キログラム原器

キログラム原器の質量がマイクログラム単位で変化しているらしい。

臨床工学の「生体計測装置学」の授業の定番、「7つの基本単位」で(標準テキスト最新の第3版だけれども、どれだったか「古い」定義が掲載されていたのを、調べていて見つけたけど、どれだったっけか?)、長さ(メートル)も、時間(秒)も、アンペアも、ケルビンも、モルも、カンデラも、全部物理現象から厳密に「定義」できているのに、キログラムだけは「キログラム原器」が基準になっている。

質量の変化は計測できるのに、その元となるキログラムの量を、物理学では「定義」できていない。ということは、要するに「力」も、「エネルギー」も、現在の物理学では厳密に定義できていない、ということになるんだろう。この点についての「異論」はないと思います。定義できないから、原器を使っている。

僕の大学の時の卒業論文は、「ポジトロンCTの画像解析」だった。東大の斎藤陽一先生から、僕の指導教授の内山明彦先生に、学生を一人つけてデータを処理したいと「論文テーマ」を分けていただいて、僕はそのテーマを最終的には選んだ。第一希望ではなかったけれども。思えば、最初の就職先も、派遣国のパプアニューギニアも、第一希望が通ったことは一度もない。でも、結果的には、これで良かったと思える経験を随分してきた。ということは、いかに僕自身の「判断」が未熟なのか、ということだろうな。遅すぎないうちに、適切な方向に「転んで」流されまくってきて、良かったと今では思うけれども。

ポジトロン(陽電子)は、電子と質量が同じで、プラスの電荷を持つ反物質である。と、そこから始まって、理解するまで随分と勉強した気がするが、本当に理解できているんだか、なんなんだか。そして今では「電子」には「意志」がある、という話が量子論から出てきている。無論、「ヒトの意識」などとは全く違う種類の「意識」からの「意志」だろうと思うが、そうなってくると、なぜ「電子」は存在できるんだろうか、という疑問が湧いてくる。

雷雲の中では、プラズマ放電で大量の「陽電子」が発生していることが「発見」されたらしい。ということは、何もない空間にエネルギーを加えることで、「電子」も「陽電子」もペアで発生しているんだろうか。興味は尽きない。そして、発生した電子の質量は、エネルギーを、光速の二乗で割れば出てくる。(m=E/c 2)。この電子の質量は、(ということは、電子の発生に必要なエネルギーも)、環境によって変化するんだろうか?疑問だ。もし変化しないのならば、電子の質量はキログラムの「定義」になっていてもおかしくない気がするんだが、そうでないということは、例えば、磁場や、光量、温度などが異なると電子の質量も変化するんだろうか。(勉強不足だ。違う分野を歩んじゃったから、結構物理学も基本のところがわかっていない私。)

ただ、そうして考えてくると、俄然、師匠の講演会の内容のうち、自然科学系「物質世界の成り立ち」について触れられていた部分が興味深くなる。全て、現在の「自然科学」の話題と矛盾しない。それどころか、極め付けは「重力は、引力ではないよ、圧力だよ」という部分。ナンジャラホイ、なんだけれども、畳み込まれた空間のエネルギーが3次元という物質世界に投影された時に、どうやって「物質化」しているのか、その部分で「力」がどのように「質量」に働いているのか、あるいは「物質」が「力の作用先」として「質量」という性質をなぜ持つんだろうか。きっと突き詰めれば、何種類もの「力」の統一理論なんかも、いつかはクリアになってくるんだろうか。なんてことを、私は個人的に考えている。
特に、「霊」については、師匠は「意識を持ったエネルギー体」と表現されている。「神」についても言及はされているけれども、「高次元の意識体」という表現もよく使われている。そもそもが、「神」だの「霊」だのという単語を使うから、話がいかがわしい方向に向かう。「神」におすがりしたって、何かお願いしたって、何も叶わないと思います。ただ、僕らの「指導霊」さんたちは仲間として、時々ヒントだとか、手助けだとかしてくれている気がするけれども。(ただただ感謝。)「霊」ではなく「意識を持ったエネルギー体」、「神」ではなく「高次元の、僕らヒトのはるか上位に位置する意識体」と言い換えると、時々師匠の講演会は「物理の授業」のように聞こえることもある。私と同じバックグラウンドを持っている方々にも、参加願いたいけれども、無理だろうなぁ。何かさらに「新しい発見」があった頃には、僕も師匠も、もう肉体は持っていない気がする。それから興味を持っていただいても、もう間に合わない。

師匠の講演会での話題。今現在、「指導霊」とか「守護霊」がついていない人が、激増している、らしい。昔だったら、指導霊さんが「そんなことはやめなさい」と意識を送り、微かながらそれを受け取って、冷静になって、激情にかられての暴挙は働かない、そうした時代もあったのに、今は、「止める」方がいない。ある意味で見放されているんだろうか。自分のやってしまった行動の結果を、本人が実際に経験して自覚しなければ、進化にも理解にも至らない。だからこそ、もう敢えて「止めない」ようになって来た。それすらも、イエスの再誕に向けての準備の「始まり」なんだろうか、と、私は理解している。(違っているかも知れない。私の言葉を差し引いて、師匠の言葉だけ残したいのが本音なんだが。やはり注釈は必要な気がするから、仕方なく自分の考えも書いている。)だから、今後益々、激情にかられて「あんな程度のこと」がきっかけとなって人を殺したり、そうした事件は増えていくのだろう。「今後、そうした事件は増えるよ」ということは、師匠も講演会の中でおっしゃっていた。「なぜなのか」を多くの方に考えていただくように、「伝える」ことは、チンドン屋の仕事の一部かも知れない。そう思って書いた。(間違った解釈が存在しないことを、ただただ祈るのみ。)

話を戻す。
なぜ、「物質」は存在するのか、そこからアプローチしなければ、もしかしたら質量は定義はできないのかも知れない。

そして、いかに僕らはこの「世界」についてモノを知らないか、思い知らされている話題だった。