お化けが怖い・・・

NHKの渋護寺(シブゴジ)に反応。
師匠がこの番組をご覧になっていたら、絶対何か、講演会の内容なんかで、コメントがあるだろうなと思いつつ、取り急ぎ弟子の私が反応。師匠の講演会内容で、再三、「注意喚起」というか、僕らの心構えを説かれていた内容で、私程度の記憶からでもかなり自信のある部分だけ、抜粋。

まず、いわゆる「お化け」(=妖怪)の類は、人類の恐怖心からの妄想で、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だと言えます。ゾンビ?貞子さん?あり得ない。恐怖心を煽るエンターテインメント。これらの映画製作が、「誤った神の教えを解く」だとか、「人の心を惑わす」に該当するかどうかは、私にはわからないけれども、「エンターテインメント」を看板に掲げているなら、信じる方が未熟だと個人的に私は思う。

ただし、悪霊は実在します。それは、何度となく言われている。実際に訪れた人を殺すような悪霊が居着いた場所は、世界中に何十箇所も存在していて、師匠が浄霊した場所などは限られている。強い憎悪を抱いたまま死ねば、その人は悪霊になって、地縛霊とでも言うべきか、訪れた人を殺す場合もあるし、(詳細は、師匠が実際の浄霊経験を著書に書かれているので、そちらを参照して欲しい。僕が強引に会の規約を無視して、師匠のお名前とか著書をネットに出しました。指摘されたので掲載したWEBページは消したけれども、インターネットだからどこかに残骸が検索できると思います。ルールの範囲なら「無知という名の泉」で、検索して拾えるかなぁ。この書籍名なら、書いても規約に反していない気がする。ルールを破る悪智慧だけには、自信がある。話を戻して、)「あの心霊スポットはヤバイ」と言う場所は、本物がいる場所だとしたら、訪ねるのは止めるのが無難だと思います。おそらく、海外でも、ベテランのエクソシストの方でも命を落とされた方がいらっしゃる。映画もフィクションではない、と私は理解しています。

それ以外にも、どこぞの宗教が、「墓が死後の住居」だとかなんだとか、教えているもんだから、それを信じ込んで、古くは室町とか、新しいところで江戸時代あたりから墓石に住み着いた霊体さん、なんかがいて、その墓が土石流だとか自然災害で流され、「なんとなく形のいい石」になって河原に転がる結果になった。その河原の石をこの石綺麗、とか思って、拾って帰った方が、その墓石に染み付いた霊体の意識に取り憑かれた顛末、なんて言うのも師匠が著書に書かれている。(NHKに便乗した宣伝になってしまった感があるけれども、師匠の著書を買う金を払いたくないなら、私の伝聞で我慢して下さい。)

人間は本来「無垢」だと思う。僕もそうだけれども、権威が「こうだ」と教えこめば、簡単にそれを信じてしまう。それを疑うことが難しい。信じた内容が間違っていれば、天に戻るどころか、地獄に落ちるし、地獄に落ちるそれ以前に、この物質世界に漂流して(日本の仏教の考え方で言えば、「成仏できない」だし、キリスト教の考え方は完全には理解していないけれども、地獄に至る前の「煉獄」なんだろうか、イスラム教は本は持ってるけど本質を理解してないから、スルーして、)とにかく、現世に止まって、生きている人間に悪さをする。いや、亡くなったご本人は、「生きているつもり」なんだろうし、自分のありのままなんだろうけれども、「あなたのありのままは、迷惑極まりない」なんて言う隣人は、ご存知ありませんか?それがそのまま、霊体になる。
現生に止まって、「自分と意識の近い人」に働きかける。僕なんかは、いいカモです。酔っ払いが死んで、自分が死んだことを自分で理解できないと、酒飲みに取り憑く。酒を飲んでいい気分になりたい。その意識だけは(執着って言うんかなぁ)しっかりしているから、酒を飲んで今を忘れたい生きてる人間に取り憑く。そう言う「霊体さん」が「常連」にしている人は、泥酔していても霊体さんが体を操って時にはタクシーの運転手に目的地を告げて、自宅まで連れ帰って、カモに「また、よろしく」なんていう意識を送っているから、翌日もまた無事出社して、そうして終業のチャイムが鳴ったら即酒を飲みに帰社する、なんてしていても、取り憑かれた本人は結構無事だったりする。酒飲みの場合はその程度、だけれども、それが憎悪ということになったら、どんなレベルなのか、私は理解したくない。肉体を操って、誰かを殺す、なんていうことは、普通に起きているようにも、ニュースを見ていると感じる。

大川隆法氏。あの方は、紛れもなく9次元が肉体を持たれた方で、「釈迦」です。師匠がそうおっしゃっていた、だけではなく、もしかしたら僕自身、誰の「チンドン屋」を務めるか、もしかしたら、大川隆法氏の下に仕えようとしていたかも知れない。だって、釈迦の直属の部下ですよ?でも、頼れたのは、自分の「違和感」だけだった。ただ、間違いなく、あの方が書かれた最初の一冊だけは、上の意識を受け取って書かれた本だったと、師匠がおっしゃっていた。「太陽の法」だったかな。(それ「だけ」ね!)
汚れた心は、汚れた霊を引き寄せる。それを避けたいなら、自分の心をきれいにしなさい。それだけ、なのだと思う。「渋護寺」に出られていた住職も、おっしゃっていた。「南無阿弥陀仏」を唱えただけでは、憑依霊は避けられない。具体的に、私自身を例にして言えば、酒が飲みたい一心でいれば、いくら「南無阿弥陀仏」を唱えたって、酒を飲みたい心が優って、そういう憑依霊は簡単に私に取り憑く。取り憑かれたら最後、あとはもう、失禁しようが、道路に寝ころがろうが、勢いで崖から落ちようが・・・これ以上は、ご想像にお任せしますが、誰に取り憑かれるかは、運次第、ってな感じだろうか。小中学校の担任が誰か、なんていうのに、似ている気がしますけれども・・・。それが嫌なら、「酒を飲みたくてたまらない」自分の心をどうにかするしかない。
ただ、霊体さんの意識を引き寄せる、引き寄せない、それは、ご本人の意識次第。

師匠は、悪霊には気をつけないと怖い、ともおっしゃっていた。その点は別にして、普通の、いわゆる(自殺なんかの)自縛霊、とか(墓こそ自分の住処、みたいな)地縛霊、とか、(「人間、死んじまったら何も残らねぇんだよ」なんて本気で思った挙句の)浮遊霊、とかの方々は、自分の意識が共鳴しなければ、全く影響を受けることはないから、安心していてもいいんじゃないかな、と個人的には思う。自分で気づくまで、放っときゃいい。人畜無害。本人が時間を損するだけ。ただ、憎悪を持って死んだ悪霊だけは、別格。

私自身は、(もう、数え切れないほど書き続けた、盗聴とか盗撮のおかげで、)自分を守ろうとか、自分を良く見せよう、なんていう意識は、カケラも無くなった。お陰様で。「思いたいように、言いたいように、お好きに私のことを語ってください」なんていう心境は、やはりあの、盗聴・盗撮のおかげかも知れない。私を殺す?お好きにどうぞ。ってな感じか。私の私生活では、適齢期に結婚し損ねたし、子供もつくりそびれた。今のヨメは?ノーコメント。いや、俺、思い残すこと、何もねぇから。仕上げたい仕事はあるけど、出来なくたって、僕が困る訳じゃない。殺したいならお好きにどうぞ。そんなところか。そもそも、「自分を守りたい」と思うから、「恐怖」が生まれる。守らなければ、いいじゃん。それだけ。「何かが怖い!」羨ましい。守りたい自分の生活がある、なんて、素敵じゃない!?失うのが怖いのなら、最初から、持たなきゃいいじゃんか。

「お化けが怖い!」ですか?いわゆる妖怪はいないけれども、「霊体さん」たちはものすごく、多数、この世界に「残留」しています。知らぬが仏。知らぬか放っとけ。死ぬから放っとけ。死ぬから仏。
その「残留意識」に同調するかどうかは、我々自身の心の在り方次第、だと私は理解しています。意図的に共振して、「テメェ、何だこのやろ」なんていう喧嘩を売れる自信がないなら、あるものをただありのまま受け入れて、殺されようがなんだろうが、なされるがまま為されて、できることは全力でやる、ただそういう生き方をされたらいいのかなと、私はそう思う。その意識があったら、霊体さんなんて、一体も怖くないと思います。
以上。

きのこ狩り

キノコ狩りで亡くなった方が、今年はやたら多いとか。
70才代とか年配の方が多い。らしい。他人のことは笑えない。

今年は、完熟の梅が見事なくらい、たわわに実った。木に登って取れるところだけで済ませればいいのに、手が届かない、体重をかけられる枝がない先端の取り残しを、残さず取ろうと、狭い場所に三脚を置いて、三脚の脚を広げきれない状態で、バランスを取りながら取ろうとして、落ちた。頚椎を痛めてる。
冷えてきたら、足のしびれが出るようになった。治すよ、自力で治すってば。ただ、この冬は結構キツイと思う。時間がかかるようになった。それ以前に、ほんのちょっとでも状況が違っていたら、死んでいてもおかしくなかったな、とは思う。
欲張り爺さん、首の骨を痛めるの巻。

ときがわ町の西平のあたりにある農協の直売所(だったかな)で、以前、キノコフェアみたいなの、やってた。珍しいキノコとかがたくさん。ただね、出遅れて10時くらいに着いたら、残っているのは種類を書いた値札ばかりで・・・。まぁいいや。スーパーのパックに入っていない「得体の知れない食い物」なんて、買って来た日には、やたらと面倒なことになる。シイタケとか、エノキダケ、マイタケ以外は、食い物ではないということで、納得することにして・・・。僕の人生は、こういうことになってしまった。首を痛めるよりは、多少はマシな話か。でもなぁ、キノコに目がくらんで転落する人の気持ち、今はとってもよくわかる。

師匠がいつもおっしゃる。人間の実体は、肉体じゃないよ、意識体だよ。心を汚したら、いくら着飾ったってなんの意味もない。上の方々は意識しか見ない。なんてな話で。
「あれ、美味しそう」なんていうのも「適度」ならなんの問題もない。人生をエンジョイする、っていう意味では、肉体を持っているからこその楽しみ方もある。キノコを味わうのも、完熟の梅の甘さを味わうのも、肉体を持っていてこそ。肉体を持っているなら、生きているなら、楽しまなきゃ、もったいない。その点については、師匠のお墨付き、だと思う。
ただ、それが「欲」になっちゃうと、結局心を汚す原因になる。「欲」になっちゃったらまずい。

以前、勉強会の会員の方が、こんな話をされていた。ある日、自動販売機の釣り銭受けに、何枚ものコインを見つけた。「これは、儲けた!」と、内心喜んだらしい。次から、自販機で買い物をする度に、釣り銭受けに手を入れると、「また、あった。儲け!」なんてことが、何度も続いた。5回だか、10回だか、それが連続するうちに、「なんか、変じゃないか」と思い始めたらしい。もしかしたら、俺は試されてるのか?と思って、「儲けた」と思って喜んでいた自分の気持ちを見直して、師匠に直接確認されたらしい。そうしたら、師匠が笑って「そうだよ。」とだけ、返事をされたとか、そんな話を聞いた。
ぶっちゃけ、似たような話は自分も経験があるし、いろいろなバリエーションで話は聞くけれども、はっきり言わせてもらえば、師匠も試し方が、かなりエゲツない。あ、と気付いた時に思いっきり赤面するような経験を、それも、普通はあり得ないような偶然を、平気で突きつけてくる。確かに、ありがたいっちゃ、ありがたいけれども・・・

ちなみに、師匠の「そうだよ」の後は、釣り銭受けに手を入れても、もう何もなくなって、むしろほっとしたらしい。実は、これが「地獄」の再現経験らしくて・・・。肉体を持っている時に、本人の意識が「執着」しているって言ったらいいのかな、ハマってしまって抜け出せない「思い」があると、そしてそれが「物欲」だったりすると、意識体だけに戻ると外界からの歯止めが効かないから、似たような意識体の方々が集まって、本人が「これはおかしい」と気付くまで、その状況が続く。前にも書いた、セックスもそうだし、飽食もそうだし、夢の中でそれを続けている状況を想像したらわかりやすいかも知れない。そういうのは、本人たちは「天国」だと思っているかも知れない。人を殺すことや、奪うこと、騙すことに快感を感じる人たちは、そういう人たちどうしで、殺し合いを延々と続ける。「血の池地獄は、実際にあるよ。行ってみる?」なんて話もあった。価値観の違いで、傍から見たら地獄でも、本人にとっては天国、ってなことはあるかも知れない。結局、脳がなくなった「意識体」の状態で、「自分で気付くことが、どれだけ難しいか」ということの、ある意味で「課題」なんだろうとも思う。
僕が何で赤面したかは、書きません。自分のセコさだけは、悔しいけど、自信がある。

梅の実取りで、三脚から落ちて、頚椎を痛めた。これから寒くなる。今年は、結構シビレとか麻痺にも、悩まされそうだ。自戒の念を持ち続ける程度に、後遺症を残していただいて、感謝すべき、なんでしょうね。あの時に死ななかったのは、まだ生きて、何か仕事しろ、ってなことなんだろうと、解釈しておくことにする。

それにしても、と思う。肉体を持っているからこそ楽しめること、ってのは、ものすごく多い。キノコの味覚もそうだし。だけど、それが「欲」にならない、「欲しい」っていう気持ちに棹さして、安全を軽んじてしまうってのは、全く他人のことを笑えない、と思ってしまったニュースだった。

ただね。もう、今回やるべきことはやり尽くした、もう、思い残すことはない、と思えたなら、なまじっか、胃瘻か何か作られて、チューブに繋がれて生き続けるよりは、こうした事故で、サッパリと「人生を終える」ってのも、ありかな、なんていうことを考えるようにもなった。逆に言えば、肉体を抜ける際に、何も悔いを残さないように、今回自分で「課題」に掲げた内容だけは、きっちりと仕上げてから帰りたい。

愛情一本

チオビタのキャッチコピー、使わせていただきました。
レンタルDVDで、「ひるなかの流星」途中まで見てた。深夜、寝落ちするまでのお楽しみ。もう、無作為、ランダムにレンタルしまくっていて、このタイミングで、このDVD。「担任を好きになるって、ベタすぎねぇ?」ってな、セリフ。「なるほどね。」

極めて個人的に、大学教員を始めて以来、「嫌いな相手」がいないことに何となく気付いた。こっちだって仕事だから、ネチネチと「なぜ、こうしない」とか、「どうしてここがわからない」みたいに、絡む場面は少なくないけれども、嫌いな学生なんて、一人もいなかったと思う。いざ仕事だと思えば、全員に平等に愛情を注ぐことはできていたかな、と思う。
目を見て話す、なんてのは、普通にやってたつもりだし。思わず視線が胸に釘付けになっちゃった、なんてことが、なかったとは言わないけれども、ただ単に視線が釘付けになっただけで、他意はないです。セクハラだと騒がれなかった点だけは、感謝します。(なんの話だ?)

親父も、お袋も、たぶんそうだった。「どうしてわかってくれないんだ」というイライラはあったにしても、児童や生徒を嫌いになったことはなかった、と思う。自分の知っていることは、知ってほしい。自分にできることは、できるようになって欲しい。その辺は、たぶん、親父やお袋とも同じだと、今になって思う。親父やお袋の仕事は、僕も結構好きだったのかも知れない。ただ、どこかの学校で「悪いことをするに決まってる」とか決めつけられて、会社兼業届けの書類の不受理、なんていう門前払いを食らってから、専任の教員は無理だと思った。他にやりたいことがあるなら、新しく作りたいものがあるなら、学校の教員は無理だ。そんな話はもう、どうでもいいけれども、これって、言い訳なんだろうか?苦手な仕事ではなかった気がする。っていうか、いまでも非常勤は続けているのに、過去形にするな、ってか?

以前、Shift-In/Shift-Outを文字って、「Kirai-In/Kirai-Out(嫌いイン/嫌いアウト)を使い分ければ、大抵のことはうまくいく」と書いた後、なんとなくだけれども、師匠の講演会で、「好き/嫌いがあるなんて、贅沢だよね」という一言があった時に、この話題のことかな、と思ってしまった。僕自身は、「苦手な人」はいても、「嫌いな人」はいない。ただ、「嫌い」な勉強とか科目に悩まされている子供たちに、伝えたくて書いただけだった。「苦手」と「嫌い」は違うはずなのに、苦手が嫌いになるのは、どうしてなんだろう。

師匠の講演会で思い出した。訂正が一つある。6次元の方たちが「専門職として、一つの道で頂点を極めたら、次に肉体を持った時には、別の専門職として頂点を極める」と書いた部分。師匠は、「頂点を」なんてことは、一言もおっしゃっていないのに、またしても私は話を盛ってしまった。可能な限り幅広く様々な専門職で、その道を極める、というニュアンスならば、たぶん正しいけれども、「頂点を」というのは私が話を盛った。その試行錯誤を卒業することには、人に対する「好き嫌い」が一切なくなってくる。それは間違いないと思うけれども、6次元の意識体の描写の部分で、僕は話を盛ってしまった。ここは訂正します。この段落は、前後の脈絡と無関係な単なる挿入。訂正でした。以上、訂正終わり。

好きとか嫌いとか、口にできるのは恵まれている方だ。実際、仕事となったら好きも嫌いもない、やるべきことはやらざるを得ない。そういう場面を避けて通れる人生が、もしあるとしたなら、経験値としては「一回休み」みたいなものだろうか。何万回と肉体を持つ過程で「一回休み」で、数百年に一度の肉体を持つ機会をムダ遣いする、そういう「回」があってもいいのかも知れないけれども、もったいないなぁ、なんてことを感じるように最近なった。
でも、他人の人生には口は出さない。他人を惑わしてはならない、という鉄則。傍から見ていて何か気づいていても、自分で気づくのを忍耐強く待つ。何万回でも、何億年かけても。それが、あるべき姿だと思う。ただ、そうして本人が気づくのをひたすら待ち続けるにしても、それでも他者と接する際に、愛情を持って接することを忘れてはならない、それも、あるべき姿、すなわち、創造主が当たり前のように、期待されている姿かも知れない、と、最近は考えるようになった。

師匠が講演会でおっしゃっていた。イエス様が説かれた愛。なんでわざわざ説く必要があるの?と。そもそも、創造主は全ての人間に「愛」を持たせている。少なくとも、イエス様が説かれた「愛」は、誰の中にも持たされている。自然にしていたら、愛が出てくるのは当然だと、そんなニュアンスのお話を聞いた記憶がある。ところが、その「愛」が化けまくっている。

私はあなたを愛しています。直訳したなら、本意は「だから、私を愛してください、私を大切に扱ってください、私を特別扱いしてください、私の肉欲を満たしてください」そこまで解釈できるケースが少なくない、と私自身感じる。本来的には、神が持たせてくれた愛は、与える愛の方で、奪う愛とか、求める愛は、ある意味での欲望に他ならない、と、私は理解している。

誰かを好きになる。生涯のパートナーとして、自分にふさわしい相手として、相手にふさわしい自分として、相手を見極めて、一生を通じて不快感を感じることもなく、自然に一緒にいられる相手を選ぶ、という意味では、「好き」もいいのかな、と思う。それ以上に別な自分の欲望(肉欲もそうだけれども、相手に便乗した名誉とか、経済的な物欲とか)を被せてくるなら、「愛」も、「好き」も、なんだか欲望の発露みたいで、あまり「美しい言葉」には思えなくなってくる。

One for All / All for Oneなんてのが、スポーツのキャッチにあったっけか。いいね、と思う。自分の存在を、相手のため、誰かのために使うことができる。おそらく、7次元のエネルギーを持つ意識体にまで上がれば、当たり前のようにそれができる。呼吸するように周囲に対してできることをして、好きとか嫌いとかいう意識はほとんど持たない。(白状すれば、「好き」は何度かあった、けど。)
6次元の方は、つい自分の興味を優先する場面が少なからずある。5次元の方がたは、「これしかできないけれども、今自分はこれをやる」と考えながら、「できないこと」の重さに直面して、次からはなんとかしたい、と考えながら、「専門職に没頭する」6次元に上がる糸口を掴もうとする。4次元の方がたは、時には”America First”とか何とか言いながら、ひたすら自分だけがいいように振る舞い、生きることに必死になりながら、「もしかしたら、他人の立場を尊重することで、自分にとってもメリットがあるかも」ということに気づくことが、その方にとっての「進化」であり、5次元のエネルギー体に進化するきっかけをつかむ、そんな風に自分は理解している。「好き」とか「愛」とかは、案外、その「意味」の解釈の仕方で、その人の次元がわかる話題かも知れない。会話の中で相手が使う「言葉」の意味、真意に気付いた時に、何気なく、この人は何次元だと確信する場面がある、ことに、最近気付いてきた。

師匠が講演会で、これまで何度もおっしゃったこと。「究極の愛とは、自分を大切にすることだよ」という一言。ここでいう「自分」とは、「私という意識体」のことで、肉体のことではないし、物質世界での満たされた生活のことでもなく、「自分という意識体を一切汚さないこと」だと、私は理解している。
どういうときに、自分を汚すのか。「なんだ、こいつバカだな」と、本気で思ったなら、それだけで心に薄墨をつけ、刷毛で塗ったように、心に汚れが付く。「こいつ、憎らしい」と思えば、真っ黒の墨汁をつけるように、べたっと汚れが魂にこびりつく。肉体を抜けた後は、その汚れを落とし切るまで、肉体を持つ前にいた世界には戻れない。その洗浄室が「地獄」で似たような意識体の方々が、磁石で吸いつけられるように集まって生活する。周囲が見た似たような人たちばかりだから、「何かおかしい」と気づくことが難しい。
例えば、「××ホテルで朝食をとって、持ち物はルイヴィトンのバッグに、何ちゃらかんちゃらみたいな生活しかしないのよ」、ってな方がたは、意識レベルが似たような方々で集まって滞在するから、ある意味で、そこが地獄だと気づかないほど居心地のいい空間、でもあるらしい。セックスが全てなら、肉体を持った時の感覚の残像を引きずったまま、しかも意識体は疲れなんか知らないから、延々とその世界に浸っていられる。行きたいと思います?天国みたいに本人たちは思っていても、実は地獄。憎悪の感情に囚われた方々の場合には、地獄に行く前に、現世に留まってしまう場合も少なくないみたいだから、死んだことを理解して地獄に行くところまでに、まず最初の壁がある。
余談ながら、これも師匠が講演会でよくおっしゃる言葉。「生まれてから一度も、バ〜カ、とか、あいつ憎い、とか、自分を守る嘘だとか、思ったり口にしたりしたことないっていう人いる?いないでしょ?だから、全員が地獄に行くんだよ。」そこで、「これはおかしい」と気付いたなら、そうした汚れを落として、元いた上の世界に戻れる。その人ごとに汚れ方は様々で、似たような方々が集まる地獄に留まって、汚れを落としきるまで上には戻れない。ただ、本人にとっては、地獄というよりも、天国かも知れない。
究極の愛とは、師匠の講演では、そういう世界に自分を落とさないようにすること、だと、自分は理解している。念のため、師匠がよく講演会でおっしゃるのは「究極の愛とは、自分を愛すること」という表現が一番多く、「自分を大切にすること」という表現もある。ただ、ここでいう自分とは、肉体とか世間体ではなく、「魂」を指している点だけは改めて強調したい。

人を愛する、誰かのために何かをする、自分が大切に思う相手とか、自分自身の子供のために、できる限りのことをしてあげたいと思う、それらも全て「愛」だとは思うけれども、そうした「愛」は、動物もある程度持っているし、人間も当然最初から持たされている。そうした「性質」だと、私は理解する。「誰かのために」と、常に意識して行動するとしたなら、それは確かに「愛」の形かも知れないけれども、「究極の愛」とは(魂を汚さないという)「自己愛」だと、何度となく師匠の講演会で聞いた。

例えば、仕事で接点のあるすべてのお客様に、あるいは、授業に出席しているすべての学生に、まんべんなく「できることをする」、愛情を持って接する、口にするのは簡単だけれども、実際にやってみると、とてつもなくメンタル的なエネルギーを要する作業だと、経験されたことのある方はご存知だろうと思う。だからこそ、そうした経験を蓄積することで、例えばスポーツで「走り込み」をして体力をつけるように、メンタル的なエネルギーが蓄えられていって、何万回かの「肉体を持つ」経験の後で、「進化」して上の次元に上がっていけるのかな、と、自分は理解している。

何万回、と書いたけれども、「地球生まれ、地球育ち」の霊体さんたちは、魂として生まれてきてまだ数千万年しか経っていない。それなのに「もう6次元に上がった方もいるよ。」と師匠はおっしゃっていた。今回、創造主が試された「地球ならではの工夫」が、有効に機能していることの証明かもしれない、と、お考えだと、聞いている。これまでの星系では、6次元に上がるためには何十億年もかかっていたのが短縮された、らしい。何よりもまず、我々はこの「魂の進化のため」に肉体を持っている、持たされている、ということを知っておくことが大切なのかもしれない。

以上、一応自分の経験に基づいて書いていますが、骨格は「師匠の受け売り」でした。今度こそ、当分は仕事一筋。

各論

臨床工学については、僕はアマチュアだったのかもしれない。
内山明彦教授の下で、臨床工学を専攻していたと言っても支障はないと思うけれども、文部省の届け出上は「電子工学専攻」だった。僕が卒業してから「臨床工学技士」の資格ができて、内山先生などが資格設立に関与されて、まだ「体系化」はされていなかったと思う。勉強したって言っても、随分と不完全だった。だから、最低限仕事をするのに必要な程度は「門前の小僧習わぬ経を読む」で、医学についてもそこそこ、いい加減な知識は持っていたけれども、医学だって無論基礎をきちんと学んだ訳じゃない。

逆説的だけれども、だからこそ、いざ「臨床工学」で教えることになった時、必死になって体系的に把握しようとして勉強し直して、その「学んだ」プロセスを学生に教えられる。点を見つけて、点と点をつなげて、線にする部分を教えられる。その線と線とで囲み込んで、面を作る。そうなると、この科目は完璧、みたいに思わせることもできる。この分野については、学生が本気である限りは、ある程度教えることには自信がある。

そして、プログラミングはどうか、と言うと、どちらかと言えば、気がつけばプログラムが仕上がっている、そんな感じでもう、40年近くプログラムを書いて来た。最初にFORTRANのプログラムを覚えたのは17才の時だったから、40年を過ぎたか。で、一番「何でも思い通りに動いた」頃、20才代の頃は、ほとんど考えずに、直感的にイメージしたものが、勝手に指が動いて入力されていて、一気に書き上げる感じで、場合によっては30時間とかで一気に1万行とか、訳のわからない書き方をしていた。(今はもう、当時の10分の1も、パフォーマンスが出せない。)仕事にするには、この分野がたぶん一番僕には向いていた。ただ、サラリーマンになってしまうと、「余計なこと」が多過ぎて、プログラムを書くことだけに専念できる訳でもなく、それだけでパフォーマンスはやはり10分の一以下には落ちたかもしれない。(いや、その「余計なこと」が「仕事」にはとても大切だ、と、後になってから痛感したけれども・・・)

ところが、いざ、情報科学部で教えるとなると、「理論的」な基礎はないし、苦しんでプログラミングしている訳じゃないから、「教える」こと自体が非常に苦手で、「わかった!」に辿り着くまでのプロセスをうまく説明しきれない。この壁、結構厚い。実はいま、「教科書」を書いていて、9割方書き上げているのだけれども、校正のところで、もんどりうってる。伝わるかどうか、全く自信がない。伝わらなくても、教科書にはなるんだろうけれども・・・そんな悩みを抱える、今日、この頃。

師匠の講演会。例え話が難し過ぎて、なかなか答えが出せないけれども、いざ種明かしを聞いてみると「各論」が非常に多い。すごく具体的。

正しく生きなさい、清く生きなさい、どの宗教でもそんな感じなんだろうけれども、師匠の「講演」は、何も知らずに参加したら、「雑談」にしか思えない。テーマによっては「この部分を、こう解くんだよ」と言う解説が後からあるから、なるほどと、理解できるけれども、「総論」と言うよりも「各論」。直接「答え」を教えずに「例え話」しか講演でされないのは、「自分で答えを出すプロセスを経験させるため」だと、今は理解している。答えだけ教えてもらったら、肉体を抜けたらもう、次には役立てられないだろうし。

この「各論」を自分に当てはめてみると、ケースバイケースで、結構自分を変えるための役には立っているんだろうと思う。(結果を出せていないから、何とも言えないけれども・・・)15年前の僕と、今の僕が、もし「変わった」と言って下さる方がいらっしゃるなら、それは一つの「結果」かも知れない。けれど。

他人をリスペクトしながら生きる。「総論」としてはわかりやすいけれども、いざ「各論」になると、なかなか簡単じゃない。その「各論」部分に具体的なヒントを出してもらえる「宗教」は、自分があちこち顔出しした限りでは、なかった。実は、トラディショナルな宗教にも、いわゆる新興宗教にも、結構顔出ししたことがあったけれども、3回以上足を運んだのは一つもなかった。具体名は書きません。なんだか「綺麗ごと」ばっかりで、具体性に乏しい。
なんて言うんだろうか。仕事でいえば、売り上げ目標だとか、スローガンだとか、そんなことは口にするけれども、実際に具体的にどうするかについては一言も説明がない、実務能力が皆無、みたいな上司というか、とても、ついていく気になれない、そんな宗教ばかりだった気がする。
いや、ね、私に実務能力があるかどうかは、あくまでも例え話だから、そこのところは忘れてください。

結構、大変な話だ。新興宗教なんかよりも、「実用書」の方が役に立つと思えることもあるけれども、ただ、基本的に「人の実体は霊体だ」というのが根っこのところにあって、その上で、相手の意識(霊体そのもの)にどうやって働きかけるか、平たく言えば、「心を動かす」っていうんだろうか。そのための「勉強会」っていうんだろうか。僕にとっては、師匠と出会ったのは、(もしかしたら、僕は、師匠のチンドン屋を買って出るつもりで肉体を持った、かもしれないというのは、別にして、)やはり、良かったという気がしている。

ふと、そんなことを考えては見たんだけれども・・・

今僕が直面する「各論」的な課題は、プログラミングで、「そうか、わかった!」という導入を、どうやるか、なんだろうか。
「このやり方を、真似してみなさい」そして「こういう考え方で、自分のやり方で作ってみなさい」なんていう、そればかりだ、というのが、どうにも釈然としない。共著者の先生、というか、シラバスの原型を作ってくださった先生には、「小林流でいいんじゃないか」なんて、おっしゃっていただいたんだけれども・・・

ゴール目前で、なぜ、二の足を踏む?この残尿感、なんとかならんものか、と思いながら、今日も残り3時間を切った。

結局、各論っていうのは、方向性だけ示してもらって、一人一人が自分で試して、その人自身の個性で掴み取るしか、方策はないのかも知れない。だから、例えば5次元から6次元に上がる、なんていうのに、何万回も肉体を持って、他者を尊重することが意識体として当然のこととなり、「神」の実在を確信できないと、上がれない、そういうことなんだろうと自分は理解する。この「意識体のエネルギーレベル」の話、なんていうのも、いわゆる「宗教」では、誰も説かれていない気がする。あの人と、この人とでは、明らかにエネルギーが違う、なんてことは、洋の東西を問わず、誰もが感じることだと思うのに、「人は皆同じ」っていうのが前提になってる。そこが、自分には、師匠の講演で初めて「腑に落ちた」部分だった。脳に蓄えた知識は、死んだら消える、ってのに、「試験」を課す宗教もあるらしい。肉体の中身、魂を相手にしていない宗教は、肉体を抜けたら役に立たない。
なんども試行錯誤を重ねて、「意識」の中に定着した時に、初めて人は進化できる。そう自分は理解している。ましてや、6次元から7次元に上がる、なんて言ったら、今回は野球選手で頂点を極めました、今回は医者で頂点を極めました、それを繰り返して「まんべんなく」意識の中に「経験」を刻み込んでから、なんていうことだと自分は理解しているから、大変な騒ぎだ。それで、せっかく一つの分野で頂点にたどり着いても、そこでパワハラなんかやらかして、一気に落ちて、また4次元あたりからやり直す、なんてこともあるんだろうな 。偉くなったとたんに器が小さくなる人、みたいな。
「各論」の蓄積、ってのが、実は、師匠の講演内容を、今は、直接自分の仕事に活用できる、状況なのかも知れない。

なんて、今僕は、どっちの話題を書いているんだろうか。教科書の話か?師匠の講演会の話か?

こうやって、両方が入り乱れてしまって、意識が分散してしまうのが、やはり今の僕の、最大の「難問」かも知れない。いいや、考えるのが面倒くさい。両方引きずったまま、前へ進む。

一つ屋根の下

体育祭が無事終わった。一日中、コンビニと小川小学校のグラウンドを往復したり、あちこちのお店に出向いたり、確かに60メートル競争は棄権したけれど、筋肉痛が限界。(相当に、なまってる。)そこへ、打ち上げの懇親会では飲み過ぎて、もうぐったり。一歩歩くのもしんどい。

終わりぎわ、どなたかが面白いことをおっしゃった。「みんな、一つ家のだから。」だったかな。
4年も会計をやってると、いつも参加される方たちとは顔見知り。ようやっと顔と名前がほとんど結びついてきて、ご近所は、ほとんどどこのお宅とも顔見知り。
家族の中でも、それなりに相手の立場を尊重するのが家庭内での「一家安泰」の秘訣だとするなら、それぞれのお宅はそれぞれのお宅の「個性」があるものとして、尊重し合えるのは、地域全体の安泰の秘訣かも知れない。そうなってくると、地域が全体で「一つの家」みたいになってくる。

家庭の中でも、誰かが身内を思い通りにしようとしたなら、たった一軒の家の中でも「安泰」とは言えない状況になる気がする。ところが、地域ですら相手の立場をそれぞれが尊重できれば、地域全体が「一つの家」のようになる。それが「能書き」だけではなくて、実際にできているのが、日本の田舎のいいところかも知れない。

かつては、「村」と「村」とで、資源を巡って殺し合いの戦争があった。ほんの数百年前の日本は、そうだった。案外、世界中どこでもそうだったんじゃなかろうか。それが、今は一部の地域を除けば、必ずしも「戦争」が「当たり前の状態」ではない、その「地域」全体が「一つの家」のようになっている、そんな気はする。国内で「殺し合い」が起きないという意味では、日本は、ほんの数百年ほど前からは大きく変わり、日本全体が一つの「地域」になろうとしている。すごいことだ。
いつか、この延長で、地球全体が「一つ屋根の下」ならぬ、「一つの星の上」という感じになってくれたら、どんなにか素晴らしいことなのに、なんてことは、ついつい、思ってしまった。酔っ払ってると、気が大きくなって、夢想する内容も「ハメ」が外れてくる。

ここから先は、師匠の受け売り。地球は「地球」という一つの意識体が「霊体」という形で存在していて、「地球という星」は地球意識の肉体、ということになる。私たちは、「地球意識」の肉体である「地球」を構成する、「体細胞」のようなものであって、文字通り私らは「一つ星の上」を構成する運命共同体、なんだろうと思う。

僕らは、「私」とか「自分」という意識がまずあって、少なくとも今現在、私のこのページを「読んで」くださる方は、どなたも肉体を持たれている。その私たちの「肉体」は、視神経だの、胃袋だの、筋肉細胞だの、それぞれが「任務」というか「役割」を黙々と果たしている「独立した意識体」の「肉体」でまずあって、それらが寄り集まって「私」という個人の「肉体」を構成しているんだろう、と、私は理解している。

これが、「私」という「意識」や「私の肉体」に、階層的に、私の「下位の意識」「下位の肉体」が存在している下との関係の状態でもあり、また「私の上位の意識」や「上位の肉体」もまた存在している、そんな状態なんだろう。

その「上位」を辿っていけば、銀河系を創造した「意識体」が存在し、その「肉体」が銀河系宇宙、ということになるんだろうし、師匠は、銀河系宇宙を肉体とする「意識体」が間違いなく存在する、とおっしゃっている。自分は、それを事実として受け入れるところから出発した。

つまり、どこにいようが、何をしていようが、いま目の前で見ている景色はそのまま上位意識体の肉体の一部であり、何よりも私という存在そのものが上位意識体の肉体の一部でもある、ということになるんだろうか。どこか特別な場所でなければ、上位の意識体と意思疎通できないと、どなたかがおっしゃるのならば、それは間違いだと私は考える。特別な場所も特定の行為も一切不要で、ただ今私が存在しているだけで、言ってみれば、私は神の一部であり続ける。
もしも、どこか特別な場所や、特別な行為が必要だとどなたかが説いて、「神に近づくために、お金を払って、その特別な場所や、特別な行為に参加しろ」という話があるならば、それは金銭目的でしかないと私は考える。死刑になった麻原彰晃氏との違いは、人殺しを示唆していない点だけだとも思う。

なんてことを意識しながら隣人と接したなら、全ての人が「同じ星の上」どころか、同じ神の肉体の一部、であり、他人との接し方を考える上で、大切な基本的知識の一部になるんじゃないか、と自分は思う。

この文章を読んでいただいたって、僕は一円も請求しない。何のためにこんなことを書いているか、と言えば、僕自身が「できることは全てやった」と納得したいだけ、だと思う。それ以上でも、それ以下でもない。

嫌だね、酔っ払いは・・・広げる風呂敷がでかすぎて・・・

逃げます。決めた!

明日の体育祭、やっぱり走るのはやめておきます。今日、準備作業の際に、自治会の他の皆様にお詫びしておこうかと・・・

8:40に出走か?(体育祭の際には「出走」とは言わない?じゃぁ出棺か?)体が全然作れていない。無理そうです。設営を手伝った方用の朝ごはんのオニギリを買い出しして、設営を手伝い、飲み物用意してると、毎年アップする時間がほとんどない。だんだんと毛も薄くなってきたことだし、毛がないのが一番。もとい、怪我がないのが一番。無事これ名馬か?

気持ちが負けてる。逃げることを決めた。でも、逃げるは恥だが役に立つ、ってか?

ちょっと気持ちが楽になった。教材書いていても、ずっと引っかかっていたんだもの。

焦りまくり・・・

仕事が順調に・・・捗ってたら、こんなページ書いてないだろうな。

日本語を書く仕事。最初は楽勝じゃん、なんて思ってた。

初めて読む人は「予備知識」がない。知っている前提で書いていたら、読み手には通じない。ところが、何度か読み返していると、「予備知識」がないと、もしかしたら意味が取れない、そんなところが見つかる。書き直す。あ、ここも。結構、泥沼かもしれない。

授業でも時々やってることに、最近気づいてきた。「ここ、もう習ってるよね。」一度習ったからって、覚えているとは限らない。そこに戻る必要がある。問題演習なら戻れる。だけど、カリキュラムがあるなら、砂の上に建物を建てているのを承知で「新しい話題」を展開しなけりゃ、範囲をカバーできない。「教え漏れ」を残したままで国家試験を受けさせるのは、やはりまずい。ジレンマだ。

教材執筆の話。同じような、行きつ戻りつを繰り返していると、なんだかジリジリしてくる。何度も読み返していると、もう、内容の展開から何から、訳が分からなくなってくる。
落ち着け→→俺!

体育祭、雨になってくれと祈ってたのに、今度の日曜日、曇りで実行しそうだな。50歳以上の60メートル走。会計の用事がてんこ盛りだから、時間帯として出られるのはそれくらい。ところが、全く走り込んでいない。土曜日ごとに、夕方とか走ろうとすると雨が降り出す。走れねぇ・・・。すみません、軽く流します、ってことになりそうだ。ちょっと本気になると、足首とか捻りそう。ごめんなさい、準備不足。

3月頃に肺を痛めた。しばらく走れなかった。一ヶ月近く熱っぽくもあって、そんな中で梅の実採集を強行して、三脚から落ちて、首を痛めた。30分とか走っていると、左足が痺れてくる。明らかに筋肉痛じゃない。日常生活には支障はないけれど、やっぱり後遺症、あるみたいだなぁ。しかも、3月から7月頃まで、体調の様子見で、運動量を思いっきり減らしていたから、リバウンドした。結構お腹の脂肪が邪魔。さらに、やはり肺がまだ、回復不十分か。ほんの5km位のジョギングで、何となく酸欠っぽくなってくる。息が上がる訳じゃないんだけれども、明らかに、ワンランク体力が落ちた気がする。

走りたい。でも仕事しなきゃ。あぁ、結果が出てないよぉ!で結局、タバコはやめられそうにないなぁ・・・タバコ、やめたらいいのにと、どなたもおっしゃるけど・・・
落ち着け→俺!

やめときゃいいのに、小川和紙マラソン、また10kmの部、エントリーしてしまった。走れるかなぁ・・・今年は、1時間を切るなんて、絶対無理。とにかく、完走だね。たかが10kmだけれども。どんな形でも、目標がないと同じ走るにしても、やはり違う気がする。
この歳になって、「体力を落とさない」というのがどんなに大変なことか、今年は痛感した。無理したり、強行したりは絶対ダメだよなぁ。

文書起こしにしても、教科書作成にしても、ナメてました。心して掛かります。深呼吸。

いただき物の、インスタントのミルクティーを飲んだ。
こうして言葉にしてみて、ちょっと自分でも頭の整理をしつつ、からの一服。やはり僕には貴重な切り替えの時間だ。

喫煙所撤去

月が変わった。タバコが値上がりした。僕が今吸ってる奴は、30円の値上げ。30円ならまぁね、よしとして。
問題なのは、豊島区の公園内の喫煙所撤去。

昼休みとか、喫煙場所周辺に、非喫煙者っぽい人なんて、誰もいないじゃない。集まってくるのは、他人のことは言えないけれども、疲れ切ったご同胞の方々。だだっ広い公園の隅っこに吸い殻入れがあって、何となく、つかの間の無重力感っていうか、文字通り一息ついていられたのに。撤去か。

24時間連続血圧計の、データ解析ソフトを作っていた頃、何度となく自分の体のデータで解析ソフトのメンテをした。30年前だけれども、僕の体は夜間降圧で午前4時とか午前5時には、最高血圧90mmHg、最低血圧50mmHg、HR45位にまで血圧低下する。一方で、日中喫煙室と往復しながらソフトを書いたりしていると、最高血圧は160、最低血圧は90位にまで上がる。いわゆる、普段のリズムっていう奴で。
それが、業務出張のニューヨーク直行便のフライトで、待合室から到着後まで13時間以上、喫煙できなかった時は、毛細血管が全開だったんだろうな、たぶん、夜間降圧よりも下がって80/40くらいまで血圧が下がっていたと思う。(計らなくても、だいたい体感でわかる。)吐き気もすごかったけれども、意識もぼんやり。頭がぼーっとする、ってな感じで。

毎週火曜日は、たぶん、昼休みも近所の公園は喫煙所撤去だし、周囲に喫煙できる場所がないから、特に昼食後の血圧上昇の反動が出た頃、血圧が下がりまくって、90mmHg/50mmHgとか、80mmHg/40mmHgも覚悟しないと、ってな感じだろうか。水をがぶ飲みしてしのぐか、ってな感じになりそうな気がする。興奮すれば血圧は上がるけれども・・・

ちなみに僕は、安静にして横になっているだけなら、最高血圧70mmHg, 最低血圧40mmHgでも意識は清明でなんの問題も感じない。そう簡単には、意識は落ちないけれども、ただ、これだけニコチンを抜いて、血圧低下で授業をやるってのが、どうなることやら、初体験で・・・ま、なるようになるか。
ニコチン依存症とか、メンタルだけだと思っているんだろうし、特に行政なんて、体の問題なんて全く考えていないんだろうけれども、僕なんかこれだけ長いことタバコを吸ってると、抜けてくると、血圧は特に激しく下がる。行政がそれを無理強いするなら、仕方ない、耐えるか。

なんなんだろう。このキレイキレイな世の中。僕みたいに、タバコは吸うわ、酒は飲むわ、ってな人間は、人間のクズだとでも思っているんだろうか。そういう決めつけをするあなた方が、どれだけ綺麗な心をしているのか、なんてことは言いたい。ほら、今あなたは、こう思ったでしょう、なんてことを、思ったそばから言葉にして突きつけて、ほら、あなたの心なんて、他人を見下して、不安だらけで、偉そうに誰かをいたぶることで快感を感じているだけでしょう、なんて、意識した言葉をそのまま突きつけて、本気の喧嘩を売りたい衝動に駆られる。いや、そんなことが、もしもできたらいいな、ってな話だけれども。できないことを妄想しても、仕方ないな。

特に苦しかったのが、盗聴だの盗撮だのに悩まされていた頃。訳も分からない、私生活を根こそぎ表に出された。メニエルで左耳は聞こえなくなった。あれ、仕掛けたのは行政だろう?公安調査庁か?それとも、面白半分に根こそぎ表に流したマスコミか?絶対に、どっちか、あるいは両方だ。平気で悪いことするのは行政じゃないか?耐えたよ。普通に日常を暮らした。親友だと思っていた奴はクソみたいに常識的に人を見下してくるし、酒とタバコと、他に何が頼れたんだと、僕は今でも思う。

息苦しい世の中だ。ますます、東京なんて、台風に吹き飛ばされてしまえ、地震で潰れてしまえ、ってな気分になってくる。覚悟を決めて耐えるけど、最近、面倒臭くなってる。

ささやかな、くつろぎの場所が、なくなる。

もし僕が低血圧で倒れたなら、救急車は呼ばずに、タバコをその場で一服させてくれたら、30秒で復活すると思います。