各論

臨床工学については、僕はアマチュアだったのかもしれない。
内山明彦教授の下で、臨床工学を専攻していたと言っても支障はないと思うけれども、文部省の届け出上は「電子工学専攻」だった。僕が卒業してから「臨床工学技士」の資格ができて、内山先生などが資格設立に関与されて、まだ「体系化」はされていなかったと思う。勉強したって言っても、随分と不完全だった。だから、最低限仕事をするのに必要な程度は「門前の小僧習わぬ経を読む」で、医学についてもそこそこ、いい加減な知識は持っていたけれども、医学だって無論基礎をきちんと学んだ訳じゃない。

逆説的だけれども、だからこそ、いざ「臨床工学」で教えることになった時、必死になって体系的に把握しようとして勉強し直して、その「学んだ」プロセスを学生に教えられる。点を見つけて、点と点をつなげて、線にする部分を教えられる。その線と線とで囲み込んで、面を作る。そうなると、この科目は完璧、みたいに思わせることもできる。この分野については、学生が本気である限りは、ある程度教えることには自信がある。

そして、プログラミングはどうか、と言うと、どちらかと言えば、気がつけばプログラムが仕上がっている、そんな感じでもう、40年近くプログラムを書いて来た。最初にFORTRANのプログラムを覚えたのは17才の時だったから、40年を過ぎたか。で、一番「何でも思い通りに動いた」頃、20才代の頃は、ほとんど考えずに、直感的にイメージしたものが、勝手に指が動いて入力されていて、一気に書き上げる感じで、場合によっては30時間とかで一気に1万行とか、訳のわからない書き方をしていた。(今はもう、当時の10分の1も、パフォーマンスが出せない。)仕事にするには、この分野がたぶん一番僕には向いていた。ただ、サラリーマンになってしまうと、「余計なこと」が多過ぎて、プログラムを書くことだけに専念できる訳でもなく、それだけでパフォーマンスはやはり10分の一以下には落ちたかもしれない。(いや、その「余計なこと」が「仕事」にはとても大切だ、と、後になってから痛感したけれども・・・)

ところが、いざ、情報科学部で教えるとなると、「理論的」な基礎はないし、苦しんでプログラミングしている訳じゃないから、「教える」こと自体が非常に苦手で、「わかった!」に辿り着くまでのプロセスをうまく説明しきれない。この壁、結構厚い。実はいま、「教科書」を書いていて、9割方書き上げているのだけれども、校正のところで、もんどりうってる。伝わるかどうか、全く自信がない。伝わらなくても、教科書にはなるんだろうけれども・・・そんな悩みを抱える、今日、この頃。

師匠の講演会。例え話が難し過ぎて、なかなか答えが出せないけれども、いざ種明かしを聞いてみると「各論」が非常に多い。すごく具体的。

正しく生きなさい、清く生きなさい、どの宗教でもそんな感じなんだろうけれども、師匠の「講演」は、何も知らずに参加したら、「雑談」にしか思えない。テーマによっては「この部分を、こう解くんだよ」と言う解説が後からあるから、なるほどと、理解できるけれども、「総論」と言うよりも「各論」。直接「答え」を教えずに「例え話」しか講演でされないのは、「自分で答えを出すプロセスを経験させるため」だと、今は理解している。答えだけ教えてもらったら、肉体を抜けたらもう、次には役立てられないだろうし。

この「各論」を自分に当てはめてみると、ケースバイケースで、結構自分を変えるための役には立っているんだろうと思う。(結果を出せていないから、何とも言えないけれども・・・)15年前の僕と、今の僕が、もし「変わった」と言って下さる方がいらっしゃるなら、それは一つの「結果」かも知れない。けれど。

他人をリスペクトしながら生きる。「総論」としてはわかりやすいけれども、いざ「各論」になると、なかなか簡単じゃない。その「各論」部分に具体的なヒントを出してもらえる「宗教」は、自分があちこち顔出しした限りでは、なかった。実は、トラディショナルな宗教にも、いわゆる新興宗教にも、結構顔出ししたことがあったけれども、3回以上足を運んだのは一つもなかった。具体名は書きません。なんだか「綺麗ごと」ばっかりで、具体性に乏しい。
なんて言うんだろうか。仕事でいえば、売り上げ目標だとか、スローガンだとか、そんなことは口にするけれども、実際に具体的にどうするかについては一言も説明がない、実務能力が皆無、みたいな上司というか、とても、ついていく気になれない、そんな宗教ばかりだった気がする。
いや、ね、私に実務能力があるかどうかは、あくまでも例え話だから、そこのところは忘れてください。

結構、大変な話だ。新興宗教なんかよりも、「実用書」の方が役に立つと思えることもあるけれども、ただ、基本的に「人の実体は霊体だ」というのが根っこのところにあって、その上で、相手の意識(霊体そのもの)にどうやって働きかけるか、平たく言えば、「心を動かす」っていうんだろうか。そのための「勉強会」っていうんだろうか。僕にとっては、師匠と出会ったのは、(もしかしたら、僕は、師匠のチンドン屋を買って出るつもりで肉体を持った、かもしれないというのは、別にして、)やはり、良かったという気がしている。

ふと、そんなことを考えては見たんだけれども・・・

今僕が直面する「各論」的な課題は、プログラミングで、「そうか、わかった!」という導入を、どうやるか、なんだろうか。
「このやり方を、真似してみなさい」そして「こういう考え方で、自分のやり方で作ってみなさい」なんていう、そればかりだ、というのが、どうにも釈然としない。共著者の先生、というか、シラバスの原型を作ってくださった先生には、「小林流でいいんじゃないか」なんて、おっしゃっていただいたんだけれども・・・

ゴール目前で、なぜ、二の足を踏む?この残尿感、なんとかならんものか、と思いながら、今日も残り3時間を切った。

結局、各論っていうのは、方向性だけ示してもらって、一人一人が自分で試して、その人自身の個性で掴み取るしか、方策はないのかも知れない。だから、例えば5次元から6次元に上がる、なんていうのに、何万回も肉体を持って、他者を尊重することが意識体として当然のこととなり、「神」の実在を確信できないと、上がれない、そういうことなんだろうと自分は理解する。この「意識体のエネルギーレベル」の話、なんていうのも、いわゆる「宗教」では、誰も説かれていない気がする。あの人と、この人とでは、明らかにエネルギーが違う、なんてことは、洋の東西を問わず、誰もが感じることだと思うのに、「人は皆同じ」っていうのが前提になってる。そこが、自分には、師匠の講演で初めて「腑に落ちた」部分だった。脳に蓄えた知識は、死んだら消える、ってのに、「試験」を課す宗教もあるらしい。肉体の中身、魂を相手にしていない宗教は、肉体を抜けたら役に立たない。
なんども試行錯誤を重ねて、「意識」の中に定着した時に、初めて人は進化できる。そう自分は理解している。ましてや、6次元から7次元に上がる、なんて言ったら、今回は野球選手で頂点を極めました、今回は医者で頂点を極めました、それを繰り返して「まんべんなく」意識の中に「経験」を刻み込んでから、なんていうことだと自分は理解しているから、大変な騒ぎだ。それで、せっかく一つの分野で頂点にたどり着いても、そこでパワハラなんかやらかして、一気に落ちて、また4次元あたりからやり直す、なんてこともあるんだろうな 。偉くなったとたんに器が小さくなる人、みたいな。
「各論」の蓄積、ってのが、実は、師匠の講演内容を、今は、直接自分の仕事に活用できる、状況なのかも知れない。

なんて、今僕は、どっちの話題を書いているんだろうか。教科書の話か?師匠の講演会の話か?

こうやって、両方が入り乱れてしまって、意識が分散してしまうのが、やはり今の僕の、最大の「難問」かも知れない。いいや、考えるのが面倒くさい。両方引きずったまま、前へ進む。

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