人間原理

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宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論 (講談社現代新書)(Kindle) – 青木薫著

一言で言えば、あらゆる物理定数は、ほんのわずかでも異なる値を取ったならバランスが崩れて、我々人類は生存できない。と。ここまでは、普通に物理学で結論できるとして、問題はその先か。

だから、この宇宙は、我々人類が生存できるように創造された、と言えるかどうか。ここで議論が分かれている。でも、私自身の立場で言えば、いい傾向のように思う。昔だったら、「そんなことあり得ない」、「そんなの偶然だ」の一言で片付けられていた。創造主などいるはずがない、と。

ただ、ざっくりと「物理係数」と言ったって、ほぼ全てに「無限の桁数」があって、我々が測定可能なのは、せいぜい10桁とか20桁であり、その下の50桁下、60桁で、「わずかに数値が狂っただけで、我々は生存できない」状況は変わらないと、私は理解する。

わかりやすい反論で、こんなのがあった。

人間原理は面白いんだけど、私達が存在するのだから、存在できる物理定数になっているのはあたりまえで、存在できるようにする為に、物理定数が決まった訳ではないと思う。

つまり、偶然だと言いたいんだろうな。

この例え話は何度も持ち出しているけれども、0と1を乱数で生成させて、それを並べてコンピュータのプログラムに仕立てたとする。それが「会計ソフト」とか、「ドラクエ」とか、それなりに意味のあるプログラムになる確率は、どんな数字だと思うだろうか。
言い換えたなら、

「ドラクエ」というゲームが存在するのだから、意味のあるプログラムが出来上がっている事実がある訳で、誰かがプログラムを書いた結果としてそれが出来上がった訳じゃないと思う。

と言っているに等しいと、私は思う。この論法が通じたら、いいかも。
「あの人の財布が私のポケットにある」のは、「偶然飛び込んで来たから」で、私が取った訳じゃありません。とか、「あの人の答案と、私の答案が、綴りミスまで間違え方が一緒なのは偶然で」・・・
やめとこ。キリがない。それに、「いい例」が何一つとして思い浮かばない。

ちょっと検索してみたら、この「人間原理」は1990年頃に書籍が出版されていたらしく、現在に至ってはかなり真面目に取り上げられているようで、喜ばしい。
面白い表現も見つけた。「物理学はゴキブリと人を区別しない。」そうだよなぁ。「生命体」という意味で言うならば、おそらく創造主もゴキブリと人を区別してない、と思う。

ただ「生命体」ではなくて「ヒトという生命体」と言う表現にした時には、間違いなく、ヒトだけは別扱いになっていると、自分は理解する。その「別扱い」とは、「ヒトだけが可愛い」と言うよりも、「ヒトが創造主を理解しようとしないならば、存在させても意味がない、わざわざヒトとして創造した意味がない」と言う判断を下される、と言う理解に基づいての「別扱い」だと、自分は理解している。求められているものが違うから、それだけ厳しい扱いを受ける。自分はそう理解する。何としても、私自身が巻き添え(※1)を食わないために、絶対に万人に理解して欲しいのは、ただこの段落だけ。

神などいるはずがない、創造主などいるはずがない、人は偶然発生した。この宇宙の物理定数も偶然。確率を考えて欲しい気がするが、たったの一個体くらいは、どれほど確率が低くても「偶然出来る」可能性もゼロではない、と思うが、無性生殖から有性生殖に進化した後、その「種」が成立するためには、今度は近い場所でその「偶然」が2個体分起きなければならない、として、その確率はどの程度なんだろうか。

ランダムに0/1を生成させて、それがドラクエのプログラムになる確率を誰か計算してみませんか?初期のファミコンだとすると、メモリ容量も限られているから、ソースからコンパイルしたバイナリのサイズで、キャラクタのデータも含めてざっくりと300キロバイト程度、と仮定する。(たぶん、そんなもんじゃないかな。)ビットにすると2.4メガビット、と言うことは、2の2400000乗かな?ざっくりと、2の10乗を10の3乗で計算したら、10の720000乗の組合せ。つまり、10の後に0(ゼロ)を72万個並べたくらいの回数、ランダムに0/1を生成させて、それをプログラムにした時に、確かにそれがドラクエのプログラムになる、と言う確率はゼロではなく存在する。(計算、あってるかな?)1の後に0が72万個並ぶ回数、って、誰か想像できる?(言っときますが、72万回じゃなくて、1の後に0が72万個並ぶ回数、ですから。たかだか72万回だったら、生物学者や無神論者のあなたなら、簡単にやっちゃうでしょうけど。)想像できたとして、実際にそれを試す気になる?偶然、そんなことが起きると思う?

はっきり言って、生物学者も、無神論者も、こうした「偶然」を当たり前のように信じている。その感覚が、僕には信じられない。
とは思うが、こうしてまともな物理学が、こうした話題を取り上げてくれることが、嬉しい。
無論、学問分野であり、自然科学であるから、それが即、「創造主」の実在を証明することにはならない。
その先に進むには、たぶん「霊体」を実際に存在するものとして知覚できる人の存在は不可欠、なんだけれども、地縛霊とか浮遊霊とか悪霊とか、そんなのばかり知覚できても、あまり嬉しい結果にはならなくて、例えば、キュリー夫妻だとか、ボーアさんだとか、そう言った方々の「意識」をクリアに受け取れる人(相当に心に汚れがなくて、一切の欲がない、そういう人でないと無理だとは思うけれども)がいなければ、先へは進めないんだろうかな、なんてことは思う。
どなたかフォン・ノイマンさんの意識を受け取って、コンピュータ屋を唸らせるような霊媒さんって、いませんかね?そう、いないんだろうな。だから、「霊」なんて存在しない、っていう方向に行っちゃう。

あるいは、別の選択肢として、目の前で現実に起きたことをただ単純に信じるだけ、でもいいんだろうけれども、(私なんかは、そのクチだけれど、)それで信じることはできる、はず、なんだけれど・・・(私は、単細胞ですからね。)仮に、現在にモーゼが現れて、現実に海を割って見せても、どんなトリックだ?どんな集団催眠だ、って、たぶん、そっちに行っちゃう。素直に自分を信じられる人は、救われるべき存在なのかもしれない。
実際に、周囲の人と(あまり深入りしない程度に会話をしていて)神という単語を出した途端に、「あ、シューキョーだ」と拒絶反応を示されることが多い。「創造主」の存在を肯定することは、そんなにも忌むべきことなのかね?いや、日本の場合「国家神道」が「戦争邁進」の一つの要因になったことは否めないから、その拒否反応もわからなくもないけれども、(あ、最近ではオウム真理教、とか、か。今でもあるなぁ、新興宗教。)
そういう宗教関係者に勧誘されて、金を払えって言われたら、「あんた、神様みたいな存在なら、競馬でも宝くじでも当てて、自分で稼いだら」って突き放したらいいだけ、だと私は思うんだが。そういう新興宗教が、「創造主の存在の容認」の障害になっているんだろうか。

ヒトのDNAの塩基配列は、いくつ?で、類人猿のDNAの塩基配列は、いくつ?
ミッシング・リングなんていう話題もあったけれども、それでは、サルが偶然ヒトに進化するために、仮に50回に1回の割合で、放射線などによる偶然のDNAの書き換えが起きる、と仮定し、さてサルの個体数は何体必要で、出産は一体何回必要なのか、かつ、そうして生まれた「ヒト」が、同時に配偶者となる「ヒト」も、同じ群れの中で生成する、その確率は、どの程度なんだろうか。
確率的に意味のある、そのサルの群れの個体数が、例えば10万体であり、猿が一人の「ヒト」を偶然1回出産するための出産回数が「100万回」程度であるならば、まだ現実的に可能性として考えられる、と思う。
ただ、DNA塩基の書き換えで「意味のある書き換え」とならず、要するに、生まれた子供が奇形として死ぬのではなく、「偶然の進化」で、たった一つの形質だけでも「優れたもの」となる、そうした「書き換え」が起きて、なおかつ、それが、サルからヒトになるために必要な「特徴」すべての「書き換え」を網羅するためには、サルの群れの個体数が何体必要で、何回のセックスと出産が必要か、もしその個体数が数十億を超えたり、セックスや出産の回数が数兆回を超えたとしたなら、それだけで、ダーウィンの進化論は「否定」されるべき、だとは、思いませんか?

かなり、ざっくりとした議論ですが。


※1:脚注です。(脚注の方が、本文より長かったりして・・・)
巻き添え、って、上位の意識体は、下位の意識体の個体を個別に知覚するのは難しい、と、ある方(師匠とずっと書いている方)に聞いている。地球という意識体は、ヒトの一人一人を区別して知覚できない。それはちょうど、私たちが「癌の切除手術」を受ける際に、「癌細胞の塊」とする中に、十何%かの正常細胞があっても、それは「癌」でしかない、という扱いをするのと同じ、だと理解する。放射能に汚染された土壌を剥ぎ取る。実際には放射性物質などコンマ数%%(PPMの単位)でしかその土壌の体積中に含まれていない、としても、その一体すべての土壌を剥ぎ取る。鶏のインフルエンザに感染した数羽の鶏がいただけで、鶏舎を丸ごと「除染」する。それと同じことを、地球意識などの上位の意識体は行い、程度が軽ければ、アトランティス大陸を沈める、程度で済むところが、いざとなったら、というそういう話題。これが「巻き添え」と私が書いた意味です。

池袋の街頭で「神は万人を愛されています」なんて、拡声器で叫ばれている方々、偉いと思うよ。ただ、問題は、そんな言葉に耳を傾けようとも思わない、置き引きとか、スリとか、あるいは、「私はまともな社会人です」的な顔をして、宴会のために池袋を歩いている人の中でも、実は会社の金をチョロまかしてるような人は、いくらだっている。イエス様はともかく、その上位の「神」は、それらすべてを「汚れた意識体」として認識され、(人間的な言葉で言えば)我慢の限界を超えた時に、従来通りの軽い措置で済むなら、ボンペイのように、というか、局地的に「切除術」を施されるだけで済むのに、「全てを消してリセット」となるのが、怖いと私は思う。

アメリカの映画なんか見ていると、「神」が悪役になっていて、人類を平然と殺そうとして、それに立ち向かう「主役」が、実は(おそらく)神の視点では平気で「悪い」ことをする、だけども、「ほんのちょっとだけ」いいところもあって、共感を得るようなキャラで、映画としてはメデタシ、メデタシ、そんなのが多い。「人間は不完全な存在だ」と、その「容認」は悪いことじゃない。僕なんかだって、「悪いこと」は随分やってる。(当然、自覚しているから、落ちるところには落ちる。)だけど、だからと言って、「神」を「悪役」ってどうなのさ、って思う。癌化した細胞一個が、その持ち主であるヒトを悪役として描写しようとしている、そういう比喩に私は感じる。やめてくれ、と思う。頼むから、師匠、そういう映画は見ないで下さい、とも思う。

「あなたはー、かみをー、しんじますかー」なんて街頭で叫んでいる暇があるなら、たった一人でもいいから、自分の隣人が、「殺す」なんてのは稀だろうけれども、「奪う」とか、「貪る」とか、いいや、欲にまみれて欲しいものを買いまくる、なんてのは(私個人は)容認するとしても、他人に迷惑をかける行為だけは、力任せでも止めてみろ、と思う。
「信徒」をいくら増やしたって、イエス様は喜ばない。そうじゃない。信徒が増えて喜んでるのは、その金で生活している教会だけでしょ?違うか?奪わない、殺さない、貪らない、そういう人が一人でも増えれば、あの方(イエス様)は喜ばれる。街頭演説している暇があるなら、自分の家族でも知人でも友人でも、たったの一人でもいいから、そういう行動が間違っていると止めてみろ、と思う。その思いが同じなのは、イエス(アモール)様だけじゃなく、モーゼ(モーリア)様も、アッラー(アール・エル・ランティ)様も、どなたも同じかな、と思う。
わかってない人が多いんだから。金が欲しいから、「信者」を一人でも増やそうとして、連れ込んで、手篭めにして、じゃなかった、金を払わせて、自分だけはいい思いをする。最悪じゃん。欲にまみれているだけ。
そうじゃない、「神を信じて」何か行動しようとするなら、たった一人でもいいから、自分の周囲で、殺すとか、会社の金の横領だとか、「欲に竿した行動」を止めるように、自発的に動いてみたら、なんてことを、私は思っている。いや、考えている、というよりも、おそらくだけれども、「たったそれだけのことができないような奴の、願い事なんか、聞いてやるか」と思いながら、神社だか、お寺だか、教会だか、モスクだか、わからんけども、「駐在業務」をこなした経験は、あったかな、なんてことは結構感じてる。

あれね、霊体として宗教施設に「駐在」した経験を思い出せる人は少数派だと思うけれども(いや、これまで知り合った中でも、結構いるはずだけれども)、学校の先生として学生/生徒に教える経験をした人は、必ずしも少なくはないと思う。どうでしょうね、日常会話ではなく、成績とか評価に関する部分で、生徒/学生の嘘を真に受けたか、おかしいと感じられたか。
私ら下っ端の霊体だとしても、嘘は結構見抜けるものだと思う。嘘つくな、って。私ら下っ端は騙されたとしたって、上(の人格霊の方々)はかなり見抜いている。キリスト教で、「懺悔」したらすべて許される、って、それって、「交通安全のお札」と一緒。違反したって、切符は切られませんよ、って、そんなはず、あるかいな。全部バレとって、全部ツケを払わされるわな。って、なんだか関西弁にシフトしている。なんで?嘘とか、悪行とか、誤魔化しとか、そういうものに、「迂回ルート」なんて存在しない、っていうことを、是非、知っておいて欲しい。

霊体さんに現金を差し出したら、罪が許される、って、そういうのを普通に信じちゃう人が、少なくないんだよなぁ。だって、学者だって、1の後の数十万、数百万のゼロが連なる確率の現象が、簡単にホイホイ起きているって信じている、そういう、僕には理解プロセスが理解できない世界。殺すな、って言っても、無駄なのかも。安易な思い込みの強さ。厳しさの欠落。どうでもいい、何をどうやりたいように、誰が何をしようが文句は言わないけれども、とにかく、巻き添えは嫌だ。(ついしばらく前に見た、ハリウッド映画の設定のバカバカしさに、力が抜けた。これが「全米大ヒット」って、どんなバカが見てるのかと思うしかなかった。)

せめてクリスマスくらいは、人類(厳密には、人の意識体)が神によって「創造」された存在だと、知覚して欲しいな、と思う。ヒトも、肉体はね、物理現象に左右されるみたいだけれど。