文明考

死刑制度について、つい、突っ込んでしまった。
言葉を発してしまうと、リアクションというか、フィードバックが怖い。考えている訳じゃないのに、何か流れ込んでくる感じで、毎回僕は体感で、自分が発した言葉の解釈され方に振り回されている。そういう体質なんだろう、きっと。
あんまり、仕事に集中できないなぁ。天災にしても事件にしても、何もないのがありがたいけれど、つい反応してしまう。深くは考えない。これで良かったのかは、死んでから(肉体を抜けてから)じっくり反芻することにする。

生きること自体に、必死になる必要がない、そういう世の中になった。少なくとも日本では。
いや、昔っから、親のすねかじりというか、何も考えずにノホホンと生きていける羨ましい奴らは少なからずいたけれども、昨今はそれが当たり前になった気がする。サラリーマン制度、雇用制度の目指した姿なのか。
結局、「自分は何のために生きているのかわからない」なんていう結構重い課題を抱えて、迷走する若い人たちも増えたんだろうか。「食うために必死」なら、そんなことを考える余裕はなかったはず。(ってか、今僕はその「必死」の側なんだけれども)

言わせてもらうならば、そうした状況(生きる意味を考える余裕がある状況)こそが「望ましい社会の姿」かもしれない、とも考えている。師匠の講演会の話題。なぜ「通貨」は発明されたのか。「お金」を敵対視する宗教が少なくない、例えば「お金があるから人が欲に迷う」から「お金は罪悪だ」的な(だから、教祖様にお金を全部差し出しなさい、的な・・・)そういう宗教もある中で、師匠は短く簡潔に「お金」の存在価値を説明された。
「価値」を保存し、物々交換のための多大な労力を排除し、価値の評価を客観的に行うことで、生きるための「オーバヘッド」(間接経費、間接作業)を一気に小さくした。
生きる(=肉体を持つ)ということは、何層にも階層化されている「意識体の世界」(=霊界)では出来ない経験をする、ということ。私の感覚では、肉体がなくても意識体として生きている方々が少なくないから、「生きる」という言葉の使い分けが難しいけれども、とりあえずこのページでは「生きる」とは「肉体を持っている」という文脈で書く。
肉体を持つことによって、自分と「波長の合う」人たちと、だけではなく、あらゆるレベルの人と相互干渉することが可能になる。この「レベルが違う」というのは、別に「優れている」とか「劣っている」とか、そういうことではなく、ただ単に、「意識体」として生まれた時期が違うから、経験値が違うというそれだけのことで、レベルが低い人が「劣っている人」だなどという気は毛頭ない。例えて言えば、コンピュータ・ゲーム(RPGなど)で、ゲームを始めた時期が早ければ「経験値1000」なんていう人もいるだろうし、始めたばかりでゲーム世界に入り込めば、最初は皆「経験値1」あたりから始めるんだろう。それだけのこと。

現実問題として、自分よりも意識レベルの高い方と知り合って、その方の本気を伺うと「きれいごと」とか「絵空事」としか思えないような話題を列挙されることもある。しかし、それらを「実現」するための具体的な視野を持って、着々と進めている場合すらある。ご本人はごく自然にそれを語っている場合も、少なくない。あ、この人はそういうレベルの方なんだ、と自分は考える。ところが、そうした「自分の思い」を本気で伝えても、「何言ってんだ、このアホ、そんなこと出来るわけないだろう」とか、「カッコつけてんじゃねぇ」とか、そんな程度の反応しか返ってこないことも、少なくないと思う。わかりやすく伝えたつもりの比喩表現の解釈ですら、全く通じない場合も少なくない。
この年齢になって思うけれども、それは、自分の本音を伝えて、それを自然に理解してもらえる相手と、意識レベルが違いすぎて、全く通じない相手と、両方ともいる、ということで、それが「意識レベルの違い」ということなんだろうか、と思っている。相手に合わせて表現を変えなければ、意思疎通が出来ない。さらには、本音を伝えてもそれが全く通じないレベルの相手もいる。それがこの世界だ、と感じている。RPGのように、あらゆる「レベル」の人が強調したり、争ったりしている。わかりやすいのは、トランプ。

ところが、肉体を抜ければ、自分と同じ意識レベルの相手としか接点を持たないから、低すぎる相手に振り回されることもない代わりに、高すぎる方々がどういう考え方をするか、どういう生き方をするかを知る手段すらない。その両方を知ることができるように、意識体を無理やり「肉体」という「共通の舞台」に押し込んで、「ヒト」を成長(上のレベルに進化)させるために、この世界が神によって創造された、と自分は理解している。「ヒト」は「猿」の延長じゃない。創造された経緯が違う。

つまり、肉体を持つ(生きる)なんてことは、そもそも、容易じゃないように仕組まれているんだ。生まれてから死ぬまで、何一つ不自由なく幸せいっぱいで、人生の軋轢なんて全く感じませんでした、なんて方は、大方肉体を抜けてから、「あ、あれが出来たのにやらなかった、これも見逃した」なんていうことを後悔して、数百年に一度のチャンスを「一回休み」にしたことに気付くんだろうと思う。セカオワの歌の歌詞にもあったかな。

通常の感覚で言えば、「生きる」ということは「肉体を維持する」ということにつながる。食う。食うために働く。その部分に必死になれば、そのプロセスで人と出会って、自分とは違う意識を持つ人との接点を持っても、そうした方々の意識を取り込む余裕なんてまるでない。僕が生まれて育った昭和の中期(「戦後」がようやく終わった頃)は、そうした時代だったかもしれない。逆に、だからこそ人との接点が重要になって「生きている」実感を感じる側面もあった、そうした逆説的な解釈も、無論成り立つ。
今は「肉体を維持する」ことへの労力が、かなり低減し、ただ単純に制度に乗っているだけで肉体は維持できるようになってきている。他人との接し方に神経を遣う必要すらない。その結果として「何のために生きているんだ」という部分を関心事として意識する人が増えているんだと感じる。むしろ「意思疎通困難な他人と接点を持つ」部分に専念できるように、文明は発達して来たんじゃないか、と、僕は考える。

「自殺したいけれども、その勇気がないから死刑になりたくて人を殺した」という人は、マジョリティではないと思う。ただ、そこに至らないまでも「何のために生きているのか、わからない」という人は、少ないとは言えなそうだ。でも「いい点に気づいたね」と言いたい。「その答えを見つけること」自体に、まずは意味があるし、その「何のため」を実行したなら、そのプロセスにも全て意味がある。と、私は思う。

ただ、「このこと」がわかっていないと、何のためにヒトは文明を発展させてきたのか、という答えは出ないかもしれないと思った。その「このこと」というのは・・・
「生きる」ということは「肉体を持つ」という部分に限られていない。肉体を抜けてもヒトは意識体として「生きて」いて、その意識には「継続性」があって、肉体を持つ前も、肉体に入っても、その肉体から抜けても、「私は私」であり続ける。そして、肉体を持つ間に、様々なレベルの意識体と出会って接点を持ち、意識体の相互作用でエネルギーが大きくなれば、ヒトとしてのレベルが上がる(経験値が大きくなって、スケールアップする=進化する)。
そうした「仕掛け」があることは、感じ取ることが無理でも、知って欲しいと思う。この前提の理解がなければ、僕のこのページは論理的に成り立たない。

こういう話題を書くから、「あ、変な宗教だ」とか言われそうで、腹立たしいけれども、個人的には、自然科学としてヒト全般に当てはまることを証明したい、と思ったこともあった。私にゃ、無理かも・・・。「変な宗教に染まっている」なんていう言われ方には、反発したい。ただ、「マッド・サイエンティスト」扱いならば、甘んじて受け入れます。僕は最初から、この話題は「自然科学」だと思って書いている。

最後に要点をまとめたい。(論点が、どうズレているか、自覚がない。)
人類が「文明を発展させた」理由は、「生きる=肉体を維持する」という部分の間接コストを下げて、「生きて、少しでも多くの意識レベルが異なる人と接点を持つ」ことが出来るように、すること、じゃないかと思う。