日本兵の遺骨

戦没者遺骨 “日本人の遺骨なし” 鑑定結果を公表せず 厚労省

思えば、有限会社シグナリスの唯一の社員、松尾君とは、パプアニューギニアでの不思議な出会いが重なったことで知り合った。お互い日本に拠点があったのに、なぜかPNGの、ポートモレスビーのドミトリ(隊員連絡所)は、まだわかるとして、ワウの山奥とか、マプリックのタウンとか、およそ日本人が普通は居なそうな場所でバッタリと出くわす(正確な場所は覚えてないけど)みたいな偶然が3回はあって、お互い、「なんなんだろうね」という流れで知り合いになった。
そういえば、ドミトリで他の隊員(OBを含む)とマージャンをしていて、誰かに「お前、役満狙ってるのか」みたいに言われた後の僕の一言「この手が役満になるなんて、オバQが大場久美子に化けるより難しい」なんて言った一言が、なぜか、マージャンの話が出るたびに、松尾君を含む当時のOBから蒸し返された。(そんなにおかしなことを言ったか?)えぇと、大場久美子を知らない方、ごめんなさい。今なら、浜辺美波のがいいけど、でも、みなみちゃんなら断然あだち充で、あだち充ならみゆきで、って、なんの話じゃ。

なぜか、遺骨収集の時にも出会ったんだな。確か、ワウの山奥。

あの時は、理学療法の隊員OBの方が同行していた。僕が「人の大腿骨では」と言ったら、「いえ、これは豚のどこそこの骨です」と鋭いご指摘が何度も。そんな中で、現地の人が持ってきた遺骨の中に、どう見ても子供の頭蓋骨みたいな大きさのがあって、「この一角のご遺骨、おかしくありませんか?これ、子供のですよね?」と言ったら、厚生労働省の担当者(玉川さん、だったと思う)も、「確かに」と、持ち込んでくれた方に引き取ってもらうことに同意して下さった。だって、掌に乗るくらいの大きさの頭蓋骨が一つ、成人のものと思える頭蓋骨に混じっていた。一つが怪しければ、その一群は全部疑われても仕方ないと思う。

そもそも、遺骨なんてもう、形が残っていないと実感した。唯一の例外がWutung(イリアンジャヤとの国境付近にある村)の砂浜から出た7柱のご遺骨で、僕の教育局の同僚(確か、マーティン・ネラだ、ダーツ仲間)の実家のある村からの遺骨。彼に村でおじいちゃんだったかお父さんだったかに確認してもらって、上陸してきた連合軍に日本兵が殺された時の話から、そこに間違いなく遺骨があるという情報に基づいて掘った。「ここに埋めた」という当時を知る村の長老が指差したその場所から、1mくらい掘ると確かに、7柱のご遺骨が確認された。すごい記憶力。砂地だったため骨がしっかり残っていた。金歯もあった。(金歯は、日本人の遺骨と確認する決め手だった。)そこだけが唯一の例外で、後の遺骨は、ほとんど土にまみれて、骨だいうことがかろうじて確認できる程度、大きくても数cm角程度の大きさにまで腐蝕していて、原型をとどめていた骨など、セピックからは他にはなかった。

あっと、もう一つ例外があった。これも、同僚の村で見つかった頭蓋骨。遺骨収集団が来るまで僕の部屋で預かっていた。僕が頭蓋骨と同居していた話は何回か書いたと思う。それ以外は、人の骨とわかるものは、セピックではほとんどなかった。

今にして思えば、理由ははっきりしている。セピックでは、僕の勤務していた西セピック州政府教育局の同僚から、人脈を伝って、州政府の産業局だとか、東せピック州の教育局だとか、さらには、民間ビジネスの知人の知人とか、知人づたいで確認を取ったから、かなり確度の高い情報だけが集まって、僕が掘ったほとんどの場所からは、クレオソート(正露丸?大半の日本兵が携行していた常備薬)の小瓶や、ヘルメット、飯盒などが確認されたから、日本兵だと疑うことなく収集した。ただ、ニューギニア方面遺族会の田所会長の遺骨情報収集の呼びかけに、手紙を書いてきた人たちからの情報は、情報提供者との「初対面」から始まり、遺骨を確認することになった。セピックを離れたら、僕はもうただの日本人で、あるいは「日本政府の派遣した遺骨収集団のメンバー」でしかなくて、彼らはまず「日本人」として僕に接して来る。

ポリシーとして、彼らが遺骨収集に「協力」してくれる限り、薄謝であっても「お礼」はすべきだと、ずっと主張してきた。戦友会の方達は、「お願いだから、戦友の骨を『買う』なんてことはしてくれるな」と、そうした押し問答もあった。『買う』んじゃない、だって、当時の日本兵だって、荷物運びを現地の人に頼んだら、謝礼はしたでしょう。(その『軍票』が、結局紙切れになったとしても、謝礼はしたはず。)だから、僕は今、情報提供者には謝礼はしたい。そう主張した。戦後長い間、一切現地の人を信じなかったがために、遺骨の情報を集められず、遺骨収集が何回も空振りに終わったんじゃないかと僕は思う。

ただ、言わせてもらえば、僕は半分は現地の人間(よく、Mangi Sepik(セピックの男)と言われていた)で、だから「金目当て」の話はほとんどブロックできていたけれども、日本から足を運んで、「謝礼をするから、遺骨を探して欲しい」的な話をしたら、現地人の骨が「回収」されるのは、ある意味で当然と言えなくもない気がする。だって、みんなお金は欲しいもの。「金が欲しいのはわかるよ。だから謝礼は払う。だけど、僕は、日本人の同胞を連れて帰りたいだけなんだから、日本兵の情報を提供してくれ」と、そこから入って、当時どんな状況だったか話を聞いて、その村に泊まったり(ってか、他に行くところがないから、泊めてほらうしかない)夜っぴて話をしたり、そこから入って遺骨情報を集めた。情報を集めてから(遺族会を通じて、情報を)厚生労働省に流して、正式なPNG政府の許可を得てから、遺骨を動かした。
僕も、厚生労働省の「日本兵の遺骨」回収は手伝ったけれども、少なくとも、セピックから集めた遺骨については、100%日本人のものだと思っている。ただ、悪いけれども、マダン近郊やら、ポポンデッタ、ワウ周辺なんかはわからない。人的交流がない人たちとの交渉だから。そもそもが、「見るからに人骨」的な遺骨は、僕が関与した20年前、戦後50年当時でも、もうほとんど探すのは難しいんじゃないかと思えた。ジャングルでの腐蝕は速い。プラスチックとか、金属とか、「腐蝕しない」と思われているものでも、湿度と太陽光があるとかなりの速さで劣化する。普通の保存方法だと、フロッピーディスクが2年もたなかった。遺骨もそうで、よほど条件が整っているか、そうでなければ、現地の風習で洞窟などに安置された遺骨でもなければ、50年も前の骨は、原型を留めていない。

ニューギニア方面遺族会の田所会長に、「また遺骨情報収集を」と言われても、ある意味でスルーしていた理由の一つは、「もう、無理でしょ」だった。ジャングルでは、原型を留めていないのがほとんど。

当時は、もちろん(僕が通っている勉強会の)師匠の講演会には参加していなくて、師匠ご自身もまだ、講演会活動は始めていらっしゃらなかった。まだ師匠のことを知る前だったけれど、僕自身は、遺骨の収集やら、慰霊のお祈りに同席したりしながら、「もし、まだここにいるのなら、僕に取り憑いてもいいから、ぜひ一緒に日本に帰りましょう。」という思いは投げていた。いや、実際何体かには取り憑かれたかもしれない。それでもいいから、魂には日本に戻ってもらいたかった。当時はそう思っていた。

今だったら、かなりはっきりと伝えると思う。「いつまでも、こんなところにいないで、真っ直ぐに上に帰ってください。次があります。今回の経験を活かして、再び肉体を持つサイクルに戻って、戦争のない世界を作るために、声を出してください。」そう伝えると思う。師匠と違って、僕には直接の対話はできない。(師匠が、直接の対話ができる証拠?あるけど、疑いのある方がいらっしゃるなら、どなたか実際に試してみますか?生きていても、心を読める人が存在すると、僕は思います。)
肉体は、「乗り船」に過ぎない。今でいうなら、魂がドライバで、肉体は自動車という関係。自動車は、いつかは動かなくなるけど、ドライバは新車に乗り換えることができる。そう、その比喩で言うなら、「みなさん、ぜひ新車に乗り換えてください。新しい肉体を手にしたら、声高に、戦争反対を叫んでください」とそれを伝えたい。いや、実際に、すでにそうされている「今時の若い子供たち」もいるだろうと、思う。(サイクル的には短すぎるけれども、当時の日本兵の指導霊さんたちが肉体を持ってきている時期だと、僕は思う。)

肉体にこだわったって、仕方ないと、僕は思う。ご遺族の方々、向き合うべきは、スクラップになった自動車(肉体)じゃない、その肉体に入っていた魂(その人の、心、意識、その方の人格)、つまりその肉体を運転していたドライバの方で、肉体の残骸をどれほど拾い集めても、供養にはならないと、僕は今は考えています。

そんなことは、どうでもいいけど、また、ニューギニアを、ブラブラと歩きたいなぁと、思いを強くした。松尾くんとの社員旅行。稼がねば!