今、自分にできること

気が重い。自分は今、いわゆる「仕事」がきちんと出来ていないし、生活もきちんと出来ていない。
だからあまり書きたくない。しつこいようだけれども、自分の立ち位置として、書かなきゃならないんかなぁという気分で(勝手に思っているだけです)プレッシャーを感じて、書くかなぁ。
しかも、散々固まった挙句に、日付が変わってから・・・

いや、昔からよくある、たった一人で固まり続けて壁に向かってブツブツと独り言を呟くモードの私、からの、いきなり何かを書き始める私。

師匠の講演会の、受け売り。自分の言葉、自分の経験からの言葉が、どうしても引き出せない。それはそれで、話題の性質上仕方ないのかも知れない。だから、「自分の立ち位置として」と書いた。読み手の皆さん方が、師匠の講演会に来てくれりゃ、話が早いんだ。それでも、私が「師匠の受け売り」を書いて、多くの方々が呼んでくださりゃ、(師匠に破門されても、)それで本望。

こうして僕らが生きている(肉体を持っている)「物質世界」は、ある意味で「舞台の上」みたいなものなのかな、と思うことがある。もしも、同じ舞台にガブリ様やらミカ様やらが立てれていたなら、僕は「共演」できる。あの方々は「主役級」だから「劇」を展開させる言動を舞台の上で展開される。共演なんて言ったって、僕らはその後ろで「町民その1」を演じる程度の役回りでしかないにしても、それでも直近で主役級の方々の演技に接し、もしも直接セリフを交わす場面があるならば、演技を交わす場面があるならば、その主役級の方々の演技を直近で目にすることができる。そして、今この舞台の上には、70億の人々がひしめいている。

その舞台を、500億を超える方々が見ている。意識の世界の方々だから、我々の「舞台の上でのセリフ」は「言葉や行動」だけではなく、我々の「意識」に他ならない。つまり、僕らが今、誰に対して何を思って、何をしようとしたかを、舞台を見ている観客席の500億を超える方々は、全てわかって「次に何が起きるのか」を見ることが出来る。いや、興味がなければ見ないで、観客席ではなく、劇場の外の「自分の場所」で何かされているかも知れない。だから500億の方々が皆さん見ているとは限らず、興味のある方々は、見ているだけ、ということなんだろう。でも、出番の近い方、例えば、今生きている我々の誰かの子供となってこの「物質世界」という舞台にすぐに立とうとする方などは、かなりの緊張感を持って、展開を見守りつつ、タイミングを測っているのかもしれない。

観客席は、役者の「格」によって厳密に仕切られているから、一旦舞台から降りたら、格上の役者さんたちとは一切言葉も交わせない。格上の役者さんと共演できるのは、唯一舞台の上だけ。だから、この舞台の上に立っている経験というのは、とてつもなく貴重になる。自分を磨くのは、この舞台の上という場所でしかない。一旦降りてしまえば、自分と同じ「格」の人間としか一緒にはいられないから、つまり、霊格は何段階にも分かれていて、僕らよりも、数十億年、もしかしたら百数十億年も年上のガブリ様とかミカ様クラスの方々と「共演」する機会などそれこそ数十万年に一度あるかないか、だし、逆に(悪いけれども、僕はたぶん、地球生まれじゃないという気がするけれど)、地球生まれ地球育ちで、まだ数千万年程度の経験しか持っていない方々とも、舞台の上でしか、知り合うことはできない。それがこの「物質世界」なんだろうと、そんなふうに、感じた内容をまとめてみた。

だから「生きる」という表現は実は不適切で、誰もが永遠に「生きて」はいるんだと理解する。我々が「生きている」と感じている時間というのは、この「舞台に立っている」時間であって、舞台から降りてしまった方や、これから舞台に立とうとしている方々も、みんな生きてはいる、と理解している。そして、いわゆる「生きている」我々、言い方を変えるなら「舞台に立っている私たち」は、舞台を見ている多くの観客の存在を、まったく認知出来ていないということなんだろうと思う。

舞台からの降り方は、様々。新人の役者が舞台を荒らして、誰かを突き落とすこともあるんだろう。観客席からは、その見る角度によって、見ている高さによって、かなり先まで展開が見えているに違いない。そして、舞台を見ている時には「自分だったら、あれはもっとうまくできる」なんて思ったりするんだろうけれども、いざ舞台に立ってみると、何も出来なかったりする。役どころがわからず、目立つところに座ったまま何もしない人もいたりするんだろうし、結局、周囲の動きを見ながら、誰もが自分の役回りを模索し続ける。そうして、遅かれ早かれ、いずれは誰もが舞台を降りて、次の機会に備える。

そんな風にこの「物質世界」のことを考えてみた。

いきなり、比喩表現を終わりにするけれども、様々な理由で舞台を降りる方々がいる。不本意な方々もいらっしゃるでしょうね。でも、次はある。

災害で亡くなられた方々に対して、「ご冥福をお祈りします」という言い方を、便宜上したりした。でも、それがきっと不本意な「降り方」だったとしても、現実には僕は、「お疲れ様、今回は残念でしたね」程度しか、感じてはいなかった、というのが正直なところかも知れない。

肉体を抜けたなら、早い人で数日だし(僕の親父は、亡くなった翌日には僕の事務所でうろちょろしていた。癌などで肉体にとどまっていられなくなるような場合には、肉体を抜ける前から、すでに霊体に近くなっているらしい)、遅い人でも10日もあれば意識体として覚醒する。意識体として覚醒した時に、自分が亡くなったことがわかるような状態(日本で言えば、遺影が飾られたり)であれば、わかりやすいらしい。それを、10日後には、遺影も祭壇もなく、全てを片付けて、誰もその人が死んだことを話題にすらしなければ、自分が死んだことがわからなくて、迷ったりもするらしい。(自治会で対応する、独居高齢者の場合に、どうしたらいいんだろうか、なんてことは、私の立場では考えたりもする。役場で火葬して、民生委員さんや大家さんが借家を片付けたりした後に、ご本人が「覚醒」して、戻ってきたりして、ご自身が死んだことがわかるか、なんてことは、考えたりもしていた。)

災害の場合、「あ、もうダメだ」という意識が最後にあれば、わかりやすいんだろうと思う。僕は先月、三脚から落ちて、首を打った。あれ、落ち方が悪かったら死んでいたかも知れないけれども、落ち始めてから、頭(というよりも顔か?)を打つまでの、コンマ何秒の間に、間違いなく「あ」と思った。その時は何が起きたのか理解出来なかったけれども、落ちた後で「落ちた」ことはわかった。おそらく、肉体を抜けちゃったとしても、「何かが起きた」ことだけは、きっと理解出来ただろうと思う。水に流される、などの災害で、周囲に水が来ていたことがわかったなら、あるいは、家が潰される前に大雨が降っていたことがわかっていたなら、おそらく、「迷う」ことはないだろうと思う。

余談ながら、師匠は、広島と長崎では、除霊をされた。原爆の場合には、一瞬で肉体が消滅した方々もいらっしゃった。そうした人は、自分が死んだことがわからないまま、ずっと迷っていたらしい。まったく予期できない死に方と、一瞬であっても「予期」できた場合とでは、結果が大きく違ってくる、というように、自分は理解している。
舞台から降りた方が、次の準備にスムーズに移行できるかどうか、という視点では、核兵器などはたぶん最悪なんだろう。どこからか飛んで来た銃弾、流れ弾が頭に当たり、本人がまったく「何が起きたかわからない」という場合も、たぶん、迷う可能性は大きいと理解している。少なくとも10日程度は、それぞれの文化、宗教に応じて、「亡くなったことがわかるように」しておくことが大切、なようだ。日本の「初七日」の慣習は、実は大きな意味があったらしい。

亡くなられた方も、大変。もっと大変なのは、災害にあって、生き残った方々かも知れない。
ただ、生きていれば、当面は舞台には立ち続けられる。
「何か」が起きなければ、経験にはならない。お金に恵まれ、人間関係にも恵まれ、何一つ苦労がない人生っていうのは、案外、この舞台の上で「立木の役」をやっているようなものかも知れない、と自分は思ったりしている。(そうやって、自分を慰めていたりして・・・)
あるいは、権力やら金やらで、他人を強引に動かす、そこに何か舞台の展開上で重要な「目的」なんかがあるならば、観客席からは「なるほど」と見られるのかも知れないけれども、ただ単に自分のためにそれをやっているなら、(観客席は意識も見ているから)あいつは迷惑なやつだと認識されて、次はろくな役回しでは舞台に立てないかも知れない。

そういう、この「物質世界」のカラクリを、知った上で「生きる」(肉体を持っている)のと、知らずに生きるのとでは、経験としての意味合いが随分違ってくる気が、自分はしている。

どこかで「解釈」に間違いがあるかも知れない。いや、大きな間違いがあったら、きっと来月には私は舞台を降りていると思います。まだ舞台に立っているなら、それほど大きな間違いはない、まだ師匠に「破門」をされずに済んだ、ということだろうと自分は理解する。

そうして、今自分にできることは、この話題を書くこと、だけかな、と思った。

あと、蛇足。のような「追記」

肉体を持っている我々の「オーラ」の色を、あれこれとテレビで話されている方がいらっしゃるけれども、塗り絵じゃないんだから・・・。色とりどりなアレ、あり得ないです。細かい話は、機会を改めて。

噛みつくのは、もう少し自分の中で「確信」に変わってから。というよりも、逆襲にどういうクロスカウンターをあてるか、自分の中で固めてから、にします。いずれにせよ、間違った「知識」を拡散することの罪は、非常に重い。

とりあえず、以上