも単細胞だから「あいつらは悪者だ」とか「あいつらは劣っている」と決めつけると、まるで聞く耳を持たずに差別的言動に突っ走る性向はあるが、一旦信義を交わしたら、おそらくトランプとは全く異なるリアクションを日本には期待できる。確実な見返りが期待できるはずなのに。
はずなのに、北朝鮮は拉致問題を軽視している。
そういうことだと、日本はおそらく、「最大限の経済制裁の継続」を、中国やロシアを含めたあらゆる国に主張し続けるだろうと思う。

交渉する相手は間違っていないと思う。終戦が最優先ですからね。ただ、信頼する相手を間違っている。

今、生きているということ

今日の非常勤の授業は午後から。テレビを見ていたら、ニューステロップ。
オウムの死刑囚7人に、死刑執行。
自分は思う。誰かの命を奪う権利は、誰にもない。無論松本智津夫にもないはずだけれど。
そして、他人のことは他人のこと。
でもなぁ、何て言うんだろうか、復讐心。相手に報復して溜飲を下げる。遺族の心情か。その気持ちも理解できてしまう。いいことなんだか、よくないことなんだか。理解はできても、自分の中ではそれを否定しなきゃいけない、なんてことも考える。何か「答え」を出そうとしても、自分の中で「腑に落ちて」いないことがらが多すぎる。

自分は一体、何のために生きているんだろうか。
なんてことを、全く考えずに生きていけられる、羨ましい人たちがすごく多い。僕はダメだった。十代の半ば、中学校の後半あたりから今に至るまで、絶え間なくこの疑問が頭をもたげる。
育ち方の違いだと思うな。この違いをお互いが理解し合うのは、不可能かも知れない。

何のために生きているんだろうか、なんてことを全く考えない方々は、いずれ、胃瘻をして、点滴チューブに繋がれ、大勢の人の介護の世話を受けながら、ただひたすら、生きるだけのために生き続ける。そういう選択肢を当たり前のように選べる恵まれた方々だ。僕には無理だし、理解できない。でも、違うから、わかり合えないのは仕方ない。

「つまらんことを考えてないで、さっさとプログラムを書け」
という、ありがたい助言をくれる自分も育ってくれて、まぁ、よかった。ようやっとこの歳になって・・・だが。でも、「つまらんこと」なのか?なんてツッコミは無用。言い方を変えよう。
今やるべきことの「優先順位」をしっかりと考えよ、と。これならいいでしょ>>自分。

この辺の切り替えをするのに、タバコという得難いパートナーが、頼れなくなりそうで、さてと、どうする。黙って固まるか。それとも、その都度パフェでも食うか?プリン・ア・ラ・モード・スペシャル・ローリング・サンダーとかね。

何のために生きてる?パフェを食うため。いいなぁ、この答え。銀魂パクリました。

電車の中。この辺は乗客も少ない。仕事をするには絶好の場所、でもあるけれど、景色を見ながら意識があっち行き、こっち行き。「アイデアの三上」の一つ、馬上か。今日は、ロジックには集中しがたい。そういう時は、テストスクリプトの単純作業。切り替えが大事。

それにしても、お前、重たいぞ。面倒臭い奴だな。自分 >> そうだよな、重いよなぁ。

最近、リバウンドしているもんで。

あ、表題も谷川俊太郎さんの詩集のタイトルのパクリです。

缶ピース

歌丸師匠、缶ピースを1日一缶吸ってたって?

ピースは香りがいいから好きだけれども、フィルター無しの缶ピースはさすがに吸うとむせる。
ニコチンとかタールとか、普通に売られているタバコの20倍とかいうレベルだと思う。確かに香りはすごく好きだけれど。そういう人は、他にも結構知ってる。

パプアニューギニアでは「新聞紙巻き」のが売られていたけれども、あれも相当に強かった。一本買うと、二口か三口で火を消して、一本で半日とか吸う。現地の人もそういう吸い方をしていたけれど、フィルタ無しはそんなにスパスパ吸えない。
しかも、1日一缶、っていうことは、僕らが1日一箱(20)っていうその2.5倍の50本。

結局、ニコチンとかタールの総摂取量とか、総刺激は、歌丸師匠の場合、少なくとも今の僕の喫煙の50倍近かったはず。

例えば、僕はカレーライスが好きで毎日食べます。
歌丸師匠は、カレーライスが好きで、毎日50倍カレーを食べます。そうしたら健康がどうもすぐれない。だからカレーライスは健康に被害がある。
って、そういう次元で物事を決めつけられている気がした。

確かに、喫煙はCOPDの原因ですよ!?だけど、比べる基準がなぁ・・・

ちなみに、パプアニューギニアにいた時に、日本から送ってもらった「カレールー」で、甘口のカレーを作って、同僚の家族にご馳走した。ところが、辛くて食えないという。他のニューギニア隊員に聞いてもらえばわかると思うが、少なくともセピックでは、彼らは辛いものは全く食べない。こんな刺激の強い毒みたいな食べ物は食べられない、とか言われちゃったよ。カレーライスだって、常食していない人には刺激物。

やっぱり、50倍カレーの被害をだしにして、普通のカレーまで全部禁止っていう、そういう騙し討ちにあってる気分は、どうしても否めない。

東京が、嫌いになった。こんな街、地震で潰れちまえ、とすらいう気分になってる。
そういう気分で西宮を離れたこともあったけど。


今日も無事、1日が終わった。読み返して、ちょっと日本語が変だけれども、まぁいいや。

今日ちょっと同僚と話をしていて、ふと「30倍カレー」の話をした。学生時代、高田馬場界隈でちょっと有名だったカレー店で、「辛さ30倍」のカレーを出す店がオープンして、完食したら無料みたいなのがあった。無論、1倍からスタートして、一つ「倍」を増やすごとに20円増し、とかそんな感じだった。それで、歌丸師匠のタバコをその50倍カレーに例えたつもりが、なんかやっぱり、日本語が変だ。でも、もういいや。どうせ、何を言っても、通じない相手には通じない。

それにしても、タバコ以外は全部「無罪」ってのが変だよな、とは思うけれども、世間は気にする標的、悪者を一つに絞り込むことで、精神的に楽になろうとしているんだろうな、とも思う。やっぱり魔女狩りだ。だったら無駄。もう、突っ込まない。これだけタバコだけを悪者にして、もし肺ガンの発生率が大して下がらなかったなら、よほど日本医学会はバカの集団だと思う。10年先を楽しみにする。でも、喫煙者全体への「精神的な慰謝料」なんて、一円も払わないだろうな。もし誰かが訴訟を起こしたら、僕も乗っかろう。統計的なデータが出てから、だけど。いや、10年後くらいなら、さすがに私も、まだ生きてると思う。たぶん。

何を言っても無駄。この壁は厚い。生まれてこの方、まず親。上司。社会。警察(公安か、マスコミか)?某大学。そして、ヨ×。でもって、東京都。
自分の意識の中で、不愉快な存在は削除したい。接点を持たなかったことにすら、したい。意識のシャッターを下ろして、あとはルールの範囲内で自分のやりたいようにやる。

疲れた。でも、どうでもいいや、と思いながら、一服して寝ることにした私がいる。

一区間ずつ・・・

東武東上線、変電所?のトラブルで、不通。
小川町は田舎だけれども、実は二路線が通っている。八高線で高麗川まで迂回。さてと、高麗川から先はどうしようか。高麗川についてから、様子をみて考える。

桂歌丸師匠が、お亡くなりになった。
COPDだったら原因はタバコでしょうね。これで原因がタバコじゃない、なんて強弁したら、いかに職種がエンジニアとは言え、もう医療関係とは仕事できないでしょうね。
ただ、歌丸師匠の場合には、ご本人が喫煙者だったはずだから、誰か他人を責めるということはないはずだけれども。

たぶん僕も、走れなくなったら、タバコをやめるだろうな。一ヶ月に1回程度でも、鈍足、超低速のジョギングでも、1時間とか2時間とか走ると、その後で、呼吸がすごく楽になる。気のせいかもしれないけれども、肺の奥まで空気が入る感じがする。低速ジョギングが出来ないでいると、閉塞性換気障害のような感じがだんだんひどくなって来る。最低でも一ヶ月に1回は走りに出たいんだけれども、野暮用も含めた日程の都合とか、雨だとかなんだとかで、走りに出られないと、COPDっぽくはなって来る。逆に、月に2回も走りに出られれば、確かに走っている途中、肺の奥の方からどんどん痰とかが出てきて、むせたりなんかもするけれども、走り終わってみれば、深呼吸が清々しい感じで、最高のリフレッシュにはなる。我流の健康管理。
逆に、走ることが欠かせなくなった、ってことは、それだけ汚れに対する「動作マージン」が小さくなっているんでしょうね。ってことは、さらに走れなくなった時は、年貢の納め時かも知れない。

それ以上に、思った。歌丸師匠、亡くなるちょっと前まで、高座に上がっていたっていうのは、すごい。
たぶん、僕は胃瘻などの、あらゆる延命治療を拒否します。もう肉体としての自力で生きられなくなったら、「引き上げ時」だと思う。できることなら、死ぬ直前まで仕事をしていたい。
歌丸師匠、散々「死に損ない」とかいじられながら、お見事でした。ちょっと、響くものがあった。

じゃぁ、何をやるはずだったんだ?何が僕の「生き甲斐」になるはずだったんだ?ほんのちょっとのことでも、何かがあると顔を出す、この僕の積年の「疑問」。

予定外、想定外の生き方をしているんだろうか。なんて思うこともある。目的地を目指して、当初の想定がコケて、仕方なく迂回ルートを模索しながら、それでも「迂回方法」があるなら迂回して、行けるところまでは行く。行けるところまで行ってから、次の選択肢を考える。

いや、案外僕自身が誰かの「迂回路」だったりして。誰かの「迂回路」。本命じゃないけど、目的地に到達するために、遠回りにはなるけれども使えるってな「迂回路」。いや、それでもいいけど・・・

師匠の講演会を聞いていて、考えたことはと言えば、「迂回路」も何も、生きているそのプロセスそのものが、生きている目的そのもの。肉体を抜けてから、次の「肉体を持つ」計画を立てる段階を考えてみれば、すぐにわかるかも知れない。「事を為す」のは、目的ではあるかも知れないけれども、その「事を為す」プロセスを経験することこそが、次への経験として役に立つ「目的」そのものなんだろう、と、講演を聞いて、頭じゃわかってるけど・・・

ふだん見ない景色、ちょっと新鮮かも。八高線の車窓の、見渡す限りの緑とか、雑然として、全然整理されていない、見るからに「家庭菜園」的な畑だとか、癒されるわ〜。
予期しない「迂回」も、前に進むための貴重な一区間。つなげていけば、きっと目的地にはたどり着く。いいんでないかい。(医院で内科医?違うってば・・・)

さすがにね、電車が止まっての「迂回」では、「目的地」はちゃんとありますから。
Navitimeの出番かも。

すごいね、東武の定期があるからふだんは朝霞台経由なのが、八高線・拝島経由だと、普段の経路よりも迂回路の方が、時間が短いことが判明。八高線もね、本数があれば東京都西部に出るには「最短」なのは間違いない。(JRは料金高いけど・・・)

見慣れない東飯能から先の景色。ここから先は、景色を楽しむ。

Coffee Script – バグレポート?

Coffee Script
ハマったぁ・・・

seq = [ “34”, “40.5”, “34”, “42.5”, “34”, “43.5”, “34”, “45.5”, “35”, “47.5” ]
console.log seq
pos = seq.shift(2)
console.log pos[0], pos[1]

期待していた動作は、
Array(40) [ “34”, “40.5”, “34”, “42.5”, “34”, “43.5”, “34”, “45.5”, “35”, “47.5”, … ]
34 40.5

ところが、実際の動作は
3 4
なぜか、一文字ずつ抽出して来る。
じゃぁ、って

pos0 = seq.shift()
pos1 = seq.shift()
console.log pos0, pos1

と書いたら、
34 40.5
になった。

これって、「仕様」か?わからん。
美しくない。でも、動きゃぁいい。でも、気持ち悪い。

子供の心の闇って

ニュース配信に反応。(反応しすぎ!)
拳銃が奪われ、学校が襲われた事件で、新たに襲撃を予告するネット書き込みがあって、授業再開が見送られたらしい。書き込まれたのは、企業のサイトだそうだ。

SEの立場で言えば、一般的に企業のサイトでは「発言者」を特定するメカニズムを持たない掲示板があるんだろうけれども、IPアドレスを保存してあれば「発言者」の特定につながるケースもある。「社会的な責任」として、書き込み元IPの保存などの仕掛けは、持つように設計すべきなんだろうな。自社への犯行予告などに対処するという意味でも。本当に嫌な世の中だ。

書き込んだ「彼」(「彼女」ではなく、「彼」だという気がするが)の気持ち、こういうのも、何となく「理解」できるような気はする。だいたい僕は、共感しすぎるのかも知れない。いいのか悪いのかわからないけれども、その学校に対する逆恨みなのか、「学校というもの」への逆恨みなのか。誰かを恨むことで自分を支えようとする、そうした時期は、間違いなく僕にもあった。

子供の頃から抱えている「心の闇」なんていうものは、大人になれば解決するかって言えば、全然解決なんかしない。そんな気がする。僕自身は、行きがかり上自分の恥部さえもほとんど全部曝け出している気がするけれども、いきなり「心の闇」ができる訳じゃなくて、必ず何らかのきっかけや、原因はあるものだと理解する。

よく言われる、交通事故を起こしやすい年齢は二十代前半で、後半になると「事故率」が低下するらしい。最近は、高齢者が加わっているらしいが。三十代に近づくと、徐々に客観視の能力が高まってくるんだろうか。自分の「心の闇」が自分だけのものではなく、割と誰にでもある「恥部」だということにも気づいて来る。

そうした「共感」から、「じゃぁ、一緒に犯罪を犯そう」という方向に向かうのか、「一緒に、自分たちの心の闇に立ち向かおう」という方向に向かうのか、結果は全然違って来る。という話題が通じるのは、ある程度「客観視」が出来るようになった人で、渦中にあって、もがき苦しんで、引きこもって社会と途絶している人たちには、なかなか通じないような気もする。

子供の頃、学校で受けたイジメや、辛い経験、あるいは親から受けた傷、とかを、どう消化していったらいいのか。僕などは、それらすべてを「経験」として、「感謝」に切り換えようと、「経験」として活かそうと考えるようにしているけれど、それだって、辛い真っ最中の子供たちには、言葉としてだって、たぶん、届かない。いきなりそんなことを言われたら、たぶん「無理だ!」って思うだろうな。

届かないとは思うけれども、やはり、思う。必死で考え抜いて、「自分にできること」に何があるか、何かができれば、他人はその「何か」で自分を必要としてくれる。自分を必要としてくれる「誰か」を見つけることができれば、ポジティブに、堂々と社会を生きることができるチャンスにもなるんじゃないか、という気がする。

きっと、NPOとか、そうした「心の痛み」を分かち合う場所とか、機会も、ネットなどで見つけることができるような気がする。「闇サイト」とか「暗い方」にばかり目を向けないで、上を向くきっかけになる何かを、探して欲しいと思う。

僕自身も、相当にドロドロした「心の闇」は書き出しています。僕のサイトのバックナンバーも、凄まじいページがあるとは思う。実は、可能な限り、最後はギャグにして、笑いにして落としたいんだけれども、なかなか心に余裕がなくて、笑いに落としきれていない。全然、笑いに落とせなくて、ドロドロのまま終わったページもあるけれども・・・

辛い思いとか、ひどい思いとか、色々あっても、世の中もっと悲惨な状況に置かれたりして「恐れ入りました」みたいな人はすごく多い。もっと、子供の頃から、そういう人たちの話を聞く機会を持つことも、「心の振れ幅」の「動作マージン」を広げるのには、役に立ったりするのかもね。わからんが。

こんな、ニュースを聞くたびに、いちいち心を動かしているようでは、未熟だなぁ・・・
ごめんなさいね。未熟は未熟なり、半熟の温泉卵として、死ぬまで美味しく召し上がっていただければ、とは思うことにしておきます。

適切な免疫力

今日はもう、プログラミングや教材作成、執筆モードで仕事が始まってる。
けど、昨日までに書いた内容が、どうしても気になってしまうので、吐き出して、スッキリしてから仕事に戻ろうと思った。

喫煙と肺ガンの話題が、気になったので書いた。矛盾する二つの内容。
ハウスダストとか(受動喫煙もそうなんだろうけれども)、空気が汚ければ、確かに肺を痛めるだろうから、換気などで空気はキレイでないと、ということがある。

その一方で、汚れのない環境に慣れていれば、免疫力がつかない、あるいは、「外敵」がないのに免疫力ばかりが高ければ、たぶん自分自身を攻撃する。結局「攻撃すべき外敵」と「攻撃する必要のない外敵」を、体が見分けていないことが原因、ということなんだろうか。

「心の勉強会」では、この辺の話題は「定番」で解釈出来ている、と思う。たぶん。
間違っているかもしれないけれども、僕自身の解釈は、汚れていようがなんだろうが、とにかくまず受け入れてしまう。心の問題として。その上で、取り込む必要のない汚れ、取り込むべきではない汚れは、心の中から追い出す。心にこの習慣があれば、体もそれを覚える。「意識」は階層化されている、と私は考える。その結果として、意味もなく体が自分自身を攻撃することがなくなる。短くまとめすぎて、伝われないかも知れないけれども、自分はこう思う。

ざっくりと言って、世間一般「まず、いきなり除外/排除」というケースが多い気がする。

この辺の判断が難しい。詐欺も多いから、「まず受け入れる」って言ってもそれは「鵜呑みする」ということではなく、「相手の言い分を一通り聞く」という解釈をして欲しい気がする。別に、受け入れるからと言ってすぐに「お金を渡す」のではなく、周囲に相談したらいいだけなんだろうか。一通り相手の言い分を聞いてから、「警察に相談」だっていいはずで、「まず受け入れる」こと自体、間違いじゃないと僕は思う。言いがかりみたいなクレームだって、たぶんこれでいけたんだろうと、昔を思い出しながら、そう思った。

以上、気なってしまった話題を、頭の中から unload(荷下ろし)して、仕事に集中したいための儀式でした。

単純素朴な疑問、からの結論

少し前のページで、喫煙人口の低下とがん患者の増加を並べた。
そうしたら、こんな意見があった。

「昔は、がん診断の精度が悪かったから、初期のガンなどを見落としていた。すなわち、見かけ上ガン患者の数が少なくて、喫煙者が多かった当時も、同程度のガン患者がいた。だから、喫煙者の多かった過去にも、多数の肺がん患者がいた。喫煙率が低下しても、ガン患者が増加したのは、がん診断精度の問題
これを、仮説[A]とする。

この仮説が正しいと仮定する。そうすると、下図の斜線部分は、発見されなかった「初期のがんなど」と言うことになる。

仮説[A]は、そうした主張だと考える。また「末期ガン」まで進行した患者は、当時の技術でもガンだと認知された、とも「前提」とさせてもらう。

ここで、次の仮説[B]を導入する。
初期のガンは、放置すればいずれは末期ガンまで進行する。
この仮説[B]がどの程度正しいかは、あたしゃ医者じゃないから知らない。が、私は私の側から仮説[B]を正しいものとして提示させてもらおう。

昭和40年当時、もしも多くの初期ガンの患者が見落とされていたとしたならば、時間の経過とともにその患者は「末期ガン」まで進行して、顕在化したと思われる。すなわち、もしも上の図の斜線部分が初期のガンだったとしたならば、いずれは「末期ガン」に進行したはず、末期ガンに進行して、当時の技術でも認知されたはずである。ところが、当時は「末期ガン」として認知される数は、ピークにの五分の一程度だった(対数グラフである)。
潜在的なガン患者が、統計の5倍はいたとする仮説[A]から、そのうちの「顕在化した数」だけが末期ガンもしくは、ガンだと診断できる程度に進行したガンであり、残りはどうなったか、と言えば「顕在化しなかった」と言える。どう言うことか。「表に数字として現れなかった初期のガン」は、「最後まで表に数字として現れなかった」すなわち、喫煙者数が多かった昭和40年ごろは、初期のガンは4/5が進行せず、初期のままに止まるか、もしくは消失した、と言うことになる。

すなわち、仮説[A]の当然の帰結として、結論[A]は、「喫煙者数が多ければ、初期のガンが進行しない」ということになる。この論理と、データの読み方、どこかおかしいですか?おかしかったら反論してください。

僕が導入した仮説[B]「初期のガンは、放置すればいずれは末期ガンまで進行する」という、これがおかしいかも知れない。ここが否定されるなら、仮説[A]→結論[A]は否定される。

以上を総括すると、もしも、このデータについての仮説[A]

「昔は、がん診断の精度が悪かったから、初期のガンなどを見落としていた。すなわち、見かけ上ガン患者の数が少なくて、喫煙者が多かった当時も、同程度のガン患者がいた。だから、喫煙者の多かった過去にも、多数の肺がん患者がいた。」

が正しいと仮定すると、データから導かれる結論は

仮説[B]「初期のガンは、放置すればいずれは末期ガンまで進行する」が誤り

か、もしくは

結論[A]「喫煙者数が多ければ、初期のガンが進行しない」が正しい

かの、いずれかの結論になると思う。お医者さんて、本当に面白いことを考えるな、と思った。僕らの如きヘビースモーカだって、こんな楽観的な仮説は立てないのに・・・

という皮肉はさておいて、しつこいようだけれども、言いたいことは一つで「喫煙が肺がんの最大の原因である」という、医学会の決めつけが誤りなんじゃないですか、とこの一点。もしここにしつこくこだわって、あの「単純素朴な疑問」のページに書いたデータに「別の解釈」を加えるなら、「別の反論」をさせていただきます。謹んで(ヨダレを垂らしながら)楽しみにお待ちしてます。

じゃぁ、何が原因だと言いたいか?「そこまで言うなら、テメェの意見を言え」と?それなら、ざっくりと四つ。

まず第一。住環境の変化。アルミサッシの普及による密閉空間に、お袋の場合にはハウスダスト。ざっくりと。体感した。以上。

第二に、日本人の総体的な免疫力の低下。キレイキレイな世の中ですからね。個体の雑菌に対する免疫低下もさることながら、ガン細胞のような体の中に発生する異常細胞に対する免疫も低下している。昔の人間免疫力を鍛えていたのは、体外から侵入する雑菌だったと思う。それが、昭和中期の「不潔な社会環境」と「今」の最大の違いだと思う。だから、悪いけれども、どれほど喫煙者を締め出しても、ガン患者の発生者数は高止まると思う。
「キレイキレイ」が大好きな親の子供は、親が衰えて面倒を見て欲しくなった頃にがんを発症するリスクが高い、気がする。
細かいことを言うならば、日本と比べて遥かに不衛生な国々との「発ガン率」の統計データがなければ、この点でのこれ以上の論証は難しいけど。

第三に、平均寿命が延びたこと。老化に伴って、他の死因に対するガンの相対的な比率が増加した。

そして、第四に、心の変化。これは、医者を相手にして、論証しきれる自信がない。人間の全ての体細胞は意識を持っている。つまり、人間の「心」が健全ならば、多少のことなら「癌化」なんかしない。僕はそう考える。ただね、実証も難しければ、論理的な検証も容易じゃない。僕ら、心の勉強会に参加していると、どうしてもここだけを強調したくなるけれども、確かにここだけじゃないにしても、少なくない比率で、現代人の「疾患」の特性として、これは無視できないと私は考える。

喫煙も、無論原因の一つだと、それは否定しない。僕は、喫煙が肺がんの原因にはならないなどと、そんなことは主張していない。「最大の原因じゃないでしょ」と、それを主張している。キレイキレイで、おキレイでないと我慢できない人にとっては、受動喫煙だけで、発病率は跳ね上がるかもね。心の問題と、もともと免疫力が低い部分が加わって、周囲の喫煙がトドメを刺している、それはあるかも知れない。だけど、そういう人は、誰も周囲に喫煙する人がいなくたって、ディーゼルカーの排気ガスだって同じ結果になる。
言わせてもらうなら、「責任転嫁」しているうちは、ガンなんて治らないと思う。(前述した、第四の原因)悪いのは全部他人。どうぞ、ご勝手に、そうお考えください。
可能性のある要因を取り除くのは大切だけれども、「喫煙だけ」じゃないでしょ、とそれが言いたい。

「喫煙」をマナーの問題として扱う、それはとても理解できる。だったらなぜ、「分煙」を考えないのか、そうならない理由が不思議だ。そもそもが、「三次的な間接喫煙」なんて議論になると、ppmのレベルで、そんなもんを問題にするなら、バ×アがつけてる香水だって問題にしろ、と言いたい。他人のことは言えないけど、人間として枯れてるから香水をつけるんでしょ?アレも相当に不快に思うことがあるのに、なぜ、そっちは問題にしない?あ、そうか、タバコじゃなければ、なんでもOKなんだ。

人間の体細胞は「意識体」だから、と。これを医者に「証明」するのは、限りなく困難だ。僕のALSの友人には、ゴメン、と言った。僕には止められると感じていたけれども、こういう「おかしなこと」をする自分をカミングアウトしたくなくて、「発病した」と聞いた時にも、すぐには「手当て」はしなかった。結果的に、進行はある程度止められているかな、と思う。あと、半年早かったら、彼の「会話能力」が奪われる前に、「現状維持」できていたかも知れない。
僕は、そんなにも「心がキレイ」な訳じゃないから、彼の体細胞を「元に戻す」ことは出来ていない。細胞がグレるのを止める程度は、結果として出来ているとは思う。彼のALSを治せたら、声を大にして、「人間の体細胞は意識体で、意識体として訴えかけることができれば、病気なんて全て治る」と、主張出来るんだけれどもねぇ・・・。いかんせん、僕自身、心が弱くて・・・

自分の体についてはどうか。僕の腰の椎間板ヘルニアは、28才の時、完全に腰の軟骨がズレていたけれども、自力で戻した。説明し難い。頚椎は?6年前のMRIの狭窄は、今回かなり改善していたな。転落事故での頚椎損傷の後遺症は、この一ヶ月でかなり改善しました。気温の上昇は大きいかも知れない。冬を越してみないとわからないけれども、今は両手とも痛みどころか、シビレも消えた。(一応、自分で自分に手を当てている。)ただ、時々、右手の指が硬直して動かなくなる。ただそれも、割とすぐに回復。完全に、上に守っていただいた感はあります。神様に感謝。だって、30年も前から、同じことを書いている。僕は、無宗教だけれども、無神論者じゃない。宗教なんかには属したくないけれども、神様の実在は絶対的に信じている。30年間それを主張し続けたご褒美を、今回いただいたかなと、それは思う。でも、これ以上、ご褒美をいただくような状況は、経験したくない。

なんとか、心をキレイにしたい。他に治したい知人はいないけれども、ALSの友人の彼を、なんとか元に戻したい。僕自身の心が、透明になるくらいにキレイになれば、出来るかも知れないのに、とは思うけれども、なかなか難しい。

透明どころか、我欲を捨てちゃうと、「金儲け」じゃないけれども、ビジネスのモチベーションがなかなか高まらない。仕事がどうしても、捗らない。

例えば、今回こうして、それこそ「日本医学会」にケンカを売るような内容を書いた。「反論」は大歓迎。書いた以上はコメントを受け付けたい、んだけれども、コメントを受け付けるようにした途端に、バイアグラ関係のBot書き込みが大量に舞い込んでくる。

この5,322件は、全部スペイン語のバイアグラサイトのBot書き込み。
止めてくれ、と言いたい。バイアグラなんて要らねぇよ。舐めんてんじゃねぇぞ、使い物にはなってるよ。使い道がないだけで・・・。俺が死んだ時にディジタル遺品になるあの動画群は、・・・って、一体俺、何を書いているんだ?ほれ、全然「心がキレイ」じゃない。

情けないよなぁ、肉体を持ってると、これだもの。食って肉体は維持したい。こんな俺だって、子孫は残したい。それが肉体を持つということか。でね、そういうのを全部消し去ろうと思うと、「仕事だって、しなくていいじゃない」という方に、意識が触れてくる。その先で「透明」になるのは、そんなに難しくない気がする。だけど、そうすると生活できなくなる。仕事でもお金を請求しない。ってな具合で、生きるための「欲」の使い方が、とにかく難しい。
ただ、思うけれども、この「あのために、生きるぞ」という欲が根底にあれば、悪いけれども、普通なら「肺がん」にはならないと、僕は思います。これが、前述した第四。

お袋は違った。先に死んだ親父のことを口にして、「お父さん、迎えに来て」とそればかりを口にしていた。これは、ご近所も親戚も、みんな知ってる。こういう意識だと、救いようがない。いいよ、俺に責任転嫁したって。だけれども、責任転嫁した挙句は、自分のガンが進行しただけだったでしょうにと、そういうことも思うけれども、そもそもが、何をどう指摘したって、ガンになる方々は、聞く耳を持たない方がとにかく多い。気がする。再び、俺、何を書いているんだ?

いや、僕のWEBページ、そもそもがマトモじゃないでしょ?
そもそもが、このページのテーマって、なんでしたっけ?「喫煙と肺ガン?」テーマから、ブレてるかなぁ。

こういっちゃなんだけれども、師匠は、5分あったら肺ガンを消せると思う。ってか、治してもらった方々が、何人もいらっしゃる。僕は、お袋さえ救えなかった。いや、ね、本気で誰かを好きになって(お袋とは、お互いどうしても心を許せなかった)、その好きになった子がもしガンだったら、前から後ろから患部に手をあてて、本気で治そうとするでしょうね。で、間違いなく、その手を当てる前に「絶叫」されて逃げ出されて、警察に突き出されて、裁判にかけられたりして・・・。チャンチャン、ってなことで。(何か、映画になる?)
話を戻せってば。で、医学会は、喫煙だけを悪者にして、真の原因からは逃げて、喫煙者をスケープゴートにして、自分たちを正当化している。と、僕は、思う。それだけ書きたかった。(本当に?)

お袋は、好きにはなれなかった。お袋に、心を解放できたと思うことも、なかった。でも、今でもやっぱり、「おかあさん」という独り言を、無意識に呟いてしまうことは、あるかな。

肺ガン、ねぇ・・・