人工知能考

今日僕は、手袋を失くした。
大人になってから使い続けていた、二つ目の手袋だった。

子供の頃、親に編んでもらった毛糸の手袋は、なんとなくデザインも覚えているけれども、いつ頃どうやって失くしたのか、あるいは、使わなくなって親がいつどうやって捨てたのか、思い出せないし、わからない。中学校時代は、軍手を手袋にしていた。大した防寒効果はなかった。高校時代は、親に買ってもらった黒い革の手袋を使っていた記憶がある。
確か、大学の1年か2年の時に、サークルの部室で同じサークルの仲間のK君が、アルバイト先に「友達に売ってくれ」とノルマで押し付けられたとかで、当時で800円くらいだったかな、手袋をいくつかテーブルの上に並べて、「買ってよ」とかいう感じで、せがまれた。わかったと、一つを買った。軍手とは比べものにならないくらい暖かかった。これが、僕の記憶にある、自分で買った最初の手袋だったと思う。

これをいつ頃、どんな風に失くしたのか、思い出せない。そして、次の手袋をいつ頃買ったのかも思い出せないけれども、社会人になってから、4年目(転職した後)には、2回目の手袋を買って使っていたと思う。それ以来だから、たぶん最低でも30年以上は使っていた手袋だったと思う。そいつを今日失くした。
冬しか使わないし、定期的には洗っていたから、見た目は全然古びていなかった。それを僕は今日、脇の下に挟んで歩いていて駅のホームで落としたか、トイレに置き忘れたか、とにかく、気付いた時には失くしていた。
今、結構、切ない思いが自分の中にある。
で、表題は「人工知能考」なのに、なんで手袋の話?って、まぁ、そう急かないでください。

このストーリーを、人工知能が理解できるか?いや、それもない訳じゃないけれども、全然本論には、擦りません。確かに、たったこれだけのストーリーから、「切なさ」を人工知能に理解させられるか、類似の事例をどれほど学習させても、たぶん、わかってはもらえないと思う。ヒトだったら、Ass Holeみたいな金持ちのボンボンは別にして、わかってくれる人も、人工知能よりは多いかな、ってな程度の期待感で、そんな程度の話の枕だから、今日の話題の本質ではないです。大切な伏線だけれども。(で、ほとんどの場合、話の枕を口にしたところで、黙れ、関係ない話をするな、とか、止められる。だから、WEBが好きなんですが。)

ここは明らかな脱線。たぶん、小学校高学年の頃か中学の頃、傘を置き忘れてどこかに失くしたことがあった。親父に激怒された。親父の学生時代の話をされた。親父が弁当箱を電車の中に置き忘れて帰ったら、おじいちゃんが親父に怒って、「そんなに、ものを大切にしない奴は、うちの子じゃない、なんちゃらかんちゃら。とにかく探してこい!」と駅に行かされて、(見つかったかどうかは覚えていないけれども、)散々な目に遭った、という話を聞かされた。その後すぐに親に買ってもらった新しい傘には、20m先からでも読めるほどの馬鹿でかい文字で、傘の(裏ではなく)表に僕の名前を書かれた。傘を広げると、何ポイントだろうか、一文字の一辺が楽に10cm位はあるでっかい文字で、僕の名前が書いてある。これはとにかく、雨が降った時に差して持ち歩くのが恥ずかしかった。拷問みたいな気もした。親父は、実は中身がAIだったのか、「どうだ、これなら絶対に失くさないだろう。安心だろう。」と、こっちの恥ずかしさなんて果たして理解していたんだか、なんだか。
これ以来、ほとんど公共の場での「忘れ物」はしなくなった。(かなりでっかいのも含めて、ない訳じゃないけど。)おかげさまで、手袋をなくしたのは、これが40年間で2回目。傘だって、25年目の傘をまだ現役で使ってる。ほとんどモノを失くさない分、ダメージが大きい。以上、脱線終わり。話を本題に戻す。

今日、法政大で内村先生にAIの話を振った。東洋経済のニュース配信で、「人事考課制度をAIに任せた失敗談
」的な記事が流れていて、Amazonでの話題を持ち出した。AIに任せたら、やたらと男性を登用するようなAIの判断が出てきたそうな。そりゃそうでしょ。「学習データ」を忠実に再現する訳だから。どこぞの会社では、やたらと保守的な人材ばかりを登用するような判断をして、リスクを冒して新規ビジネスに挑戦するような人材は、全くAIに拾われなくなった、みたいな感じの内容もあった。
内村先生に、今日の授業教材、学生のレポート(今日は発表会だったらしい)の、学生配布用のプレゼン資料のコピーをもらった。そうか。僕が4限目にPythonのプログラミング演習のコマを持つ前、3限目には同じ学生たちが内村先生の授業を受けていたのか。採点したばかりのレポートの名前を、幾つも見つけた。いや、AIのなんたるかをわかっていないな、なんていうレポートもあったけれども、考え方としては否定はしない。勉強中だもの、もっと勉強しようね、という感じだろうか。そんな中に、MicrosoftやFacebookでのAIの失敗事例を引用していた学生もいた。そうだね。あの話題なんか、結構笑えた。無理でしょ、と思っていたけれども。AIにヒトは理解できない。僕はそう思っている。
ヒトを理解できないまでも、何十年か先にはヒトに近い判断をさせることはできるかも知れないけれども、実用化するのに必要な「理想的な学習用データ」を用意できる場面なんて、ほとんどないだろうとも思う。だから、やたらと男性ばかりを登用したり、やたらと保守的な人間ばかりが昇進させられるような判断しかAIにはできない。
最低でも、きちんとした意味付けを提供された7層から10層程度の学習レイヤーを完璧にモデル化し、かつその完全な学習教材データを提示できなければ、(たぶん、物理空間の認識、意味、価値、価値を付与する主体の分析、効果、相手側主体の対象理解、そして感情などの)中間的具象認識の学習が、その業界ごとに定義させられなければ、実用化は無理だと僕は思う。そもそも、モデル化そのものが困難な具象ばかりだとも思う。それほどの期待値がないならば、そこそこの結果は出せるとは思うが。

話題が、かなり「表題」に近づいたけれども、これも本論じゃない。続ける。

だったら、アイボとか、ヒト型ロボットなどが「独居高齢者」なんかの「話し相手」として重宝されているのは、なぜなんでしょうね、という話題。ここからが本題。

僕は、30年近く愛用していた手袋を失くして、やはりなんというか、喪失感というか、自分の体の一部分を失くしたようなそんな感覚がある。「価値」って、そりゃ、僕のことだから、買った時の値段なんて、千円そこそこだったと思う。いや、バブル期だったから、2千円くらいのを買ったかも知れない。だけど、値段ではなくて、ずっと僕自身と一緒にいてくれた、そこに僕はたぶん、感情移入している。
自分の体の一部、って、そもそも、僕自身の肉体は、僕がこの世界で活動するための道具であって、それが僕自身っていう訳ではない、と理解している。(この部分は、相当に異論がありそうだけれども・・・)「人の実体は、意識体」それが、今僕がたどり着いた結論で、そうは言いつつ、この肉体がなければ「僕」という人格がこの世界に存在することができない、大切な道具だから、限界まで使いたい。自分自身の体に対する「思い」と、自分自身が使っていた道具に対する「思い」と、どれほど大きな差があるか、というならば、実は「延長線上」でしかない、そんな感覚も持った。

例えば、アイボを「愛犬」のように大切にする、その感覚はどこから来るんだろうか。少なくとも、仮にAIがヒトを理解できなくても、ヒトは「人工物」に対して感情移入して、それが生き物であるかのように、あるいは、自分自身の一部であるかのように認識し、そして扱うことができる。ヒト自身がそうした感覚を持つことによって、ヒトがAIに歩み寄ることはできても、AIの側がヒトに歩み寄ることはまずできないだろうという気がした。

AIが人の仕事を奪う?そうかなぁ。AIが「やらかしたチョンボ」を、人が尻拭いするために、かえって人手がかかる、まだまだ10年近くはそうした状況が続きそうな気がする。ヒトが、過度な期待を寄せて、なおかつ、AIに対して擬人化した感情移入をしているからこそ、AI元年なんていう表現が出てくる。「元年」って、僕らに言わせれば、第3波到来、だと思う。「僕ら」と書いた。今日内村先生ともお話させていただいたけれども、僕らは、かつて「鉄腕アトム」のようなロボットを、いつか作りたい、と思って、コンピュータに興味を持った。僕の場合には、それが、石森章太郎のサイボーグ009で、サイボーグ(生体工学)の方にシフトして来たけれども、人工知能への興味は「神経回路網」の頃から全く失っていない。そして、俯瞰していると、時々ブームが来ただけであり、「要素技術」に多少の進歩があったにせよ、本質的には何一つ学問的な進捗はないんじゃないの?というのが、個人的な見解である。ヒトが、勝手に、そうした錯覚をしているだけ。そう、ここが本論です。長ったらしい枕を読まさせて、どうもすみませんでした。

今年一年、随分と、老いを感じることがあった。こんな、長いこと使ってきたものを簡単に失くす、なんていうのもそうだし、そもそも、今年の2月、3月は、肺炎ぽい症状を起こして、5月くらいまで肺が荒れていた。そのあとは、不注意にも三脚から落ちて、頚椎を痛めて、ここに来てようやっと左足の痺れが取れかけて来た程度の回復の遅さ。自覚はしている。生きていること自体に、これまで感じて来た強烈な「義務感」が急速に薄れている、それははっきりと感じている。

盗聴だの盗撮だの、散々な目に遭った。国家権力だのマスコミだの、個人の人格権なんてほとんど気にしてなんていないひどい時代だった。リークされた私生活を見ているはずの「識者」も、「見られるような生き方をしている」私の方が悪いような扱いを受けていた(そういう描かれ方をした)気がした。そして、確かに僕は、そこに便乗して、ただひたすら書き続けて来たけれども、このページのバックナンバーにいくつか書いた、それを一人でも多くの人に読んでもらうことが、僕の生きて来た目標の一つだった、だからこそ、この状況に耐え切れたのかも知れないと思った。ようやっと、このページを書いた、あるいは、その前のいくつかの「渾身のページ」書いた、その時点で、頑張って生きなきゃ、というモチベーションが急速に衰えた。その挙句、肺炎になったり、注意力が散漫になったりした。やはり僕は、ここから先数年以内に「いつ死んでも構わない状態」にまで、身辺整理をして、学会も全部やめて、家の中の荷物を全部片付けて、綺麗サッパリと後を濁さずに、次に備えたい、そんなことも強く感じるようになった。
僕に「ハンドパワー」があるか?って?なんだか、そんな話があったような、なかったような。答えですが、もし僕が本気になったら、結構不思議なことが出来ることもあるし、出来ないこともある。それだけ。出来たとしたなら、それは、こうしたページを一人でも多くの人に読んでいただくために、「人目に付くことが必要」という状況に置かれたから、というだけだと思う。人間の実体は霊だ、と、それだけ多くの方にご理解いただいたなら、僕の役目はそれでもう十分過ぎるくらい果たした気がする。(が、目を通してもらっても理解してはもらえていない気もするから、書きっ放しで逃げるには、まだ早そうだ。)こういう「義務感」がない分、宗教屋は楽そうで、羨ましい。
IEEEも生体医工学会も含めて、学会をやめたり、身辺整理をすること自体はもうその流れに乗っているけれども、あとは身軽になって、残りは、どうしようか、それは書かないけれども、今は多少の生きるモチベーションは持ち直しています。老いるということはそういうことなのかも知れない。老いを意識する前、あるいは、意識してしまった後、その両方を含めて、こうした「生きる」ということへの感覚をAIが理解できるか。ここがそもそも、無理であって、だとしたら当然AIにヒトを理解することはできないと、僕は思っている。そもそも、たったの一言「生きる」という言葉の意味を、AIが「理解」出来るとは思えない。それで会話が成立すると思っていたAI研究者が、浅はかなんだろうと僕は思う。

「ヒトの実体」は「意識を持ったエネルギー体」という、ようやっと伝えるべきたった一言の「核心部分」に辿り着いて、それを言葉にして、なおかつ、その「知識」に基づいて書くならば、AIはそもそも、自分自身の「肉体」すらも「意識」できていないし、さらに、「ヒト」が機械に入り込むこともできないと理解する。「ヒト」がAIを「人型ロボット」としてあたかもヒトであるかのように錯覚することはできるとしても、AIの側がヒトになることはあり得ない。ということは、「ヒトの側が錯覚しさえすれば済む程度の役割」は果たせても、本質的にヒトの機能を置き換えるまでに進化することはない、と私は考える。いや、「補佐」はできると思うけれども、それは「コンピュータ」がやっている仕事の延長に過ぎないと、私は考える。学生のレポートを読んでいて思った。「手続き型プログラム」による「コンピュータ」の仕事と、「人工知能」の違いを、さすがに学部の1年生には理解できないかな。その同じ誤解を、新聞記者なども結構やっている気がする。ヒトが普通に行なっている「認知」処理を、いわゆる「AIの開発者」が「ヒト」における重要な要素だと認識していない以上、AIが、一昔前にブームになった「ファジー推論マシン」の延長を抜け出すことはない、と私は考えた。
私のは単なるブログだけれども、多少は「かつては学術分野に足を置いた」程度の書き方をするならば、ここが本題、ということになるだろうか。

話の枕の延長。今日僕は、手袋を失くして、2時間も経たないうちに、なんとなく寂しくなって、駅前のコンビニで「大人になって3回目の手袋の買い物」をした。千円しなかったけれども、いつまで失くさずに使えるか。死ぬまでか、それとも案外、年内とか、どちらかはわからないけれども、失くした喪失感を捨てるべく、新しいのを手に入れて、頭を切り替えることにした。

もしかしたら、「あ、失くした」と気づいた時点で、最終的には大学まで、帰り道を逆に辿って、駅のホームやトイレ、道路などを探せば、あの30年来使って来た手袋にまた会えたかも知れない。だけど、ちょっと考えて、「いいや、次に行こう」と思った。確かに、僕自身の皮膚の一部みたいに使って来た手袋だったけれども、逆に言えば、僕の体だって、時間の問題で「消費期限」が過ぎる。そうなった時に、執着せずに捨てる感覚の「慣れ」は、そろそろ必要かな、とも思った。常に「次」を考えたい。だから、あえて、「ごめん、さようなら、これまでありがとう」と、ひたすらその手袋にお別れの思いを念じた。でも、そう遠くないうちに、同じ思いを僕自身の肉体に伝えることになる、そういうこともあるんだろう。意識を切り替えて、「次にどうするか」考えて、モノへの執着は捨てようと、あえてその「学習課題」だと考えることにした。

でもなぁ。あの手袋くん。今頃、道路ぎわのどこかで、冷たくて寒い思いをしているとしたら、ごめんね、手袋くん、なんてことも、やっぱりちょっと、思ったりなんかしている。

こんな感覚、理解できるAIなんて、ないだろうな。