国際司法へ、海外の理解を求めるべき

徴用工訴訟、新日鉄住金に賠償命令確定 韓国最高裁
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3710236030102018000000/

Aさん(日本)とBさん(韓国)がいました。Aさん一家が、Bさん一家を支配した時期があった。
その後、AさんはBさんの死んだおじいちゃん(軍政)に、ご家族の皆様へのお詫びとして、一括して賠償金を支払った。
Bさんのおじいちゃんは、Aさんの家族は悪い奴らだ、悪い奴らだと、そればかりを息子や孫に伝えるものだから、Bさん一家の誰もがAさん一家は悪い奴らだと信じて疑わない。Aさん一家から賠償金を受け取ったことを内緒で、着服したことを黙ったまま、Bさんのおじいちゃんは亡くなった(軍政が終わりを告げた)とする。

Bさんの孫たちは、賠償金を支払え、一円も受け取っていないと騒ぐ。Aさんにしてみたら、不本意で、「あんたらのじいちゃんに、ちゃんと支払っただろうが」と、いくら言っても「いや、そんな話は聞いていない」と、それ一辺倒。聞いていないのは当然だろう。じいちゃんは使い込みを黙っていたし、「Aさん一家は悪い奴らだ」と、それしか聞いていない(そういう教育しか受けていない)んだから。

Bさんのじいちゃんの息子(政権についた政治家)は、じいちゃんの遺品を見て受け取ったことに薄々気付いていても、孫たちは騒ぐし、自分もこれまで孫を煽った行き掛かり上、もはや、じいちゃんが使い込んだことを孫に説得できない。

ざっと、こんな感じなんだろうか。日本は、条約だの協定だの、軍政の当時からどういう外交をして来たのか、その経緯を、Bさん(韓国)の孫(一般国民)ではなく、国際社会に資料を添えて、客観的な判断に耐えられるようにした上で、新日鉄住金なんかも、払わずにいるしかないんじゃなかろうか。
それが不満なら、韓国は国際司法に訴えたならいい、はずなのに、おそらく国際司法の場には持ち出さない。持ち出した途端に負けることがわかっているはずだから、国際司法に持ち出さずに、ただひたすら、国内向けに「日本が悪い」を繰り返すだけだろうと思う。

ただ、それでも、海外の理解を得られるならば、日本の外交的な立場は揺るがない、と思う。

ただ、こうなるともはや、日韓のあらゆる「条約」も「協定」も「覚え書」も、現在あるそうした書類は全て紙切れでしかなくなるし、今後の紛争を避けるためには、今後一切のそうした「相互に法的拘束のある合意を行わない、」という選択肢しか取れなくなるんだろうな、と思う。最悪ですね。

日韓関係の根幹を揺るがす元徴用工判決
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO37149270Q8A031C1EA1000/?n_cid=DSREA001

To love somebody – Bee Gees

手抜きページ ← 完コピ

There’s a light
A certain kind of light
That never shone on me
I want my life to be lived with you
Lived with you
There’s a way everybody say
To do each and every little thing
But what does it bring
If I ain’t got you, ain’t got?

You don’t know what it’s like, baby
You don’t know what it’s like

To love somebody
To love somebody
The way I love you

In my brain
I see your face again
I know my frame of mind
You ain’t got to be so blind
And I’m blind, so, so, so blind
I’m a man
Can’t you see what I am?
I live and I breathe for you
But what good does it do
If I ain’t got you, ain’t got?

You don’t know what it’s like, baby
You don’t …


抜粋したかったのは、ここだけ、でしたけど。

There’s a light
A certain kind of light

To love somebody
The way I love you

ちょっとひねろう。
I’m a man (私は人間だ、と訳したい。)
Can’t you see what He is?

新しい朝が来た! おしごと〜!


全くもって、朝っぱらから何か書け、書き続けろとせっつかれてるみたいで・・・寝起きは無防備だからなぁ・・・

押しかけてくる邪魔な人間どもは、軍隊を数千人出して、発砲してでも押し返せ、アメリカに侵入させるな、と、それがあの次元の方の生き方なんだろう、と、理解する。

心を閉ざすしかない、としても、それでも愛をもって他人に接することができるはずだ、と、それがたぶん、僕が目指している次元の方々の生き方、なんだろうと、朝っぱらから考えたんだか、感じたんだか・・・

今度こそ、おしごと〜!

フラッシュバックの教訓

せっかく、Nack5が30周年記念の特別番組編成、豪華キャストでやってるのに、ここのところの仕事は文章校正、文章の構成の見直しだったり、他人の書いたプログラムを読んだりで、ラジオがあると仕事にならない。残念です。とっても。大野さんと亀梨くんの対談を聴きながら、スイッチを切った。

さすがに「古傷」だから、かなり客観視は出来ているようで、比較的早めに抜け出せて良かった。なんだったんだろうと思いつつ、教訓を一つ見つけた。これが答え、ではないかも知れないけど。
意味のないことは、何も起きない。起きたことには全て意味がある、らしい。

30代までの僕は、とにかく強引で自己主張や承認欲求が強く、あまり他人のことは気にしなかったと思う。結婚できなくて当然。それが、盗聴やら盗撮あたりから、一転して(じゃなく、徐々に、か?)他人の顔色を読むようになった。相手の反応を見ながら、リアクションが遅れる。中にはあからさまに「愚鈍な奴だ」と決めつけて、見下してくる人も少なくなかった。たぶん、山の神もそうなんだろう。なんとなく馬鹿にしてかかって、見下されているのがわかっていても、引きこもりが長かった後だから、これは仕方ないんだろうか。
ただ、結果的にそれが積もり積もると、結構な破壊力を持ってくる。盗聴とか盗撮ばかりではなく、これも、結構フラッシュバックがキツイ。わかっていても、痛みを感じることがある。

先週の授業を思い出した。今、専門学校では(ちょっと強引に)自分の担当科目だけではなく、国家試験対策の要点整理で、全教科を授業で扱っている。今年は、ちょっとした危機感を感じているもので、古い教材を引っ張り出した。
専任教員時代、千葉キャンパス最後の1年間は、臨床工学を担当する専任教員が自分一人しかいなかった。国家試験対策も、僕が臨床医学まで含めた全教科を扱った。門前の小僧ではあるけれども、学生時代からの医用工学だから、医学系の専門書、教科書もそこそこは読んでいるし、仕事でも知識は補充してきた。一教科一コマでの学生の国家試験対策くらいなら、なんとかなる。僕一人だったけれども、合格率では池袋キャンパスに負けていなかったし。

ふと、気づいた。僕の担当科目、生体計測とか、電気工学、電子工学などの分野はとても苦手そうにしていて、授業中に当てても、不快そうに「わかりません」と答える学生が、別の教科では生き生きとしている。そうか、不得意なだけなんだと、あまりにも単純なことに気づいた。一応は教員だから、「見下す」ということはしないけれども、一歩間違えたら「出来の悪い学生」というラベリングはしかねない。学生だって不本意にそういうラベリングをされたなら、やはりなんらかのトラウマにはなるかも知れない。

「なんだ、このトロい奴は」というあからさまに見下しているような意識、っていうのは、ストレートに伝わって来ますからね。もしかしたら、自分がやっていたんじゃないかと、気付いた瞬間に、ドキっとした。やっちまってたかなぁ・・・

特に、盗聴・盗撮以後、電話やFAX、メールなどでも「お願いだから、そんな大事な話をしないでくれ」という意識と、その内容を盗聴・盗撮している(顔も正体もわからない)相手を意識しての表現、直接相手に返す言葉を全部構築したりしていると、どうにも反応が遅れたり、とてもチグハグな返事を返したり、ということも出てくる。端的に言って、第三者に聞かれていることを意識した人間と、そんなことを気にもしていない人とでは、会話が噛み合わない。最悪だったのは、学生救済で単位を出す話が出た時だっただろうか。その後、1年間くらい、激しく壊れていた。何をどうしたらいいのか、どうしたらよかったのか、わからなかった。(今でも、わからん。)あれが引きこもりの入り口。
結局、「馬鹿なやつ、トロい奴」と思われるのは仕方ないにしても、そういう応対をずっとされていると、結構なダメージは残る。そして、ついにダメだと思ったら意識のシャッターを降ろしちゃう。以後は、完璧に事務的な対応のみ。それはたぶん、中学生か、高校生くらいからの癖だと思う。親に対しても、たぶん、ずっとそうだった。
その上というのか、盗聴・盗撮以後は、人間関係なんて、もうグシャグシャ。こういうのは、二次災害っていうのか?

もしかしたら、あの盗聴やら盗撮やらは、僕自身が生まれる前に仕掛けをして来たのかも知れない。ニューギニアだのイギリスだのあたりまで伝わっていたのを知った時は、半分は驚いたけれども、残る意識の半分は「よし、やったぞ」だったかも知れない。今にして思えば、そのおかげで、師匠の存在を全世界にアピール出来ている。ただ、当時のメンタルは、もうギリギリだったかも知れない。
もし、結果的に「完全崩壊」せずに持ちこたえることを見越して計画を立てて来たとしたら、一体俺(今の自分、というよりも、肉体を持つ計画を立てた時点での、意識体の自分)は、どんだけ自信家なんだ、と、思いっきり皮肉を言いたい。自分に対して。

悔しいけれども、消化しきれるには、まだ時間はかかるのかも知れない。ただ、ささやかながら、「わかりきったこと」を見落としていた自分に気付いた点だけは、今回のフラッシュバック、良かったのかな、とも思う。みんな、得手不得手があるからね。

食後の腹ごなし。仕事に戻りま〜す。

トラウマ

フラッシュ・バックがきつい。
子供の頃からの、自分をわかってもらえない、何を言っても聞く耳を持ってもらえない、時にスルーされ、時に弾き返されて、鬱々とした記憶が一気に吹き出して、泥沼状態。
特にキツイのが、盗聴・盗撮に悩まされた30年前の記憶だろうか。
何を言っても弾き返されたりしているうちに、自分の中でシャッターが降りて、もうどうしても心を開くなんていうことが出来なくなる。無論、事務的な対応だけはきちんと出来るのだけれど。その全ての、弾き返された記憶が一気に吹き出している。
深追いせずに、早い段階で引き下がって諦めたような相手の方が、むしろ大丈夫なのに、大事だからと引き下がらなかった相手、自分の生活に直結する相手、ばかりに、選択的にシャッターが降りてる。全く心を開けない。そうなるまでのプロセスの、フラッシュバック。

こういう状態になる、ということは、要するに「感謝行」がきちんと出来ていないからだ、とはわかっているのだけれど。勉強会に十年以上も通っている人間の、陥っていい状況ではありませんね。

と、思いつつ、何故か、理由がわかった。実は、悪霊とか、心霊現象に関するページを一つ書いた。まだアップロードしていないのは、「条件」を満たしていないから。ある条件を満たしたらアップしようと思い、読み返し、ほとんど書き上げている。ただ、まだ「竜の目」を書き込んでいない。
これだ、と理解した。たぶん、どなたか、浮遊霊さんを引き込んでしまった。乗り気のしないページだったけれども、書くために必死で浮遊霊だとか、地縛霊だとか、地獄だとか、その世界をイメージし続けた。それで引き込んじゃったみたいで・・・未熟だ。

それはそれで、なんとか出来るとして、この、たぶん子供の頃からの「防衛方法」というか、特定の相手に対してシャッターを下ろしてしまう、という癖というか、習性というか、どうしたら解消できるのかが、僕の最大の課題かも知れない。
この「シャッター」が下りる前に、僕の言うことなどに聞く耳を持ってくれたなら良かったのにと思いつつ、既に十代前半の頃には「自分をわかって欲しい」一心で、相当に「鬱陶しい」自己表現をするようになっていたから、半分以上は僕自身の問題なんだろう。結局、最初のトラウマがその後のトラウマの原因になったんだろうか。さらに、そこから浮遊霊さんを引き込んだ。情けない。
泥沼だったけれども、1時間でなんとか気付いた。それだけは、多少は昔よりも、学習したか。

ディープ・ラーニング

疲れた。帰って来て、テレビのチャンネルをあちこち見ていたら、NHK教育でAIの自動運転技術の話をやってた。
学術的な根拠のある話題ではないけれども、直感的に、Hidden Layerの学習をブラックボックスにしてAIを学習させた場合、不適切な例えとは思いつつ、ハインリッヒの法則の「1:29:300」の「1」のケースが、とんでもない場面で発現して大事故につながる、ということは起きうる気がする。AIに任せてしまえば、確かに、経験則で何でもかんでも「学習」はしてくれると思うけれども、それは生物の持つ「知能」の発達プロセスとは全く異なる、という点だけは、理解、というよりも、覚悟しておく必要があると思う。
「機械学習」の「安易さ」に頼りすぎて、危険性を認知できる技術者がいないんじゃないか、とも思っている。

個体発生は系統発生を繰り返す。人間の脳も、顔だとか複雑な図形、道路への飛び出しの予測まで認識する過程で、単に明暗を認識するだけの原虫の脳、から、対象物を認識できる哺乳動物の脳に至るまで、それらの「学習」プロセスを、乳幼児の時期から一気に辿って、Hidden Layerというべき部分の学習を行い、そこに基づいて、図形認識、空間認識、行動認知を行なっている、と私は考える。ずいぶん昔、何かの本で読んだ。そんな研究があったはず、だと理解している。
人間の脳の「知的認識能力」も、極めて原始的な防衛本能から、高度に「人間らしい」相手を理解する能力に至るまで、成長のプロセスで積み上がっていくのではないかと思う。
つまり、人工知能に「人間らしい働き」をさせるためには、結局は「人間」が乳幼児期から学習するプロセスの、段階的理解を辿らせなければ、最終的に人間を置換する働きはさせられない。表面的にあたかも人間のような「判断」をさせられたとしても、中間プロセスの「判断」では、動物が長い年月をかけて脳に習得させて来た「認知能力」とは似ても似つかない経過を経ていて、それが、レアケースでとんでもない「大事故」を引き起こすリスクは持っていると思う。

先を急ぎすぎている。Deep LearningのDeepの部分、Hidden Layerのきちんとした意味づけを省いた場合には、人間の判断とは似ても似つかない「結論」をAIに突きつけられるリスクは、覚悟すべきだと思う。
なんてことを書いても、「産業界」は「結果優先」だから、事故が起きなきゃ見直しはしないんだろうなぁ。原発なんて、福島で未だに「居住制限」があるような事故が起きているのに、「想定外の事故は起きない」なんていう意味不明の説明がまかり通っている。「想定」できないから「想定外」なんだろうに。「想定外のことは想定していません。」そりゃ、当たり前だ。「知らない人は、誰一人として知らない。知っている人は、誰もが知っている。どうだ、参ったか!」みたいな議論で・・・はい、論理的には極めて正しいです。参りました。

実は今日、久々に法政の講師室で、サイエンスライターの内村先生と世間話をさせていただいた。今日は昼飯に、コンビニのペペロンチーノを買って講師室に持ち込んで、奥の部屋でこっそり食べたつもりが、なんとなく匂いが充満してしまって、ごめんなさいを連発しながら、内村先生に「くさやの干物弁当じゃないから、ご勘弁を」と、そんな話を口火に、シュールストレミングの話になり、内村先生曰く「イヌイットの食べ物に、シュールストレミング以上に臭いのがあるらしい。なんで俺、こんなに臭い食い物の話に詳しいんだろう」なんてお話から、京都の「なれずし」の話題になり、それからどんな経緯を経たか忘れたけれども、電総研の話題に飛んだ。
電総研では、イカの巨大神経で「神経回路」を調べていた。「そこでは、実験室に天ぷら用の鍋がおいてあったそうで、しかも、実験用のイカを飼育するために、イカの人工飼育のギネス記録を持たれていたそうですよね」なんて話題を振ったら、内村先生、全部ご存知で。
東大の数理だったかな、僕らがバイブルのようにしていた甘利先生の「神経回路網の数理」も、内村先生はご存知だった。というよりも、甘利先生のお弟子さん(?だったかな)の南雲先生、その南雲先生のお弟子さんが、内村先生の部活の後輩(だったかな)で、先生のよくご存知な方らしくて、神経回路網研究の話題に飛んだ。

今時、「AIのディープラーニングでなんちゃら」の話題に食いついてくる人は多いけれども、「神経回路網の数理」がらみで、ホジキン・ハックスレイの方程式がどうこう、なんていう話題が通じる人なんて、滅多にいない。嬉しかったし、もうちょっと、授業開始まで時間があったり、あるいは、これが居酒屋なんかだったら、いつまで話をしていたかわからないなぁ。数十分だったけれども、話題が飛びまくった。生物物理の領域なのか、ナトカリポンプを逆回しさせるとATPが合成される、なんて、僕は知らなかった。内村先生は、「日本が量子コンピュータを完成させた」報道に思いっきり懐疑的で、というか、あれは「素人を騙す」ようなお役所がらみのご都合の政府報道じゃないか、とお考えのようで、光の干渉を原理(?なの?実は、きちんと理解していない)とするのは、本来の量子コンピュータとは違うぞ(的な、すみません、伝える人間がきちんと理解していないから、これまで書かなかった)というようなお話は、数ヶ月前に再三聞かされていたのだけれど、今、理学部の研究者が、工学部でやるような分野に首を突っ込んでいて、みたいなお話も聞いた。その辺の話題は、井戸端会議、じゃないけれども、世間話としては十分楽しませていただいて、(こんな話題がかみ合う人は、滅多にいない)ここまで話の枕を書いて、このページの本題まで、もう少し。まだ本論じゃない。くどいね。

量子論の、不確定性原理。ハイゼンベルグの式は、位置のデルタと運動量のデルタの積が定数になる、だったと自分は理解している。つまり、端的に言って計測によって状態を確定すれば、状態が変化する、ということを言っていると理解する。量子コンピュータが量子論的に多値を持つことを利用する、なんてことが、本当にできるんですか?多値を持つことなんて、できるんですか?単に「計測」できない、「計測」したら状態が変わるから「わからない」だけで、それを「多値」と呼んでいるだけじゃないんですか?と、いう、極めてど素人っぽい質問をさせていただいた。
江崎玲於奈さんが発見された「トンネル効果」。量子エネルギーのポテンシャルの井戸。電子がすり抜けた先の「出現場所」の確率は、無限遠に近くてもゼロじゃない。ワープ、ですよね。そんなことが起き得るのに、そんな原理をコンピュータに使えるんですか?という話題の振り方。
念のために書くならば、私はこの分野のど素人ですから、本職から猛烈な迎撃を受けるのは覚悟の上で領空侵犯してます。

こんな話題をしていたら、内村先生が、ポロッとおっしゃった。不確定原理の発見に絡んだ、ジョセフソン博士、ジョセフソン効果とかジョセフソン素子を発明された方の興味が、晩年は「心霊現象」の方にいっちゃった・・・と。(やっと本題。)
内村先生には、僕がこんなWEBページを書いているという話を直接したことはない。というよりも、僕は誰一人として、このWEBページの存在を話題に取り上げて直接会話したことはない。「公然の秘密」みたいな、不思議な自己表現。そこに来たかぁ、と思った。その辺で、タイムアウト。「そろそろ授業が始まりますね。」と(実際にそういう時間だったので)それぞれ教室に向かう感じになった。さてと、ようやっとここからがこのページの本題。

万有引力の法則を発見されたアイザック・ニュートンは、カイトロンというお名前の9次元神霊だと、「師匠」が講演会でおっしゃっている。以前一度だけ、カイトロン(様)ご本人の意識を受け取って、講演されたことがあった。また、ニュートンがなされた仕事について、これも一度だけ、講演会で聞いた覚えがある。カイトロン(様)は、自然科学を「神の意識」に結びつける仕事をされるつもりでニュートンとして肉体を持たれたはず、だった、(と、自分は記憶している。師匠の講演会CDで、この日の話題を聞き返したなら、これと異なる表現をされていたかも知れないので、私の理解間違いがあるかも知れない。ただ、聞き返そうにも、もう600回を超えている講演会のCDのどの回だったかがわからないと、探しようがないので・・・確認できないまま、書き続ける。)
自然科学は、「心霊現象」と決して「相容れない」学問分野ではない、はずだと私は理解している。心霊を知覚できる人が少なすぎるだけ。プリンキピアでは、そこを埋めるはず、だったのに、自然科学に終始してしまった、と、師匠はその点に不満をおっしゃられたように、記憶している。(相当な記憶違いがあるかも知れない。)

ジョセフソン博士も、あれ程の業績をあげられた方なら、間違いなく6次元以上だろうと思う。そして、6次元以上の方が仕事をされる際は、「上」からの意識を受け取る場合も少なくない。手塚治虫氏は6次元の方で、上からの意識で書かれた作品も少なくないと聞いた。超能力を使う三つ目族は実在した。チャクラはその名残。詳細は、勉強会のメンバーにお聞きください。なぜ三つ目族が滅亡させられたかも講演会で聞いた。6次元の方の中には、神の実在を確信した上で、「上」からの意識をこの現象界に伝えようと覚悟して肉体を持たれる方も少なくないだろうと思う。だとしたなら、ジョセフソン博士が晩年、「心霊現象」の方にシフトされたとしても、何の不思議もないだろうと、私は思った。思ったけれども、なかなかこうした話題は、面と向かって自分の周囲の方とは会話できない。ごめんなさい、わたし、とってもシャイですから。
なかなかなぁ・・・師匠の講演会の話題を、日常的に周囲の方に伝えるには、結構ハードルが高いものがあるのも事実で・・・。もういいです。僕はこのスタイルで続ける。本当にもう、蚤の心臓の持ち主なもので・・・実を言えば、私はものすごい小心者ですし。

「脳」の機能や働きは、「意識」の振る舞いとは違う、と私は理解しているけれども、「意識体」の乗り物が「肉体」である以上、当然のように、ヒトとしての意識体を受け入れやすいように「人間の脳」も進化してきたに違いない、と私は考える。(ここは、師匠の講演内容からは、離れています。)
経験した内容は、脳ではなくて魂に刻まれる、とは、師匠はよく講演会でおっしゃる。だとしたら、真のバック・プロパゲーション、人間が行なっているディープラーニングとは、脳の神経回路ではなく、その脳とリンクしている意識体での学習なのかも知れない、と私は考える。

俗にいわゆる「霊」とか、できるだけ「霊」という言葉を使いたくない私は「意識体」と言いたいけれども、私自身は「だって、いるでしょ?」という立場を押し通します。その「意識」の階層性を考えた先に、「電子にも意識がある」なんていうことが「証明」できたらいいな、ということは考える。トンネル効果で、電子が一旦意識体に戻った後、数cm先に現れたとして、その「ワープ先」で、どこまで飛ぼうと思ったのか、それがそのたった一個の「電子」の意志によるとしたら、そこにあるのは「計測の客観性」ではなくて、「電子の主観」だと思う。これは、京大の先生が書かれていた。

そして、これは師匠の講演会の受け売りだけれども、「神」という単語は、地上のすべての言語に存在する。パプアニューギニアの部族語にも、少ない語彙の中に「神」があることは知っている。SIL(Summer Institute of Linguistics; キリスト教の聖書を全世界の言語に翻訳しようとしている団体、だと理解している)の方は、ニューギニアで何人とも行きあっているけれども、キリスト教の「神」を部族語の「神」に訳してもいいんでしょうか、なんていう質問をしたことって、あったかなぁ。改めてその疑問は持った。けれども「神」という単語が全世界にある、と師匠はおっしゃっていた。存在しないものが、それほどに普遍的に「言葉」で扱われることがありますか?という師匠からの問いかけでしたが、皆様方はどのようにお考えでしょうか。
加えて言えば、パプアニューギニアの部族語には「霊」という単語もあった。遺骨収集の際に、ピジン語でのやり取りだったけれども、現地の方の話された単語がピジン語のマサライになったり、英語のスピリットになったりした。「霊」の存在を扱わない「文化」や「風習」はあるんだろうか。文化人類学者に聞いてみないとわからないけれども、「原始宗教」が先か「霊の認知」が先か。知覚できる人は、絶対にいつの時代にもいたはずだと私は考える。

かの、アイザック・ニュートン氏がやりそびれた仕事。僕のごとき低次元にはできようはずもないけれども、でも、挑戦するのは自由。いや、違った。師匠が「神が現象界を作った時の設計理念」なんていう話題を時々講演会で話される(間違っても、師匠以外の口から他人に伝えるな、と釘を刺されている部分)から、僕はそれをこの話題に結びつけて考えているだけ。こうして師匠が肉体を持たれなかったなら、描写すること自体が困難な話題だったのかも知れない。だとしたら、僕は「挑戦」しているんじゃない。ただ淡々と、師匠が講演会で話された内容を、可能な限り忠実に、ただし、私自身が経験して、考え抜いた内容と重ね合わせて、他人に伝えようとしている。それだけだった。これは「挑戦」じゃない。そして、自分自身の経験、自分自身で考え抜いた内容を話すことならば、師匠も容認して下さっているはず。(間違いがあったなら、どこからか茶々が入るだろう。もし、とんでもない間違いがあったら、僕自身が「突然死」するだけ。「これ以上は、もう止めろ、」と。止めていただけるのならば、むしろ安心して続けられる。)

自然科学系の人間が、「心霊現象」の方にシフトしたら、いけないんですか?むしろ、自然な流れじゃないんですか、と言いたかったけれども、気の小さい私は言えなかった。意味もなくタブー視されている気がする。意味のない、先入観や偏見に基づくタブーなら、そんなタブーは要らない。

内村先生と交わしたみたいな会話を、誰とでもできる訳じゃない、ってことはよく理解している。いつか、今日書いたみたいな話題も普通に持ち出せるといいのだけれど、普通は浮いちゃうからなぁ・・・自分の気の小ささを自覚すること、しきり。
ただ、師匠の講演会の話題を持ち出せなかった部分はともかく、内村先生との会話は、とても楽しくて、時間経過の短い午後の數十分(十数分?)だった。
たまにこういうことがあると、また2〜3週間頑張れる気がする。自己確認みたいなもんですね。
一粒で300m

笑いの健康効果

NHKの朝ドラの後、いきなり大喜利の予告が始まった。

ラジオの「すっぴん」とテレビ「朝イチ」のコラボ?なんだか乗せられてしまった感があるけれども、乗った!笑いの健康効果。

思えば、僕は査読のある論文は一本も書いてない。「論文」的な書き方でまとめた、ほぼ「最後」かな。pdfファイルです。ファイル名に日本語が使われているので、環境によってはうまく開けるか・・・WORDにはめ込んだ「図」が一つ、壊れていた。オリジナルのWORD文書は・・・探せばどこかにあると思うけれども。

電気学会原稿060714-3

要点は二つ。心拍変動の周波数解析で、HFとLFの比を求めるやり方で、交感神経の働きと副交感神経の働きを指標化。笑い刺激の最中は「交感神経」が活発になり、その直後、リバウンドがかかるように副交感神経が活性化する。以上。データを使って長々と書いていますが・・・

日本ME学会(日本生体医工学会)のポスターセッションで発表した時は、「笑いが交感神経刺激ですか?笑える研究ですね。」などというコメントも頂いたけれども、だってデータがそうなってるんだから。笑いは基本的に気持ちを「攻撃的」にすると思う。ストレスや病気に対して。その反動で副交感が活性化する、と自分は考えている。

唯一の国際学会は、シカゴのIEEE。立ち見が出た。心臓発作の予知・監視・通報システムの研究。1998年だったかなぁ。
そうだった。初めてで唯一の国際学会発表で、笑いをとった。「転倒のデータはどうやってとったんですか?」「学生にヘルメットをかぶらせ、床にマットレスを敷いて、倒れてもらいました。嫌がってましたけど。」生活動作のモニターのうち、「転倒」くらい簡単なデータはない。受け身を取っても2Gとか3Gがかかる。振り切れるからすぐにわかる。心臓発作にしても、突発性の重篤な症状は負荷応答だと自分は考える。

ただ、僕はもうIEEEは退会しようと決めた。多分もう、学会発表をするような状況にはならない。AAAS(サイエンス誌)の会員も退会する。生活を立て直すのが精一杯。心臓発作の予知も、笑いの研究も、ITCの教育応用も、世間ではもう僕の先を行ってる気がするし、リタイアするのにはいい頃かな。日本生体医工学会も、次は更新しないと思う。

一番身近な人に何か相談をすると、1秒以内に「そんなの絶対ダメ」「何でそんなこと言うの?」「何言ってんの?」「無理無理無理」などなどの返事が返ってくる。その辺の押し問答をもう何十回と繰り返した今、ちょっと疲れたというか、研究なんてできる環境じゃないことは痛感した。大学ですら、科研費の申請を「悪いことをするに決まってる」とか言って兼業届の書類を「不受理」にして来たし。人生、切り捨てることも大事。心臓発作の予知、だけは、形にしたかったけれど。どなたかに託したい。

僕を、うまい具合に「乗せて」、マネージして、そこそこ金も儲けられるように使いこなしてくれる相棒が、この辺の研究分野でも欲しかった気がするけれども、難しいですね。株式会社のジーエムエスの林さん。まさしくそういう方だったのだけれども、当時の僕は、盗聴と盗撮でメンタル的にかなり潰れていた。
基本的に僕自身は、信頼できる人には、従順についていく「性格」も持っているつもりなんだけれども。大学でも、7年くらいだったかな、直属の上司だった江木先生には(きっと、使いにくい部下だったに違いないけれども)きっちり仕事はこなしたつもり、だった。人生って、パートナー探しはとても大事ですね。

いつかまた、医療分野にも戻りたいけれども、当面僕は製造業関連の仕事に特化して生活を立て直そうと今は思っている。30年以上、1984年から日本生体医工学会の会員だったけれども、ケジメをつける意味で、学会関係は全部やめようと決めた。

なんだか、遺言だ。「笑いの健康効果」は「笑える研究」だそうだけれども、一応データは出ているので、ご参考までに。

麻生発言

こんな発言があったんだ!?

不摂生な人の医療費負担「あほらしい」に麻生氏が同調

自分で飲み倒して、運動も全然しない人

色んな人が確かにいるけれども、運動したくても仕事に追いまくられて時間が取れない人だっている。それも、デスクワークでほとんど体を動かせない、指先しか動かせない状況だってあるし。
どんな仕事をやっていても、理不尽というか、どうにもやり切れない、逃げ出したくなることだって山ほどある。実際に、酒とかアレとかコレとか、逃げまくってる人だっているだろう。私なんてもう、日々逃げまくりww

「自分で飲み倒して」って言ったって、もし、仕事が面白くて仕方ない、家庭にいることが楽しくて仕方ない、そんな環境なら飲み倒すほど飲んだりはしない人だって少なくないという気がする。面白くない仕事をなぜするか。仕事しなけりゃ金にならないでしょう?居心地の良くない家庭、って言ったって、家庭環境なんてそうそう簡単には変えられない。必死に家族に合わせている人は世間には山ほどいると思う。(Nack5のゴゴモンズ参照。)ついでに言えば、金があれば多少の問題点があっても問題が表面化しない場合も少なくない気がする。
面白い仕事を自由に選べるような政治、家庭内の問題が表面化しない程度の金を誰もが持てるような政治をしてくれているなら、飲み倒すほどは飲まない人だって多くなると思うのに、現実にそういうハメを外す人も多い、ってのは政治にも責任がありませんかね?違いますか、なんて思ってしまう。新しい内閣の顔ぶれで、金持ちの御曹司が何人いる?下のものの気持ちなんて、わからんだろうなぁ。

こういう一言は、財閥の御曹司なんかで、やりたくないことを一切しなくて済む人には言われたくない。
そうは言いつつ、私自身もそこそこ親には遺してもらっているから、まだ、なんとかなってるけれども、麻生さんとは比較の対象外だろうなぁ・・・吹けば飛ぶような、ってか、吹かれなくても飛んでる気もするし。

麻生さんとは違って、飲み倒す余裕もないけれども、しゃぁねぇ、頑張るか。
こんなこと書いてないで。

言葉

悔しいけれども、仕事にならない。
今朝(日曜日、朝)、自治会の広場清掃をすっぽかしてしまった。すっかり予定を忘れていた。つまり、どういうことかと言えば、ここ数日ずっと、この状態が続いている。
一人でいると、固まっている。何もできない、ほとんど何も考えていない。(「考えていない」=「思っていない、感じていない」とは違いますので、念のため。)
結果として、予定とか優先順位とかが、もうまるで、きちんとできていない。しっかりしなきゃ。

で、不思議なことに、目の前に誰か人がいると、条件反射的に勝手に頭が働いてくれて、勝手に体が動いて、不思議なことに大学の授業すら(記憶を振り返って見て)それなりに「形」になる授業ができている。週9コマのノルマをもらって、手取りが少ないから非常勤も続けていて、週15コマ程拘束されていた時は、『先生、演習のコマ、課題だけ出して教壇でうつ伏して寝てましたよね』って、はい、覚えています。毎週20時間以上、授業して、それなりに意味のある言葉を発する生活の時は、さすがに充電が追いつかなかった。でも今は、体調がどうこうとかではなくて、何なんだろう、反応してスイッチが入れば、きちんと仕事はできるのに、ここ数日、無風状態になると、固まってしまって、動けない。

昨日だったかな、Nack5、Alfeeの坂崎さんの番組に、小室等さんがゲストで出てきて、何十年ぶりかにラジオで小室さんの声を聞いた。中学生だった頃か、高校だったか、深夜放送の「小室等の音楽夜話」を、ほぼ毎晩聞いていた。懐かしい。谷川俊太郎さんの詩集を手にしたのは、小室さんの番組がきっかけ。今日は、ついさっき、松山千春さんの番組。坂崎さんもそう、小室さん、松山さん、みんな「フォーク」(出身)か。言葉を伝えたい人たち。昼間は、由紀さおりさんの番組を聴いていた。由紀さんも、言葉を大切にする方みたい。固まりながら、一日中ラジオは聞いていた。

数値解析はできないけれども、「言葉を伝えたい人」の言葉には、何か、何なんだろう、「コトダマ」だろうか、宿っている気がする。オバマさんにはあって、トランプにないもの。歌でもそう。
学校の教員をやっている以上、学生を値踏みするつもりのないことは理解して欲しいけれども、やはり、その人の「次元」は言葉に現れる。霊格が低いから低く見る、なんてことはない、そこは勘違いして欲しくない。むしろ、「こいつ、できるな」と思ったら、「勝手に俺から盗め」と思う。盗みやすいように見せる。「『技や知識を盗め』は、無理だろ」と思ったら、こちらもスイッチが入って、比喩を駆使したりして、何とか伝えようと思う。
「次元」って何?すみません、師匠の受け売りなので、師匠の著書をお買い求めいたくか、私のバックナンバーに目を通してください。消してない分だけで、すでに300を超えてるけど。消した分を加算したら、Facebookなんかも合わせて、たぶん、2000ページを超えてるけど。すみません。私のページを探すより、師匠の著書の方が早いと思う。

師匠の講演会の受け売り、というよりも、師匠の著書に書いてあるので、この辺は平気で書ける。人類は、4次元から9次元まで。4次元は、肉体を持つこと自体が貴重な経験となる方々。5次元は、いわゆる「いい人」。6次元は、専門職。7次元はあらゆる分野の知識を網羅して、自分の知っている知識をひたすら伝えたいと思う人。8次元は、もはや「人間」という意識より「生命体」としての意識に近づいて、たった一人で「世界」を動かすだけのエネルギーを持つ方々。9次元は、最初から「神の思い」を持たされた状態で生命体として生まれた、最初から「人類を指導するべきヒト」として創造された存在。
7次元は、リンカーン、坂本龍馬、田中角栄、など。8次元は、谷口雅春、ゴルバチョフ、(イスラム教を伝えた)ムハンマド、マルチンルーテル、など。9次元は、大川栄策(でしたっけか?)、高橋信次、イエス、モーゼ、ニュートン、孔子など(以上、敬称略)。「上」の方々はどうでもいい。問題はとにかく、4次元、5次元の方々、だと思う。師匠の講演会の受け売り。「神の実在を確信できなければ、6次元には上がれない。」

そして、思う。「神は実在する」と、どれだけ書いたとしても、伝わらない相手には伝わらない。モーゼは海を割った。8次元でも空中に浮揚した方はいらっしゃるらしい。師匠のやられることは、はっきり言って(意図はわかるけれども)滅茶苦茶(気にしたくない)。伝えたいために「奇跡」を見せられた方々は、少なくない。だけれども、ほんの僅か時間が経ってしまうと、もう元に戻る。出エジプト記に書かれている。目の前で海を割られても、やがて元の「信じていない」状態に戻る。

「霊体」としての寿命は、「地球」とか「太陽系」の物質世界の寿命よりも、はるかに長い。ということは、居住に適した惑星に移住しながら肉体を持つという経験を積み重ねている。星系をまたいでの移住ができるのは6次元以上。だから最初は地球にも6次元以上の人しかいなかった。(なぜUFOを日常見かけないかは、別の話なのでここでは書かない。)
そこから「地球生まれ」の霊体(厳密には「移住組」から白紙の状態でコピーされた、まっさらの霊体さんたち)が生まれた。最初は4次元。そこから5次元(いわゆる、いい人)に上がった方たちも、少なくない。普通なら、数十億年かかるプロセスなのに、創造主が、今回の地球では「他人と自分を比較して、気にする」という「特性」を人類に持たせたらしい。他の星系では、他者を全く気にしないところもあるらしい。その結果、生まれてまだ1億年も経っていないのに、早くも6次元に上がった方もいらっしゃるらしい。けれども、誤った欲の使い方で、他人と持ち物を比べるなど「モノ」を比べる方に集中したりして、悪影響も出て、4次元や5次元に留まる方々が大半。このまま進化できなければ、6次元に上がれなければ、やがて、太陽系の寿命が尽きる時、時間の問題で太陽の寿命と運命を共にするのか。聞いたことがあるような、ないような・・・思い出せない。コンピュータの世界だったら、「ガベージ・コレクション」というのがあるけれども。

まとめます。(論点が漂流した。)

言葉を発する時も、聞く時も、最大限、気をつけなさい、と。言葉を発する時の誤りは、他人を巻き込む。それは、表面的な意味で。
言葉は、自分自身の「意識体」が構築する。「脳」で「考えて」出て来るものではない。「思いを口にする」時に出て来る言葉は「意識」が発する、という気がすごくした。ということは、発した言葉の誤りが「魂を落とす」ことにつながると思う。
AIが言葉を「記号」として処理して、人間の「脳」には簡単に勝てても、「意識」には太刀打ちできない、と自分は考える。

おそらく、6次元以上の方々には書く必要がないこと、だったのかも知れない。魂の中に「神の実在を信じる」ものが入っているはずだから、あとはそこに棹差すだけ。輪廻転生で毎回肉体を持つたびに、落ちることがないように気をつけるだけ。特に6次元の方々は「自分のスキル」を高めるために集中して、あまり周囲を気にしない性向がある、らしい。その分、周囲に流されることは少なくても、自分勝手になり周囲を見下したりして、肉体を持った本来の目的を見誤りやすい。

5次元の方々には、もしかしたら、私が媒介している師匠の言葉も、受け入れてもらえるような気がする。ただひたすら、自分の周囲の人間に気配りを持って愛情を注いで生きる。疲れる生き方かもしれないけれども、そうすることで自身のエネルギーレベルが上がって、いつか6次元にまで上がれる。6次元にまで上がれれば、いつか太陽系の寿命が尽きても、他の星系に移住できる。

問題は4次元の方だろうと思う。そもそも、私などが師匠の言葉をストレートに伝えても、自分の経験を被せてどんな表現をしたとしても、たぶん、その言葉は言葉としては伝わらない、そんな気がする。人間なんて、死んじまったらそれっきり。だから生きたいように生きる。奪おうが殺そうが自分の勝手。そんな意識が、心の中にある。4次元の方々には「言葉」では通じない気がする。
ただ、周囲にいる5次元以上の方々が、愛情を持って接するうちに「こういう生き方もあるのか」と知って、自分自身で生き方を変えていく。そのプロセスが必要なのかも知れない。日常的な思いやりや気配り、災害時の協力や倫理的な行動など、「あるべき姿を伝える言葉」を一番伝えやすい、説きやすい国が日本だったのかも知れない。だから、高橋信次氏も、大川隆法氏も、師匠も日本を選ばれた。
その一方で、言葉ではなく、行動で人を変える、4次元の方々にはそれしか方策がないのかも知れない、とそんな気がした。そのためには、行動を見せるしかない。出来ることならば、世界の中で、国対国という関係の中でも、日本にはそのように振舞って欲しいと、最初は思っていた。

とにかく、まず、眉唾でもいいから「神」の実在を信じてください。まずは、そこからか。輪廻転生で、何度でも人間として生まれ変わる。肉体の中に入っている時には、脳がまっさらの状態に戻るので過去の記憶を引き継げなくても、知識として脳に蓄えたものではなく、経験して魂に刻んだものは持ち帰れる。その蓄積で、人は進化する。
私たちが、どんな立ち居振る舞いをするか、だけではなく、心の中で何を思ったかまでもを、神だけではなく何十億、何百億の霊体さんたちは見ることが出来る。特に親しかった友人や両親などは、霊体になっても注目しているかもしれない。肉体を持ったこの世界で注目を浴びている方々は、霊体さんたちからも注目されているかもしれない。それを知っておくだけでも、生き方は変えられるかもしれない。(と、自分に言い聞かせている。)現象界で誤解されても、真実を知っている方はいらっしゃる。逆に見せかけだけ取り繕っても、上には全部知られている。

再び、この「言葉」も、5次元以上の方々には通じたとしても、4次元の方々には届かないかも知れない。

師匠が講演会で話されていた。でも、師匠が講演会で話される数年前に、僕はネットに書き込んだ(15年位前のバックナンバー参照)。「モーゼの十戒」殺すな、奪うな、以下省略。たったそれだけのことが、全くできていない。6次元でも落ちる人は激しく落ちる。4次元とか5次元には、「殺すな」「奪うな」なんて、「殺さない、奪わないのが当たり前」の感覚が、全く理解できなかったりする。伝わらない。「伝え方」がわからない。固まった。
そうか、「伝わらないんだ」と、ようやっと理解した。師匠が、「私が直接伝えて、それで何も変わらなかったら、創造主がどういう判断をすると思う?」とお話しされていた内容が、やっと理解できた気がする。

言葉の「大切さ」を考えると同時に、思ってしまう。「伝えたい思い」を何も持たない人間の発する「言葉」にどう対峙すべきなのか。そういう問題(トランプね)もあるけれども、伝えたい言葉が伝わらない時、どうしたらいいか。行動を見せることしかない。行動を見せることで、神を信じること、他人を信じること、他人に礼節を持って接することの大切さを、まだそうした生き方を知らない人たちに伝えていく。そこが大事なんだと、ここ数日間、固まり続けてやっと理解するに至った気がする。

財布を落としても現金を抜かれずに戻って来る。そんな夢のような場所が、この地球上のどこにあるんだ?そう思って生きている人は、世界には山ほどいる。
どこかにありませんでしたかね?もしあったとしたら、どうか変わらずにいて欲しい。そういう社会を構築できるという実例を見せつける社会であり続けて欲しい。その中で、いずれ全ての方に少なくとも6次元までは上がって欲しい。師匠の講演で私は、師匠のか、創造主のか、何とも言えないけれども、そんな思いを感じ取っている。

師匠は講演会で、こうもおっしゃった。「イエスが再誕する前の世界は、家族すら信じられないほどに人心が荒廃する。そんな中で、この勉強会の会員の皆さんには、周囲に惑わされることなく、人としてあるべき生き方を貫いて欲しい。」5次元に上がった、6次元に上がった、そうした進化した方々にとっても、周囲に引きずられて、平気で嘘をつく、平気で他人を傷つける言葉を口にする(あ、私!)、そうやって「落ちる」ことがないように生きることの難しさ。(やっちまった、と気付いたなら、反省と感謝。何もなくても反省と感謝。そのやり方は「各論」ですが、勉強会の会員までどうぞ。)

僕は一体、何を伝えたかったんだろうか。相変わらず、要領を得ない、意味もなく長い文章を書く奴だ、とは思うけれども、伝わるかどうかは別にして、書き尽くした気はした。
これで「固まる」モードを抜け出して、日常の仕事に戻りたい。

幕引き

固まってしまって、仕事にならない。
随分と凄惨な殺され方をした人が、どこかにいたみたいで・・・。恐らくは宗教の法の定めによる処刑が日常化し、血の海を見慣れている人たちなんだろうとは思うが、想像したくないニュースを読んでしまった。真実は知らない。口を突っ込みたくもない。ただ「公平性」だとか、「人間性」だとかとは程遠いところで、見せしめが慣習化している国もある、と聞くと、耳を塞ぎたくなる。

ただ、思うに、心を傷つける言葉というのが確かに存在していて、誰かの心をグサグサと刺すような表現(以前は僕も、普通に使っていたと思う)で、心を刺された人、もし心が傷ついているとしたら、同じように見えない血の海が広がっているのかも知れない。
最近自分には、どちらも同じに思えて来ている。偉そうなことを言う資格がないと思うのは、たぶん僕自身、特に10代・20代の頃、平然とこれをやっていた。「意図的に」と「無頓着に」とでは、落ちる先が違う気もするけれども、よくわからない。

「いじめ」などは、たぶんその典型で、いじめる側が言葉を発して、それが突き刺さるごとに心から出血する様は、もしその心象風景が見えたなら、どこかの領事館で展開された景色と似ている気がする。その血の海で苦しむ「同級生」とかを見て快感を感じている児童、生徒がいるようだ、とニュースなどで見聞きすると、「血の池地獄」を連想する。

今回のニュースが、何よりもやり切れないのは、なぜアメリカが出てくるのか分からないけれども、落とし所を見つけて「幕引き」するらしい点かも知れない。早々と「落とし所」がネットニュースに流れていた。どう見ても、人道的な問題よりもビジネス優先。そうした政治が容認される国では、「あの国の資源が欲しい。領有すればいい。それなら口実を作って開戦させて、戦争を起こして支配しよう」という発想も容認されるんだろうか。自国の経済優先なんだから、当然「正当化」される。近代の世界史には、それが多かったんだろうけれども、時代が逆行しているのか。もう、止めようがないのかも知れない。何よりも、対イランと判断基準が違いすぎないか?

いや、国内の「いじめ」報道なんかでは、例えば教育委員会とか学校なんかが、同じことをやっている、ような気もする。そうか、トランプもそれと同じか、と思うに至る。片や、選挙目当てで「ビッグビジネス」を成立させ、「経済政策は成功した」と主張したい。片や、自分の立場を優先して、見て見ぬ振りをする。私たちは何も悪くありません、と主張する。嫌だなぁ、と思っていたら、思考のカーソルがワープした。

大人の世界でのパワハラ、なんかでも、随分と乱暴な言葉で部下を追い込んだりする。あるいは、ラジオを聞いていたりすると、聞きようによっては相当なトゲのある言葉を応酬する大人もいる、みたいで、子供の社会は大人の社会の縮図、なんていう表現に妙に納得してしまう。それが「法を犯した犯罪」でないならば、「何をしてもいい」みたいな風潮は、逃げ出したいくらい痛い。再び、何もいう資格ないよな、と思うと、そのトゲが自分に戻ってくる。逃げ出したいなぁ。そうか、だから幕引きするのか。

心の「澱」を吐露し、頭を切り替えて仕事をする、には、重すぎる。自分もたぶん、かつてやってた。ただ単に攻撃するだけの毒舌癖。辛いね。

お月様

月のそばに火星が見えた。だから何?ってなこともあるけれども。

なんとなく、マザーグースを思い出した。そんなに沢山知ってる訳じゃないけど。
谷川俊太郎さんの訳詞、だったかな。微妙に間違ってるかもしれないけど、確かこんな感じ。

ぼくがつきをみると
つきもぼくをみる
かみさま つきをおまもりください
かみさま ぼくをおまもりください

意識の相互性、ですかね?師匠の講演会の受け売り。
意識体の世界(勉強会では、「実在界」と呼んでる。この物質世界は「現象界」)、そこでは「意識」がかみ合えば、瞬時に意思疎通ができる。
ただし、自分が相手に意識を向けても、相手が自分に意識を向けなければ、会話は成立しない。「私はあなたが好きです」なんていう意識を送っても、興味がなければ返事は返ってこない。上でも下でも、似たようなもんか。この辺はね、もう数えきれないほど経験したから、これ以上の経験は、もう間に合ってます。

現象界での経験は、実在界での経験とは桁違いに経験量が多い、らしい。実在界ではそもそも、意識レベルが近い方としか交信できないから、どんな会話を交わしても大した経験にはならない、らしい。肉体を持っている間の1時間は、人と接する仕事である限りは、実在界の数十年分、数百年分に匹敵するくらいの経験量があるらしい。だからこそ、積極的に人に接しなさい、とは、学んでいるけれども。

でも、疲れる。疲れるけれども、そりゃぁ、走り込みをすれば体が疲れるのと一緒。心も疲れることで鍛えられて、それが人間としての進化に不可欠な経験として蓄積される、って、そうなんだろうけれども。でも、やっぱり疲れる。

パプアニューギニアとか、南の島の海辺で寝そべりたい。でなければ、どこかの川辺にテントを張って、夜空を見ながら一晩中ぼんやりと寝そべっていたい。
そういう趣味を確認してから結婚すりゃ良かったんだろうけれども、当時は他に振り向いてくれる人なんて、一人もいなかったからな・・・。金のない引きこもりの、単なるデブ。今更、勝手なことは何も言えないんだろうな。拾ってもらえただけ、よしとするってな感じか。なんて考えていたら、余計に、寝袋に入って一晩中夜空を見ていたい気分になった。

だからなんだ、ってな話か。いいじゃない、別に。「だから何」って言ったら、月のそばに火星があるのだって、「だから何?」でしょ?

ジュマンジ

旧作のジュマンジは好きだった。
なんていうか、盗聴っていうか盗撮っていうか、それらから逃げまくって実家に逃げ込んだ頃見た映画。ちょっと元気をもらった。

それが、すごくリニューアルしたみたい。

作りは完全に変わっているのに、どんな人たちに何を伝えたいか、だけは、きっちり伝わってくる。それが、クリエイターの感性なのかな、と思った。時代に合わせて伝え方の手段を変幻自在に変えていかなければ、伝わらない。そういうシビアさに直面しているのは、きっと、広告関係の方々、かもね。伝える事が、ビジネスに直結してくる。

それに比べて、宗教指導者って、なんなんだか。「何を伝えたいか」が見えてこない。塩を巻かなきゃダメ、とか、豚肉食っちゃダメ、とか、意識体には全然関係ないところで縛りを効かせる。「祈りを捧げる」って言ったって、心の向け方を知らずに、体と口だけ動かしたって、意味ないでしょ?心の向けかたを知っていたら、普通の人が相手でも心は届く、はず。それができない人が、体と口だけ動かして祈ったって、全然意味がない。あれね、材料が流れていないのに、オートマシンの製造機械がひたすら動いている集団的な壮観。どうでもいいや、幸い、テレビでしか見た事がない。あっと、この間、親戚の葬儀で片鱗を見かけたけれども。

伝えたいものがないから、伝える必要がない。そうなっちゃうと、教卓で、ただひたすら教科書を棒読みする「教授」みたいになってしまう。(実は、実名を出したい人が二人ほどいる。)宗教がほとんど、それに見えてくる。あ、えぇと、喧嘩は売っていません。伝えたいものがなくたって、別にいいじゃないですか。暇つぶしが必要な人は、世間には山ほどいる。

どういう話の飛ばし方、なんだか。新作のジュマンジ、旧作同様に、今の時代に合わせて、伝えたいメッセージが表現を変えて伝わってきた気がした。

中身が分かっていれば、伝え方が変えられるのに、伝え方を変えられない、ってのは、中身が分かっていない証拠。

筒抜け

開き直って書いている、とは言え、とってもやりずらい。
学校の先生をやりながらだと、こうした「宗教めいた」話題は書きにくい。宗教じゃない、といくら主張しても、状況に応じて霊がどうした、神がどうだ、なんていう話題に触れてくれば、なかなか宗教じゃないとは説明しがたい。
結局、専任の教員は辞めたけれども、自営業とは言え、それでもやはりやりにくさは感じる。

ただ、これだけは思う。肉体を持っている自分を、今、上でご覧になっている諸霊の皆様がた、羨ましいだろうなぁ。チンドン屋とは言っても、こうして師匠のお話の内容を書いて、それをどうにかこうにか、世界に伝えている。伝わっている。一人でも気にしてくれる方がいて下さるなら、もうそれだけで十分。少しずつでも、絶対にいい方に変わると信じて・・・。これからもバカやります。チンドン屋は、目立ってナンボ。

正直な話、師匠の講演会をそのままインターネットで全世界に生中継したらどうなんだろうか、なんてことは考えたこともあった。けれども、それはやらないそうで。至極もっともな理由があって、なるほどと思った。
師匠は、講演会で、上位の意識体の方々、通常だったら我々が直接意識を受け取ったり、肉体を持つタイミングを合わせるって言ったって、何千年かに一度しか肉体を持たれないから、まず無理というような方々の意識を受け取って、講演会で話されている。そればかりか、地球の意識、さらに上の意識も話されることがある。信じないのはご自由に、と思うが、ものすごくレアなチャンスだということも、通じない方も少なくなかろうとは思う。

僕なんか、思う。肉体を抜けて、地獄で禊をしてから上に戻ったとして、どんな顔をされるんだろうか。直接師匠にあれこれ教えていただいているのに、「そんな程度ですか?」なんてね。「なぜ、あの話を世界に向けて書かなかった」なんてことも言われるかも知れない。無理です。自分で経験して掴み取った内容以外、「師匠がこうおっしゃってました」というそれだけでは、他の方に伝えるな、と釘を刺されている。だから、師匠の受け売りを書く場合でも、それなりに自分自身の経験を被せて書いている。幸いなことに、サラリーマン、通産省の通信規約策定への参加、大学教員、遺骨収集、パプアニューギニア、MIT、自営業、コンピュータ関係、医療機器、などなどの経験は積ませていただいたから、そこそこ引き出しは持たせていただいた気がするし、生まれてきた場所もかなりドンピシャに近かった。インターネットの爆発的な普及にも、うまい具合にタイミングが合った。
師匠が直接世界に向けてお話をされることがない、としたら(著書を買っていただいたらいいんだけれども、)僕ら勉強会の会員が伝え続けるしかない、とも思う。
腹をくくっては、いる。もし間違いがあって、落ちるところまで落ちたとしても、今このチャンスは逃せない。行けるところまで行く。師匠のお話を、可能な限りわかりやすく伝えたい。個人の意見ですら全世界に発信できる今、師匠の講演内容を世界に届けないのは、犯罪ですらある気がしている。

相変わらず、枕が長い。ここからが本題。
師匠は、地球の意識とか、創造主の意識だとかも話されているけれども、師匠が受け取っている、だけではなく、「会話」になっているらしい。つまり、今現在は、師匠の目や耳を通じて、地球とか、創造主とかも、我々人類の生き様、考え方などを筒抜け状態で把握できている、ということになると思う。

意識の階層性、なんていう話もあるけれども、例えば僕らは、同じ意識レベルの人間どうしとかの意思疎通しかできない。近いところでは犬とか猫とかとは、多少は意思疎通に近いことができたとしても、例えば僕自身の肉体の細胞とは、明確な形での意思疎通はできない。僕らの意識が「生命体としてあるべき姿」に近づけば、自ずと体の細胞も「上位意識」である我々の意識を受け取って「生命体」として正常に機能してくれる。もし僕らが、奪うことばかりを考えていたり、他人を従わせることばかりを考えていたら、肉体の細胞もそうした振る舞いをするようになる。そうして「原発性の疾患」が起きる、と、師匠の講演内容を私は理解している。要するに、自分の肉体の細胞の意識すら、僕らは受け取れない。地球も、通常の状態では「細胞」でもある我々の意識の細かいところまでは把握していないのではないかと、私は考えた。(師匠は、この辺は一切講演会では話されていないので、この直前の一文は、私の考えです。)地球意識は、「人型の意識」ではない。レベルが違うから、細胞の持つ意識、電子の持つ意識、地球の持つ意識などは、全部それぞれのエネルギーレベルに応じて形態も異なるんだろう。ところが、師匠は明らかに違う。結果から言えば、今現在は、師匠を通じて「地球」意識には、我々人類の立ち居振る舞いが筒抜けになっている、ということが言えるような気がする。

もし、師匠が直接インターネットで「講演会」の内容を全世界に配信したなら、人類は創造主の意識から、この銀河系宇宙で成り立っている物理法則まで、知ることも可能になるんだろうけれども、もし、創造主の意識を知った上で、なおかつ人類が「生き方」を変えなかったら、どういうことになるのか、なんていうお話は、実は講演会でもちょっとだけ触れられた。スマホやゲーム機などのゲームで遊んだことのある方、特にシミュレーションゲームなどで、予想外の展開になって、収拾がつかなくなったら、どうされますか?電源を切ったり、途中まで「育成」した「世界」を全部消して、最初からやり直そうとしませんか?そういうことです。
例えばね、師匠が講演会で「人類のあるべき姿」なんてのを話されたとして、トランプさんとか、プーチンさんとかが、生き方を変えると思います?そして、何も変わらなかったら、上はどういう判断を下されるか。

私とか、他の会員の方々が、あれこれ周囲に話を伝えたり、書いたりするだけなら、それは、伝え手たる、私とかその会員の方が「未熟」だ、というだけでことが済むけれども、師匠なんかが直接動くと、どうなのよ、ってな話だろうと思う。会社なんかでも、似たようなことはありませんか?社長どうしの直談判で事がまとまらないのと、事業部長レベルの実務レベルで調整がつかないのとでは、ことの深刻さが違う。国と国でも、似たような事があると私は理解している。それと同じ。

捨て駒は、百も承知。役不足で申し訳ないけれども、私は自分なりに必死で、書き続けようとは思う。すみませんね、こんな私で。師匠じゃなくて。でも、こういう事情で、お互いのために、この現状で我慢していただくしか、ないんだろうなと、思った。
時々、やりきれなくなる。昔から相も変わらず、グータラで、能天気な生き方をしていて、行きがかり上師匠の講演内容を書いているから、ミカ様とか、ガブリ様とか、ムハンマド様とか、僕なんか足元にも及ばない方々も上で僕の私生活を根こそぎ注目されていて、「なんだ、このバカ、この大事な時期にこんな生活をしていて」なんてのが、筒抜けになっていたりする、と思う。ものすごい美人がいて、思わず目線が釘付けになったりしていると、その僕の意識がやはり、全部筒抜けになっていて、いや、指導霊さんだけなら構わないけれども、ヤクシュ(薬師如来)様だとか、とても書き切れない偉い方々に筒抜けなのは、ちょっと、かなわない。いや、それを承知で、自分で計画を決めて今回肉体を持った、と、思っているけれども。読み手の皆様を巻き込んで申し訳ないけれども、下賤の民には下賤の民にしか通じさせられない書き方が、たぶんあるから、僕なんだろうとも思う。

なんだかなぁ。「一回休み」でもいいから、大企業とかにしがみついて、そこそこ自分に出来る仕事を消化して、大して注目もされない、安泰な生き方をしたかったよなぁ、なんてことも、ものすごく思う。で、上に戻ったら、思いっきり後悔するんかもしれないけれども。金の話は、もういいや。建物でも土地でも、とりあえず、売れるものは親父とお袋に残してもらった。まだ、なんとかなる。どうなんだろう。千年っていうスパンで見て、今、師匠の講演会の内容を書き続けることは、一応、意味があって、僕が楽して生きる以上に価値があること、ですよね?そうですよね?ね?ね!?

いや、僕の私生活の筒抜けは、どうでもいい話だった。人類の生き様が、地球とか、創造主に筒抜けになって、大丈夫なの?と、そちらが今日の話題のメインテーマ、だった。人類のように心が汚れていない動物たちや、植物たちは、地球の意識を受け取っているのかも知れない。心がきれいという意味でいえば、ミカ様とかガブリ様のレベルになると、ある程度は地球の意識体とも意思疎通が出来ている、ように、これまでの講演内容を総合して私は考えて。で、そう言えば、去年あたりから、「地球」も意識を持つ意識体で、なんていう話を書き始めた気がする。間接的に、僕自身も、目とか耳になっているのかも知れない、なんていう恐ろしいことを考えてしまった。師匠は、人類にとって、創造主に知られると都合の悪い事柄は、意識レベルでブロックされているそうだけれども、私にはそんな器用な真似はできない。地球さん、知っちゃったら、アクションを取られるんだろうなぁ・・・。まだまだ、エスカレートしそうな気が、しないでもない。あれね、原子力も、石油の採掘も、地球さんにはものすごいストレスだと、私は聞いて理解している。人類は誰も全然、気にしていないでしょ?

僕の場合には、大した次元じゃないから、筒抜けになったとしても、大した実害はない、はずだと思う。ただ、師匠の「目や耳」が、今現在は上の「目や耳」になっている、という点は、ご承知おき願いたい気がする。

僕が子供の頃は、秋の空はもっとずっと青かったと思う。

大気中の微粒子がどうこう、という問題じゃない。人類の意識は、通訳がいれば、そのまま上にも伝わる、と私自身は理解している。ということは、秋の空ですら、青くない、くすんだ鼠色のように見える。それは、人間の心が汚れているからだよ、と、以前師匠は、講演会で仰った事があった。

以上

お化けが怖い・・・

NHKの渋護寺(シブゴジ)に反応。
師匠がこの番組をご覧になっていたら、絶対何か、講演会の内容なんかで、コメントがあるだろうなと思いつつ、取り急ぎ弟子の私が反応。師匠の講演会内容で、再三、「注意喚起」というか、僕らの心構えを説かれていた内容で、私程度の記憶からでもかなり自信のある部分だけ、抜粋。

まず、いわゆる「お化け」(=妖怪)の類は、人類の恐怖心からの妄想で、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だと言えます。ゾンビ?貞子さん?あり得ない。恐怖心を煽るエンターテインメント。これらの映画製作が、「誤った神の教えを解く」だとか、「人の心を惑わす」に該当するかどうかは、私にはわからないけれども、「エンターテインメント」を看板に掲げているなら、信じる方が未熟だと個人的に私は思う。

ただし、悪霊は実在します。それは、何度となく言われている。実際に訪れた人を殺すような悪霊が居着いた場所は、世界中に何十箇所も存在していて、師匠が浄霊した場所などは限られている。強い憎悪を抱いたまま死ねば、その人は悪霊になって、地縛霊とでも言うべきか、訪れた人を殺す場合もあるし、(詳細は、師匠が実際の浄霊経験を著書に書かれているので、そちらを参照して欲しい。僕が強引に会の規約を無視して、師匠のお名前とか著書をネットに出しました。指摘されたので掲載したWEBページは消したけれども、インターネットだからどこかに残骸が検索できると思います。ルールの範囲なら「無知という名の泉」で、検索して拾えるかなぁ。この書籍名なら、書いても規約に反していない気がする。ルールを破る悪智慧だけには、自信がある。話を戻して、)「あの心霊スポットはヤバイ」と言う場所は、本物がいる場所だとしたら、訪ねるのは止めるのが無難だと思います。おそらく、海外でも、ベテランのエクソシストの方でも命を落とされた方がいらっしゃる。映画もフィクションではない、と私は理解しています。

それ以外にも、どこぞの宗教が、「墓が死後の住居」だとかなんだとか、教えているもんだから、それを信じ込んで、古くは室町とか、新しいところで江戸時代あたりから墓石に住み着いた霊体さん、なんかがいて、その墓が土石流だとか自然災害で流され、「なんとなく形のいい石」になって河原に転がる結果になった。その河原の石をこの石綺麗、とか思って、拾って帰った方が、その墓石に染み付いた霊体の意識に取り憑かれた顛末、なんて言うのも師匠が著書に書かれている。(NHKに便乗した宣伝になってしまった感があるけれども、師匠の著書を買う金を払いたくないなら、私の伝聞で我慢して下さい。)

人間は本来「無垢」だと思う。僕もそうだけれども、権威が「こうだ」と教えこめば、簡単にそれを信じてしまう。それを疑うことが難しい。信じた内容が間違っていれば、天に戻るどころか、地獄に落ちるし、地獄に落ちるそれ以前に、この物質世界に漂流して(日本の仏教の考え方で言えば、「成仏できない」だし、キリスト教の考え方は完全には理解していないけれども、地獄に至る前の「煉獄」なんだろうか、イスラム教は本は持ってるけど本質を理解してないから、スルーして、)とにかく、現世に止まって、生きている人間に悪さをする。いや、亡くなったご本人は、「生きているつもり」なんだろうし、自分のありのままなんだろうけれども、「あなたのありのままは、迷惑極まりない」なんて言う隣人は、ご存知ありませんか?それがそのまま、霊体になる。
現生に止まって、「自分と意識の近い人」に働きかける。僕なんかは、いいカモです。酔っ払いが死んで、自分が死んだことを自分で理解できないと、酒飲みに取り憑く。酒を飲んでいい気分になりたい。その意識だけは(執着って言うんかなぁ)しっかりしているから、酒を飲んで今を忘れたい生きてる人間に取り憑く。そう言う「霊体さん」が「常連」にしている人は、泥酔していても霊体さんが体を操って時にはタクシーの運転手に目的地を告げて、自宅まで連れ帰って、カモに「また、よろしく」なんていう意識を送っているから、翌日もまた無事出社して、そうして終業のチャイムが鳴ったら即酒を飲みに帰社する、なんてしていても、取り憑かれた本人は結構無事だったりする。酒飲みの場合はその程度、だけれども、それが憎悪ということになったら、どんなレベルなのか、私は理解したくない。肉体を操って、誰かを殺す、なんていうことは、普通に起きているようにも、ニュースを見ていると感じる。

大川隆法氏。あの方は、紛れもなく9次元が肉体を持たれた方で、「釈迦」です。師匠がそうおっしゃっていた、だけではなく、もしかしたら僕自身、誰の「チンドン屋」を務めるか、もしかしたら、大川隆法氏の下に仕えようとしていたかも知れない。だって、釈迦の直属の部下ですよ?でも、頼れたのは、自分の「違和感」だけだった。ただ、間違いなく、あの方が書かれた最初の一冊だけは、上の意識を受け取って書かれた本だったと、師匠がおっしゃっていた。「太陽の法」だったかな。(それ「だけ」ね!)
汚れた心は、汚れた霊を引き寄せる。それを避けたいなら、自分の心をきれいにしなさい。それだけ、なのだと思う。「渋護寺」に出られていた住職も、おっしゃっていた。「南無阿弥陀仏」を唱えただけでは、憑依霊は避けられない。具体的に、私自身を例にして言えば、酒が飲みたい一心でいれば、いくら「南無阿弥陀仏」を唱えたって、酒を飲みたい心が優って、そういう憑依霊は簡単に私に取り憑く。取り憑かれたら最後、あとはもう、失禁しようが、道路に寝ころがろうが、勢いで崖から落ちようが・・・これ以上は、ご想像にお任せしますが、誰に取り憑かれるかは、運次第、ってな感じだろうか。小中学校の担任が誰か、なんていうのに、似ている気がしますけれども・・・。それが嫌なら、「酒を飲みたくてたまらない」自分の心をどうにかするしかない。
ただ、霊体さんの意識を引き寄せる、引き寄せない、それは、ご本人の意識次第。

師匠は、悪霊には気をつけないと怖い、ともおっしゃっていた。その点は別にして、普通の、いわゆる(自殺なんかの)自縛霊、とか(墓こそ自分の住処、みたいな)地縛霊、とか、(「人間、死んじまったら何も残らねぇんだよ」なんて本気で思った挙句の)浮遊霊、とかの方々は、自分の意識が共鳴しなければ、全く影響を受けることはないから、安心していてもいいんじゃないかな、と個人的には思う。自分で気づくまで、放っときゃいい。人畜無害。本人が時間を損するだけ。ただ、憎悪を持って死んだ悪霊だけは、別格。

私自身は、(もう、数え切れないほど書き続けた、盗聴とか盗撮のおかげで、)自分を守ろうとか、自分を良く見せよう、なんていう意識は、カケラも無くなった。お陰様で。「思いたいように、言いたいように、お好きに私のことを語ってください」なんていう心境は、やはりあの、盗聴・盗撮のおかげかも知れない。私を殺す?お好きにどうぞ。ってな感じか。私の私生活では、適齢期に結婚し損ねたし、子供もつくりそびれた。今のヨメは?ノーコメント。いや、俺、思い残すこと、何もねぇから。仕上げたい仕事はあるけど、出来なくたって、僕が困る訳じゃない。殺したいならお好きにどうぞ。そんなところか。そもそも、「自分を守りたい」と思うから、「恐怖」が生まれる。守らなければ、いいじゃん。それだけ。「何かが怖い!」羨ましい。守りたい自分の生活がある、なんて、素敵じゃない!?失うのが怖いのなら、最初から、持たなきゃいいじゃんか。

「お化けが怖い!」ですか?いわゆる妖怪はいないけれども、「霊体さん」たちはものすごく、多数、この世界に「残留」しています。知らぬが仏。知らぬか放っとけ。死ぬから放っとけ。死ぬから仏。
その「残留意識」に同調するかどうかは、我々自身の心の在り方次第、だと私は理解しています。意図的に共振して、「テメェ、何だこのやろ」なんていう喧嘩を売れる自信がないなら、あるものをただありのまま受け入れて、殺されようがなんだろうが、なされるがまま為されて、できることは全力でやる、ただそういう生き方をされたらいいのかなと、私はそう思う。その意識があったら、霊体さんなんて、一体も怖くないと思います。
以上。

きのこ狩り

キノコ狩りで亡くなった方が、今年はやたら多いとか。
70才代とか年配の方が多い。らしい。他人のことは笑えない。

今年は、完熟の梅が見事なくらい、たわわに実った。木に登って取れるところだけで済ませればいいのに、手が届かない、体重をかけられる枝がない先端の取り残しを、残さず取ろうと、狭い場所に三脚を置いて、三脚の脚を広げきれない状態で、バランスを取りながら取ろうとして、落ちた。頚椎を痛めてる。
冷えてきたら、足のしびれが出るようになった。治すよ、自力で治すってば。ただ、この冬は結構キツイと思う。時間がかかるようになった。それ以前に、ほんのちょっとでも状況が違っていたら、死んでいてもおかしくなかったな、とは思う。
欲張り爺さん、首の骨を痛めるの巻。

ときがわ町の西平のあたりにある農協の直売所(だったかな)で、以前、キノコフェアみたいなの、やってた。珍しいキノコとかがたくさん。ただね、出遅れて10時くらいに着いたら、残っているのは種類を書いた値札ばかりで・・・。まぁいいや。スーパーのパックに入っていない「得体の知れない食い物」なんて、買って来た日には、やたらと面倒なことになる。シイタケとか、エノキダケ、マイタケ以外は、食い物ではないということで、納得することにして・・・。僕の人生は、こういうことになってしまった。首を痛めるよりは、多少はマシな話か。でもなぁ、キノコに目がくらんで転落する人の気持ち、今はとってもよくわかる。

師匠がいつもおっしゃる。人間の実体は、肉体じゃないよ、意識体だよ。心を汚したら、いくら着飾ったってなんの意味もない。上の方々は意識しか見ない。なんてな話で。
「あれ、美味しそう」なんていうのも「適度」ならなんの問題もない。人生をエンジョイする、っていう意味では、肉体を持っているからこその楽しみ方もある。キノコを味わうのも、完熟の梅の甘さを味わうのも、肉体を持っていてこそ。肉体を持っているなら、生きているなら、楽しまなきゃ、もったいない。その点については、師匠のお墨付き、だと思う。
ただ、それが「欲」になっちゃうと、結局心を汚す原因になる。「欲」になっちゃったらまずい。

以前、勉強会の会員の方が、こんな話をされていた。ある日、自動販売機の釣り銭受けに、何枚ものコインを見つけた。「これは、儲けた!」と、内心喜んだらしい。次から、自販機で買い物をする度に、釣り銭受けに手を入れると、「また、あった。儲け!」なんてことが、何度も続いた。5回だか、10回だか、それが連続するうちに、「なんか、変じゃないか」と思い始めたらしい。もしかしたら、俺は試されてるのか?と思って、「儲けた」と思って喜んでいた自分の気持ちを見直して、師匠に直接確認されたらしい。そうしたら、師匠が笑って「そうだよ。」とだけ、返事をされたとか、そんな話を聞いた。
ぶっちゃけ、似たような話は自分も経験があるし、いろいろなバリエーションで話は聞くけれども、はっきり言わせてもらえば、師匠も試し方が、かなりエゲツない。あ、と気付いた時に思いっきり赤面するような経験を、それも、普通はあり得ないような偶然を、平気で突きつけてくる。確かに、ありがたいっちゃ、ありがたいけれども・・・

ちなみに、師匠の「そうだよ」の後は、釣り銭受けに手を入れても、もう何もなくなって、むしろほっとしたらしい。実は、これが「地獄」の再現経験らしくて・・・。肉体を持っている時に、本人の意識が「執着」しているって言ったらいいのかな、ハマってしまって抜け出せない「思い」があると、そしてそれが「物欲」だったりすると、意識体だけに戻ると外界からの歯止めが効かないから、似たような意識体の方々が集まって、本人が「これはおかしい」と気付くまで、その状況が続く。前にも書いた、セックスもそうだし、飽食もそうだし、夢の中でそれを続けている状況を想像したらわかりやすいかも知れない。そういうのは、本人たちは「天国」だと思っているかも知れない。人を殺すことや、奪うこと、騙すことに快感を感じる人たちは、そういう人たちどうしで、殺し合いを延々と続ける。「血の池地獄は、実際にあるよ。行ってみる?」なんて話もあった。価値観の違いで、傍から見たら地獄でも、本人にとっては天国、ってなことはあるかも知れない。結局、脳がなくなった「意識体」の状態で、「自分で気付くことが、どれだけ難しいか」ということの、ある意味で「課題」なんだろうとも思う。
僕が何で赤面したかは、書きません。自分のセコさだけは、悔しいけど、自信がある。

梅の実取りで、三脚から落ちて、頚椎を痛めた。これから寒くなる。今年は、結構シビレとか麻痺にも、悩まされそうだ。自戒の念を持ち続ける程度に、後遺症を残していただいて、感謝すべき、なんでしょうね。あの時に死ななかったのは、まだ生きて、何か仕事しろ、ってなことなんだろうと、解釈しておくことにする。

それにしても、と思う。肉体を持っているからこそ楽しめること、ってのは、ものすごく多い。キノコの味覚もそうだし。だけど、それが「欲」にならない、「欲しい」っていう気持ちに棹さして、安全を軽んじてしまうってのは、全く他人のことを笑えない、と思ってしまったニュースだった。

ただね。もう、今回やるべきことはやり尽くした、もう、思い残すことはない、と思えたなら、なまじっか、胃瘻か何か作られて、チューブに繋がれて生き続けるよりは、こうした事故で、サッパリと「人生を終える」ってのも、ありかな、なんていうことを考えるようにもなった。逆に言えば、肉体を抜ける際に、何も悔いを残さないように、今回自分で「課題」に掲げた内容だけは、きっちりと仕上げてから帰りたい。

愛情一本

チオビタのキャッチコピー、使わせていただきました。
レンタルDVDで、「ひるなかの流星」途中まで見てた。深夜、寝落ちするまでのお楽しみ。もう、無作為、ランダムにレンタルしまくっていて、このタイミングで、このDVD。「担任を好きになるって、ベタすぎねぇ?」ってな、セリフ。「なるほどね。」

極めて個人的に、大学教員を始めて以来、「嫌いな相手」がいないことに何となく気付いた。こっちだって仕事だから、ネチネチと「なぜ、こうしない」とか、「どうしてここがわからない」みたいに、絡む場面は少なくないけれども、嫌いな学生なんて、一人もいなかったと思う。いざ仕事だと思えば、全員に平等に愛情を注ぐことはできていたかな、と思う。
目を見て話す、なんてのは、普通にやってたつもりだし。思わず視線が胸に釘付けになっちゃった、なんてことが、なかったとは言わないけれども、ただ単に視線が釘付けになっただけで、他意はないです。セクハラだと騒がれなかった点だけは、感謝します。(なんの話だ?)

親父も、お袋も、たぶんそうだった。「どうしてわかってくれないんだ」というイライラはあったにしても、児童や生徒を嫌いになったことはなかった、と思う。自分の知っていることは、知ってほしい。自分にできることは、できるようになって欲しい。その辺は、たぶん、親父やお袋とも同じだと、今になって思う。親父やお袋の仕事は、僕も結構好きだったのかも知れない。ただ、どこかの学校で「悪いことをするに決まってる」とか決めつけられて、会社兼業届けの書類の不受理、なんていう門前払いを食らってから、専任の教員は無理だと思った。他にやりたいことがあるなら、新しく作りたいものがあるなら、学校の教員は無理だ。そんな話はもう、どうでもいいけれども、これって、言い訳なんだろうか?苦手な仕事ではなかった気がする。っていうか、いまでも非常勤は続けているのに、過去形にするな、ってか?

以前、Shift-In/Shift-Outを文字って、「Kirai-In/Kirai-Out(嫌いイン/嫌いアウト)を使い分ければ、大抵のことはうまくいく」と書いた後、なんとなくだけれども、師匠の講演会で、「好き/嫌いがあるなんて、贅沢だよね」という一言があった時に、この話題のことかな、と思ってしまった。僕自身は、「苦手な人」はいても、「嫌いな人」はいない。ただ、「嫌い」な勉強とか科目に悩まされている子供たちに、伝えたくて書いただけだった。「苦手」と「嫌い」は違うはずなのに、苦手が嫌いになるのは、どうしてなんだろう。

師匠の講演会で思い出した。訂正が一つある。6次元の方たちが「専門職として、一つの道で頂点を極めたら、次に肉体を持った時には、別の専門職として頂点を極める」と書いた部分。師匠は、「頂点を」なんてことは、一言もおっしゃっていないのに、またしても私は話を盛ってしまった。可能な限り幅広く様々な専門職で、その道を極める、というニュアンスならば、たぶん正しいけれども、「頂点を」というのは私が話を盛った。その試行錯誤を卒業することには、人に対する「好き嫌い」が一切なくなってくる。それは間違いないと思うけれども、6次元の意識体の描写の部分で、僕は話を盛ってしまった。ここは訂正します。この段落は、前後の脈絡と無関係な単なる挿入。訂正でした。以上、訂正終わり。

好きとか嫌いとか、口にできるのは恵まれている方だ。実際、仕事となったら好きも嫌いもない、やるべきことはやらざるを得ない。そういう場面を避けて通れる人生が、もしあるとしたなら、経験値としては「一回休み」みたいなものだろうか。何万回と肉体を持つ過程で「一回休み」で、数百年に一度の肉体を持つ機会をムダ遣いする、そういう「回」があってもいいのかも知れないけれども、もったいないなぁ、なんてことを感じるように最近なった。
でも、他人の人生には口は出さない。他人を惑わしてはならない、という鉄則。傍から見ていて何か気づいていても、自分で気づくのを忍耐強く待つ。何万回でも、何億年かけても。それが、あるべき姿だと思う。ただ、そうして本人が気づくのをひたすら待ち続けるにしても、それでも他者と接する際に、愛情を持って接することを忘れてはならない、それも、あるべき姿、すなわち、創造主が当たり前のように、期待されている姿かも知れない、と、最近は考えるようになった。

師匠が講演会でおっしゃっていた。イエス様が説かれた愛。なんでわざわざ説く必要があるの?と。そもそも、創造主は全ての人間に「愛」を持たせている。少なくとも、イエス様が説かれた「愛」は、誰の中にも持たされている。自然にしていたら、愛が出てくるのは当然だと、そんなニュアンスのお話を聞いた記憶がある。ところが、その「愛」が化けまくっている。

私はあなたを愛しています。直訳したなら、本意は「だから、私を愛してください、私を大切に扱ってください、私を特別扱いしてください、私の肉欲を満たしてください」そこまで解釈できるケースが少なくない、と私自身感じる。本来的には、神が持たせてくれた愛は、与える愛の方で、奪う愛とか、求める愛は、ある意味での欲望に他ならない、と、私は理解している。

誰かを好きになる。生涯のパートナーとして、自分にふさわしい相手として、相手にふさわしい自分として、相手を見極めて、一生を通じて不快感を感じることもなく、自然に一緒にいられる相手を選ぶ、という意味では、「好き」もいいのかな、と思う。それ以上に別な自分の欲望(肉欲もそうだけれども、相手に便乗した名誉とか、経済的な物欲とか)を被せてくるなら、「愛」も、「好き」も、なんだか欲望の発露みたいで、あまり「美しい言葉」には思えなくなってくる。

One for All / All for Oneなんてのが、スポーツのキャッチにあったっけか。いいね、と思う。自分の存在を、相手のため、誰かのために使うことができる。おそらく、7次元のエネルギーを持つ意識体にまで上がれば、当たり前のようにそれができる。呼吸するように周囲に対してできることをして、好きとか嫌いとかいう意識はほとんど持たない。(白状すれば、「好き」は何度かあった、けど。)
6次元の方は、つい自分の興味を優先する場面が少なからずある。5次元の方がたは、「これしかできないけれども、今自分はこれをやる」と考えながら、「できないこと」の重さに直面して、次からはなんとかしたい、と考えながら、「専門職に没頭する」6次元に上がる糸口を掴もうとする。4次元の方がたは、時には”America First”とか何とか言いながら、ひたすら自分だけがいいように振る舞い、生きることに必死になりながら、「もしかしたら、他人の立場を尊重することで、自分にとってもメリットがあるかも」ということに気づくことが、その方にとっての「進化」であり、5次元のエネルギー体に進化するきっかけをつかむ、そんな風に自分は理解している。「好き」とか「愛」とかは、案外、その「意味」の解釈の仕方で、その人の次元がわかる話題かも知れない。会話の中で相手が使う「言葉」の意味、真意に気付いた時に、何気なく、この人は何次元だと確信する場面がある、ことに、最近気付いてきた。

師匠が講演会で、これまで何度もおっしゃったこと。「究極の愛とは、自分を大切にすることだよ」という一言。ここでいう「自分」とは、「私という意識体」のことで、肉体のことではないし、物質世界での満たされた生活のことでもなく、「自分という意識体を一切汚さないこと」だと、私は理解している。
どういうときに、自分を汚すのか。「なんだ、こいつバカだな」と、本気で思ったなら、それだけで心に薄墨をつけ、刷毛で塗ったように、心に汚れが付く。「こいつ、憎らしい」と思えば、真っ黒の墨汁をつけるように、べたっと汚れが魂にこびりつく。肉体を抜けた後は、その汚れを落とし切るまで、肉体を持つ前にいた世界には戻れない。その洗浄室が「地獄」で似たような意識体の方々が、磁石で吸いつけられるように集まって生活する。周囲が見た似たような人たちばかりだから、「何かおかしい」と気づくことが難しい。
例えば、「××ホテルで朝食をとって、持ち物はルイヴィトンのバッグに、何ちゃらかんちゃらみたいな生活しかしないのよ」、ってな方がたは、意識レベルが似たような方々で集まって滞在するから、ある意味で、そこが地獄だと気づかないほど居心地のいい空間、でもあるらしい。セックスが全てなら、肉体を持った時の感覚の残像を引きずったまま、しかも意識体は疲れなんか知らないから、延々とその世界に浸っていられる。行きたいと思います?天国みたいに本人たちは思っていても、実は地獄。憎悪の感情に囚われた方々の場合には、地獄に行く前に、現世に留まってしまう場合も少なくないみたいだから、死んだことを理解して地獄に行くところまでに、まず最初の壁がある。
余談ながら、これも師匠が講演会でよくおっしゃる言葉。「生まれてから一度も、バ〜カ、とか、あいつ憎い、とか、自分を守る嘘だとか、思ったり口にしたりしたことないっていう人いる?いないでしょ?だから、全員が地獄に行くんだよ。」そこで、「これはおかしい」と気付いたなら、そうした汚れを落として、元いた上の世界に戻れる。その人ごとに汚れ方は様々で、似たような方々が集まる地獄に留まって、汚れを落としきるまで上には戻れない。ただ、本人にとっては、地獄というよりも、天国かも知れない。
究極の愛とは、師匠の講演では、そういう世界に自分を落とさないようにすること、だと、自分は理解している。念のため、師匠がよく講演会でおっしゃるのは「究極の愛とは、自分を愛すること」という表現が一番多く、「自分を大切にすること」という表現もある。ただ、ここでいう自分とは、肉体とか世間体ではなく、「魂」を指している点だけは改めて強調したい。

人を愛する、誰かのために何かをする、自分が大切に思う相手とか、自分自身の子供のために、できる限りのことをしてあげたいと思う、それらも全て「愛」だとは思うけれども、そうした「愛」は、動物もある程度持っているし、人間も当然最初から持たされている。そうした「性質」だと、私は理解する。「誰かのために」と、常に意識して行動するとしたなら、それは確かに「愛」の形かも知れないけれども、「究極の愛」とは(魂を汚さないという)「自己愛」だと、何度となく師匠の講演会で聞いた。

例えば、仕事で接点のあるすべてのお客様に、あるいは、授業に出席しているすべての学生に、まんべんなく「できることをする」、愛情を持って接する、口にするのは簡単だけれども、実際にやってみると、とてつもなくメンタル的なエネルギーを要する作業だと、経験されたことのある方はご存知だろうと思う。だからこそ、そうした経験を蓄積することで、例えばスポーツで「走り込み」をして体力をつけるように、メンタル的なエネルギーが蓄えられていって、何万回かの「肉体を持つ」経験の後で、「進化」して上の次元に上がっていけるのかな、と、自分は理解している。

何万回、と書いたけれども、「地球生まれ、地球育ち」の霊体さんたちは、魂として生まれてきてまだ数千万年しか経っていない。それなのに「もう6次元に上がった方もいるよ。」と師匠はおっしゃっていた。今回、創造主が試された「地球ならではの工夫」が、有効に機能していることの証明かもしれない、と、お考えだと、聞いている。これまでの星系では、6次元に上がるためには何十億年もかかっていたのが短縮された、らしい。何よりもまず、我々はこの「魂の進化のため」に肉体を持っている、持たされている、ということを知っておくことが大切なのかもしれない。

以上、一応自分の経験に基づいて書いていますが、骨格は「師匠の受け売り」でした。今度こそ、当分は仕事一筋。

各論

臨床工学については、僕はアマチュアだったのかもしれない。
内山明彦教授の下で、臨床工学を専攻していたと言っても支障はないと思うけれども、文部省の届け出上は「電子工学専攻」だった。僕が卒業してから「臨床工学技士」の資格ができて、内山先生などが資格設立に関与されて、まだ「体系化」はされていなかったと思う。勉強したって言っても、随分と不完全だった。だから、最低限仕事をするのに必要な程度は「門前の小僧習わぬ経を読む」で、医学についてもそこそこ、いい加減な知識は持っていたけれども、医学だって無論基礎をきちんと学んだ訳じゃない。

逆説的だけれども、だからこそ、いざ「臨床工学」で教えることになった時、必死になって体系的に把握しようとして勉強し直して、その「学んだ」プロセスを学生に教えられる。点を見つけて、点と点をつなげて、線にする部分を教えられる。その線と線とで囲み込んで、面を作る。そうなると、この科目は完璧、みたいに思わせることもできる。この分野については、学生が本気である限りは、ある程度教えることには自信がある。

そして、プログラミングはどうか、と言うと、どちらかと言えば、気がつけばプログラムが仕上がっている、そんな感じでもう、40年近くプログラムを書いて来た。最初にFORTRANのプログラムを覚えたのは17才の時だったから、40年を過ぎたか。で、一番「何でも思い通りに動いた」頃、20才代の頃は、ほとんど考えずに、直感的にイメージしたものが、勝手に指が動いて入力されていて、一気に書き上げる感じで、場合によっては30時間とかで一気に1万行とか、訳のわからない書き方をしていた。(今はもう、当時の10分の1も、パフォーマンスが出せない。)仕事にするには、この分野がたぶん一番僕には向いていた。ただ、サラリーマンになってしまうと、「余計なこと」が多過ぎて、プログラムを書くことだけに専念できる訳でもなく、それだけでパフォーマンスはやはり10分の一以下には落ちたかもしれない。(いや、その「余計なこと」が「仕事」にはとても大切だ、と、後になってから痛感したけれども・・・)

ところが、いざ、情報科学部で教えるとなると、「理論的」な基礎はないし、苦しんでプログラミングしている訳じゃないから、「教える」こと自体が非常に苦手で、「わかった!」に辿り着くまでのプロセスをうまく説明しきれない。この壁、結構厚い。実はいま、「教科書」を書いていて、9割方書き上げているのだけれども、校正のところで、もんどりうってる。伝わるかどうか、全く自信がない。伝わらなくても、教科書にはなるんだろうけれども・・・そんな悩みを抱える、今日、この頃。

師匠の講演会。例え話が難し過ぎて、なかなか答えが出せないけれども、いざ種明かしを聞いてみると「各論」が非常に多い。すごく具体的。

正しく生きなさい、清く生きなさい、どの宗教でもそんな感じなんだろうけれども、師匠の「講演」は、何も知らずに参加したら、「雑談」にしか思えない。テーマによっては「この部分を、こう解くんだよ」と言う解説が後からあるから、なるほどと、理解できるけれども、「総論」と言うよりも「各論」。直接「答え」を教えずに「例え話」しか講演でされないのは、「自分で答えを出すプロセスを経験させるため」だと、今は理解している。答えだけ教えてもらったら、肉体を抜けたらもう、次には役立てられないだろうし。

この「各論」を自分に当てはめてみると、ケースバイケースで、結構自分を変えるための役には立っているんだろうと思う。(結果を出せていないから、何とも言えないけれども・・・)15年前の僕と、今の僕が、もし「変わった」と言って下さる方がいらっしゃるなら、それは一つの「結果」かも知れない。けれど。

他人をリスペクトしながら生きる。「総論」としてはわかりやすいけれども、いざ「各論」になると、なかなか簡単じゃない。その「各論」部分に具体的なヒントを出してもらえる「宗教」は、自分があちこち顔出しした限りでは、なかった。実は、トラディショナルな宗教にも、いわゆる新興宗教にも、結構顔出ししたことがあったけれども、3回以上足を運んだのは一つもなかった。具体名は書きません。なんだか「綺麗ごと」ばっかりで、具体性に乏しい。
なんて言うんだろうか。仕事でいえば、売り上げ目標だとか、スローガンだとか、そんなことは口にするけれども、実際に具体的にどうするかについては一言も説明がない、実務能力が皆無、みたいな上司というか、とても、ついていく気になれない、そんな宗教ばかりだった気がする。
いや、ね、私に実務能力があるかどうかは、あくまでも例え話だから、そこのところは忘れてください。

結構、大変な話だ。新興宗教なんかよりも、「実用書」の方が役に立つと思えることもあるけれども、ただ、基本的に「人の実体は霊体だ」というのが根っこのところにあって、その上で、相手の意識(霊体そのもの)にどうやって働きかけるか、平たく言えば、「心を動かす」っていうんだろうか。そのための「勉強会」っていうんだろうか。僕にとっては、師匠と出会ったのは、(もしかしたら、僕は、師匠のチンドン屋を買って出るつもりで肉体を持った、かもしれないというのは、別にして、)やはり、良かったという気がしている。

ふと、そんなことを考えては見たんだけれども・・・

今僕が直面する「各論」的な課題は、プログラミングで、「そうか、わかった!」という導入を、どうやるか、なんだろうか。
「このやり方を、真似してみなさい」そして「こういう考え方で、自分のやり方で作ってみなさい」なんていう、そればかりだ、というのが、どうにも釈然としない。共著者の先生、というか、シラバスの原型を作ってくださった先生には、「小林流でいいんじゃないか」なんて、おっしゃっていただいたんだけれども・・・

ゴール目前で、なぜ、二の足を踏む?この残尿感、なんとかならんものか、と思いながら、今日も残り3時間を切った。

結局、各論っていうのは、方向性だけ示してもらって、一人一人が自分で試して、その人自身の個性で掴み取るしか、方策はないのかも知れない。だから、例えば5次元から6次元に上がる、なんていうのに、何万回も肉体を持って、他者を尊重することが意識体として当然のこととなり、「神」の実在を確信できないと、上がれない、そういうことなんだろうと自分は理解する。この「意識体のエネルギーレベル」の話、なんていうのも、いわゆる「宗教」では、誰も説かれていない気がする。あの人と、この人とでは、明らかにエネルギーが違う、なんてことは、洋の東西を問わず、誰もが感じることだと思うのに、「人は皆同じ」っていうのが前提になってる。そこが、自分には、師匠の講演で初めて「腑に落ちた」部分だった。脳に蓄えた知識は、死んだら消える、ってのに、「試験」を課す宗教もあるらしい。肉体の中身、魂を相手にしていない宗教は、肉体を抜けたら役に立たない。
なんども試行錯誤を重ねて、「意識」の中に定着した時に、初めて人は進化できる。そう自分は理解している。ましてや、6次元から7次元に上がる、なんて言ったら、今回は野球選手で頂点を極めました、今回は医者で頂点を極めました、それを繰り返して「まんべんなく」意識の中に「経験」を刻み込んでから、なんていうことだと自分は理解しているから、大変な騒ぎだ。それで、せっかく一つの分野で頂点にたどり着いても、そこでパワハラなんかやらかして、一気に落ちて、また4次元あたりからやり直す、なんてこともあるんだろうな 。偉くなったとたんに器が小さくなる人、みたいな。
「各論」の蓄積、ってのが、実は、師匠の講演内容を、今は、直接自分の仕事に活用できる、状況なのかも知れない。

なんて、今僕は、どっちの話題を書いているんだろうか。教科書の話か?師匠の講演会の話か?

こうやって、両方が入り乱れてしまって、意識が分散してしまうのが、やはり今の僕の、最大の「難問」かも知れない。いいや、考えるのが面倒くさい。両方引きずったまま、前へ進む。

一つ屋根の下

体育祭が無事終わった。一日中、コンビニと小川小学校のグラウンドを往復したり、あちこちのお店に出向いたり、確かに60メートル競争は棄権したけれど、筋肉痛が限界。(相当に、なまってる。)そこへ、打ち上げの懇親会では飲み過ぎて、もうぐったり。一歩歩くのもしんどい。

終わりぎわ、どなたかが面白いことをおっしゃった。「みんな、一つ家のだから。」だったかな。
4年も会計をやってると、いつも参加される方たちとは顔見知り。ようやっと顔と名前がほとんど結びついてきて、ご近所は、ほとんどどこのお宅とも顔見知り。
家族の中でも、それなりに相手の立場を尊重するのが家庭内での「一家安泰」の秘訣だとするなら、それぞれのお宅はそれぞれのお宅の「個性」があるものとして、尊重し合えるのは、地域全体の安泰の秘訣かも知れない。そうなってくると、地域が全体で「一つの家」みたいになってくる。

家庭の中でも、誰かが身内を思い通りにしようとしたなら、たった一軒の家の中でも「安泰」とは言えない状況になる気がする。ところが、地域ですら相手の立場をそれぞれが尊重できれば、地域全体が「一つの家」のようになる。それが「能書き」だけではなくて、実際にできているのが、日本の田舎のいいところかも知れない。

かつては、「村」と「村」とで、資源を巡って殺し合いの戦争があった。ほんの数百年前の日本は、そうだった。案外、世界中どこでもそうだったんじゃなかろうか。それが、今は一部の地域を除けば、必ずしも「戦争」が「当たり前の状態」ではない、その「地域」全体が「一つの家」のようになっている、そんな気はする。国内で「殺し合い」が起きないという意味では、日本は、ほんの数百年ほど前からは大きく変わり、日本全体が一つの「地域」になろうとしている。すごいことだ。
いつか、この延長で、地球全体が「一つ屋根の下」ならぬ、「一つの星の上」という感じになってくれたら、どんなにか素晴らしいことなのに、なんてことは、ついつい、思ってしまった。酔っ払ってると、気が大きくなって、夢想する内容も「ハメ」が外れてくる。

ここから先は、師匠の受け売り。地球は「地球」という一つの意識体が「霊体」という形で存在していて、「地球という星」は地球意識の肉体、ということになる。私たちは、「地球意識」の肉体である「地球」を構成する、「体細胞」のようなものであって、文字通り私らは「一つ星の上」を構成する運命共同体、なんだろうと思う。

僕らは、「私」とか「自分」という意識がまずあって、少なくとも今現在、私のこのページを「読んで」くださる方は、どなたも肉体を持たれている。その私たちの「肉体」は、視神経だの、胃袋だの、筋肉細胞だの、それぞれが「任務」というか「役割」を黙々と果たしている「独立した意識体」の「肉体」でまずあって、それらが寄り集まって「私」という個人の「肉体」を構成しているんだろう、と、私は理解している。

これが、「私」という「意識」や「私の肉体」に、階層的に、私の「下位の意識」「下位の肉体」が存在している下との関係の状態でもあり、また「私の上位の意識」や「上位の肉体」もまた存在している、そんな状態なんだろう。

その「上位」を辿っていけば、銀河系を創造した「意識体」が存在し、その「肉体」が銀河系宇宙、ということになるんだろうし、師匠は、銀河系宇宙を肉体とする「意識体」が間違いなく存在する、とおっしゃっている。自分は、それを事実として受け入れるところから出発した。

つまり、どこにいようが、何をしていようが、いま目の前で見ている景色はそのまま上位意識体の肉体の一部であり、何よりも私という存在そのものが上位意識体の肉体の一部でもある、ということになるんだろうか。どこか特別な場所でなければ、上位の意識体と意思疎通できないと、どなたかがおっしゃるのならば、それは間違いだと私は考える。特別な場所も特定の行為も一切不要で、ただ今私が存在しているだけで、言ってみれば、私は神の一部であり続ける。
もしも、どこか特別な場所や、特別な行為が必要だとどなたかが説いて、「神に近づくために、お金を払って、その特別な場所や、特別な行為に参加しろ」という話があるならば、それは金銭目的でしかないと私は考える。死刑になった麻原彰晃氏との違いは、人殺しを示唆していない点だけだとも思う。

なんてことを意識しながら隣人と接したなら、全ての人が「同じ星の上」どころか、同じ神の肉体の一部、であり、他人との接し方を考える上で、大切な基本的知識の一部になるんじゃないか、と自分は思う。

この文章を読んでいただいたって、僕は一円も請求しない。何のためにこんなことを書いているか、と言えば、僕自身が「できることは全てやった」と納得したいだけ、だと思う。それ以上でも、それ以下でもない。

嫌だね、酔っ払いは・・・広げる風呂敷がでかすぎて・・・

逃げます。決めた!

明日の体育祭、やっぱり走るのはやめておきます。今日、準備作業の際に、自治会の他の皆様にお詫びしておこうかと・・・

8:40に出走か?(体育祭の際には「出走」とは言わない?じゃぁ出棺か?)体が全然作れていない。無理そうです。設営を手伝った方用の朝ごはんのオニギリを買い出しして、設営を手伝い、飲み物用意してると、毎年アップする時間がほとんどない。だんだんと毛も薄くなってきたことだし、毛がないのが一番。もとい、怪我がないのが一番。無事これ名馬か?

気持ちが負けてる。逃げることを決めた。でも、逃げるは恥だが役に立つ、ってか?

ちょっと気持ちが楽になった。教材書いていても、ずっと引っかかっていたんだもの。

焦りまくり・・・

仕事が順調に・・・捗ってたら、こんなページ書いてないだろうな。

日本語を書く仕事。最初は楽勝じゃん、なんて思ってた。

初めて読む人は「予備知識」がない。知っている前提で書いていたら、読み手には通じない。ところが、何度か読み返していると、「予備知識」がないと、もしかしたら意味が取れない、そんなところが見つかる。書き直す。あ、ここも。結構、泥沼かもしれない。

授業でも時々やってることに、最近気づいてきた。「ここ、もう習ってるよね。」一度習ったからって、覚えているとは限らない。そこに戻る必要がある。問題演習なら戻れる。だけど、カリキュラムがあるなら、砂の上に建物を建てているのを承知で「新しい話題」を展開しなけりゃ、範囲をカバーできない。「教え漏れ」を残したままで国家試験を受けさせるのは、やはりまずい。ジレンマだ。

教材執筆の話。同じような、行きつ戻りつを繰り返していると、なんだかジリジリしてくる。何度も読み返していると、もう、内容の展開から何から、訳が分からなくなってくる。
落ち着け→→俺!

体育祭、雨になってくれと祈ってたのに、今度の日曜日、曇りで実行しそうだな。50歳以上の60メートル走。会計の用事がてんこ盛りだから、時間帯として出られるのはそれくらい。ところが、全く走り込んでいない。土曜日ごとに、夕方とか走ろうとすると雨が降り出す。走れねぇ・・・。すみません、軽く流します、ってことになりそうだ。ちょっと本気になると、足首とか捻りそう。ごめんなさい、準備不足。

3月頃に肺を痛めた。しばらく走れなかった。一ヶ月近く熱っぽくもあって、そんな中で梅の実採集を強行して、三脚から落ちて、首を痛めた。30分とか走っていると、左足が痺れてくる。明らかに筋肉痛じゃない。日常生活には支障はないけれど、やっぱり後遺症、あるみたいだなぁ。しかも、3月から7月頃まで、体調の様子見で、運動量を思いっきり減らしていたから、リバウンドした。結構お腹の脂肪が邪魔。さらに、やはり肺がまだ、回復不十分か。ほんの5km位のジョギングで、何となく酸欠っぽくなってくる。息が上がる訳じゃないんだけれども、明らかに、ワンランク体力が落ちた気がする。

走りたい。でも仕事しなきゃ。あぁ、結果が出てないよぉ!で結局、タバコはやめられそうにないなぁ・・・タバコ、やめたらいいのにと、どなたもおっしゃるけど・・・
落ち着け→俺!

やめときゃいいのに、小川和紙マラソン、また10kmの部、エントリーしてしまった。走れるかなぁ・・・今年は、1時間を切るなんて、絶対無理。とにかく、完走だね。たかが10kmだけれども。どんな形でも、目標がないと同じ走るにしても、やはり違う気がする。
この歳になって、「体力を落とさない」というのがどんなに大変なことか、今年は痛感した。無理したり、強行したりは絶対ダメだよなぁ。

文書起こしにしても、教科書作成にしても、ナメてました。心して掛かります。深呼吸。

いただき物の、インスタントのミルクティーを飲んだ。
こうして言葉にしてみて、ちょっと自分でも頭の整理をしつつ、からの一服。やはり僕には貴重な切り替えの時間だ。

喫煙所撤去

月が変わった。タバコが値上がりした。僕が今吸ってる奴は、30円の値上げ。30円ならまぁね、よしとして。
問題なのは、豊島区の公園内の喫煙所撤去。

昼休みとか、喫煙場所周辺に、非喫煙者っぽい人なんて、誰もいないじゃない。集まってくるのは、他人のことは言えないけれども、疲れ切ったご同胞の方々。だだっ広い公園の隅っこに吸い殻入れがあって、何となく、つかの間の無重力感っていうか、文字通り一息ついていられたのに。撤去か。

24時間連続血圧計の、データ解析ソフトを作っていた頃、何度となく自分の体のデータで解析ソフトのメンテをした。30年前だけれども、僕の体は夜間降圧で午前4時とか午前5時には、最高血圧90mmHg、最低血圧50mmHg、HR45位にまで血圧低下する。一方で、日中喫煙室と往復しながらソフトを書いたりしていると、最高血圧は160、最低血圧は90位にまで上がる。いわゆる、普段のリズムっていう奴で。
それが、業務出張のニューヨーク直行便のフライトで、待合室から到着後まで13時間以上、喫煙できなかった時は、毛細血管が全開だったんだろうな、たぶん、夜間降圧よりも下がって80/40くらいまで血圧が下がっていたと思う。(計らなくても、だいたい体感でわかる。)吐き気もすごかったけれども、意識もぼんやり。頭がぼーっとする、ってな感じで。

毎週火曜日は、たぶん、昼休みも近所の公園は喫煙所撤去だし、周囲に喫煙できる場所がないから、特に昼食後の血圧上昇の反動が出た頃、血圧が下がりまくって、90mmHg/50mmHgとか、80mmHg/40mmHgも覚悟しないと、ってな感じだろうか。水をがぶ飲みしてしのぐか、ってな感じになりそうな気がする。興奮すれば血圧は上がるけれども・・・

ちなみに僕は、安静にして横になっているだけなら、最高血圧70mmHg, 最低血圧40mmHgでも意識は清明でなんの問題も感じない。そう簡単には、意識は落ちないけれども、ただ、これだけニコチンを抜いて、血圧低下で授業をやるってのが、どうなることやら、初体験で・・・ま、なるようになるか。
ニコチン依存症とか、メンタルだけだと思っているんだろうし、特に行政なんて、体の問題なんて全く考えていないんだろうけれども、僕なんかこれだけ長いことタバコを吸ってると、抜けてくると、血圧は特に激しく下がる。行政がそれを無理強いするなら、仕方ない、耐えるか。

なんなんだろう。このキレイキレイな世の中。僕みたいに、タバコは吸うわ、酒は飲むわ、ってな人間は、人間のクズだとでも思っているんだろうか。そういう決めつけをするあなた方が、どれだけ綺麗な心をしているのか、なんてことは言いたい。ほら、今あなたは、こう思ったでしょう、なんてことを、思ったそばから言葉にして突きつけて、ほら、あなたの心なんて、他人を見下して、不安だらけで、偉そうに誰かをいたぶることで快感を感じているだけでしょう、なんて、意識した言葉をそのまま突きつけて、本気の喧嘩を売りたい衝動に駆られる。いや、そんなことが、もしもできたらいいな、ってな話だけれども。できないことを妄想しても、仕方ないな。

特に苦しかったのが、盗聴だの盗撮だのに悩まされていた頃。訳も分からない、私生活を根こそぎ表に出された。メニエルで左耳は聞こえなくなった。あれ、仕掛けたのは行政だろう?公安調査庁か?それとも、面白半分に根こそぎ表に流したマスコミか?絶対に、どっちか、あるいは両方だ。平気で悪いことするのは行政じゃないか?耐えたよ。普通に日常を暮らした。親友だと思っていた奴はクソみたいに常識的に人を見下してくるし、酒とタバコと、他に何が頼れたんだと、僕は今でも思う。

息苦しい世の中だ。ますます、東京なんて、台風に吹き飛ばされてしまえ、地震で潰れてしまえ、ってな気分になってくる。覚悟を決めて耐えるけど、最近、面倒臭くなってる。

ささやかな、くつろぎの場所が、なくなる。

もし僕が低血圧で倒れたなら、救急車は呼ばずに、タバコをその場で一服させてくれたら、30秒で復活すると思います。