データの読み方

専門学校の3年の授業が終わった。今日が最終回。
みんな国家試験対策で本気になって、言い方は悪いけれども、ようやっと話を聞いてもらえるというか、これまでも試験対策に役立つ事をずっと話してきた、ということが通じてきた、というべきか・・・。どこの学校でも、学生のマジョリティは、「何のために勉強しているのか」という根本的なところで、答えを持っていない、そんな気がすごくして、今日もその思いが強かった。けれども、ようやく学生と同じ方向を向いて授業を出来たというか・・・

言い方は悪いんだけれども、どうしてもっと早く、「今日聞いた話は、今日吸収するんだ」ということに気付いてくれなかったのか、その「残念感」はあるものの、最後の最後に同じ方向を向けて良かったかな、なんてことは思う。本当に、試験が目の前にならないと、なかなか本気にならないんだよなぁ。

一度やってみたい授業は、「科目」とか「課題」に囚われず、「何を学ぶと何がわかるようになるのか」「何を勉強したらいいのか」「何をしたいなら何を学んだらいいのか」「何をできるようになるには、今何を学べばいいのか」そこのところを話してみたい、そんな気がする。僕の引き出し。青年海外協力隊の経験、自分で会社をやろうとしている経験(未だに「やろうとしている」という言い方しかできないのは、引っかかるが・・・)、医療機器メーカーでのサラリーマン経験、その前の「社会人一年生」経験、学位を取るために「研究」を志した経験、自営業での「開発」の経験、その他諸々、一度、とにかく「シラバスに則った授業」という形で学生に接する前に、「君らは何をやりたい?」「どうありたい?」「どうなりたい?」「どう生きたい?」そこから始めて「だったら今、学校という場所をどう活用したらいい?」「何を学んだらいい?」そこにつなげる授業をやってみたいと、今日すごく感じた。

2年生に喝を入れた。最近、「説教めいた話」もするようになった。一言で言えば、俺も老けた。でも、真剣に聞いてくれるから、話した。「そもそも、君らは、金を払って学校に来てるんでしょ?だったら、『先生の授業、わかりにくい』とか『先生の話し方、退屈だ』とか、言っていいんだよ、遠慮せずに。極論すれば、『金返せ』っていう資格があるんだよ。」なんてことも話した。ただ、その前に、金返せって言いたくなるほど、「何かを身に付けたい」と思って学校に来ているかどうか、そこに問題があったりする。黙って座れば、ピタリと当たる、じゃなかった、黙って座っていれば、ひとりでにスキルアップする、そんなことはあり得ない。能動的に、これを身に付けたい、今の3年生がいい例だけれども、絶対に国家試験には受かりたい、それでいい、何か強烈なモチベーションがなければ、あまりにも、受動的すぎて、日本の持っている教育制度も悲しくなってしまう。そのモチベーションを持ってもらうことこそが、全てに先行すべきなんじゃないか、そんな気がすごくした。

大学でも、「プログラムを書けるようになりたい」というモチベーションを持っている学生は、レポートを読んでいて伝わるものが何かある。一喜一憂して、感情移入しながら読むっていうのは、あまりいいことじゃないのかも知れない。淡々と、成績評価して点数をつけていく、そういう作業の仕方をしないと、身が持たない気もするし、その方が客観的に説明しやすい評価になる。だけれども、「プログラムを書けるようになりたい」と本気で課題に取り組んだ学生には、やはりそれなりに・・・甘くなったりしているかも知れない。うまく説明できない。微妙な言葉の使い回しで、そんな気がする、それだけなのだけれども。(でも、やっぱり、読んでいてい疲れる。)

テニスの大坂選手の一言に、すごいと思った。「感情のスイッチを切った。」なんていう一言をどこかの番組で耳にした。(耳にしたんだから、ラジオか。)それはそれで大事。だけどなぁ。この場合、どっちがいいんだか。

表題は、なんでしたっけ?
昨今統計問題でモメているけれども、教育で欠けているものに、「データの読み方」なんていうのがないかい?なんてことも感じている。数字やデータから何を取り出すか。どんな数字から何がわかるか。逆に言えば、何を知るためにどんな数字が必要か。大学の科目によってはそういう授業も展開されている気がするけれども、さらに抽象化した言い方をすれば、「情報をどう捌くか」という辺りが大切なんじゃないか、とも思う。

子供たちが日々接するネットの情報や、周囲の友人知人からの情報から、実はこんなことが抽出できる。裏サイトみたいなところで流れる情報も、読み方を変えれば、こんなことがわかる。そうした「情報に対する免疫」みたいな部分を、もっと教える必要があるんじゃないか、そんな気もしてならない。料理方法がわからなければ、勉強だって「意味のない暗記競争」になってしまう。何か、統計問題で世間が揉めているのを聞いていても、ふーん、っていう感じしか湧かないのは、「何か大変なことが起きた」という騒ぎの大きさと、具体的に「何がどう大変な事態なのか」という意味付けの希薄さと、その辺のギャップがあるから、なのかも知れない。情報にしても、データにしても、意味付けっていうのは大切。ただ、一人ひとりにとっての「意味」は、その人の価値観に根ざしたもので、漠然と流されて生きていたら、意味なんてない、ということは、データも情報も統計も、どれにも共通で、一定の「価値観」にかざさなければ、何も意味は出てこない、そんな気もする。

もう、何度も蒸し返している。週刊朝日だったかが「日本軍によるレイプ被害が、10万人以上」(確か、十数万人だったと思うけれども、正確な数字を思い出せない)なんていう記事を掲載した時、ニューギニア方面遺族会の田所会長に、すぐにFAXを流した。あまりにも、あり得ない数字だ。僕はニューギニアの州政府にいたから、日本軍の動線沿いの人口データを持っていたし、人口増加率などの数字の推移も把握していた。重ねてみると、人口増加率から遡って当時のラバウル、ポポンデッタから、MoMaSe(モロべ、マダン、セピック)地域の人口を逆算したら、概算で50万人から100万人。そのうち、日本軍の動線に重ならない地域を除外すると、総人口でも15万人から、多くても40万人の範囲、とか、ざっくりとそんな数字を試算した。(今は、細かい根拠の数字を思い出せない。)結論から言えば(極論すれば、かなり誇張して書くけれども、)人口30万人の地域で15万人がレイプされた、という報道が流れたら、どう判断するか。「え?日本軍て、そんなに残虐だったんだ!」というのが世界の反応か?あなたもそう思いますか、という疑問である。バカバカしくて、ここから先は書く気にならない。
ところが、そういう数字が流れても、「ほら、日本人はこんなに残忍だ」というのを、雑誌に書く記者がいる。あちこちで演説する人がいる。南京大虐殺の100万人という「書籍」から流れ出た数字で、世界は「やっぱり日本人は残忍だ」と信じたらしい。欧米でも。未だに、それを口にして記事を書いている人がいるみたいだし。
データの読み方の教育が必要なのは、日本だけじゃないのかも知れない。加えて言えば、フェイクニュースへの免疫も、(僕自身も含めて)あまりない。悔しいけれども、ローマ法王がトランプ大統領への支持を口にしたというニュースを、僕は信じてしまった。迂闊にも。バカだよなぁ–> 自分!「日本人のうち、生きていて面白くないと思っている人が2億人もいる」なんて誰かが書いたら、「そうか、日本人てのは、なんて不幸な民族なんだ」なんて結論を出したりするんだろうか。

データの読み方っていうか、情報の捌き方、っていうか、その辺のところが、今一番大切なんじゃないか、なんてことを、学生と接していて、すごく感じたりした。なんだか、もっと、そちらにシフトした授業をやってみたい、なんてことを、すごく思った。生体計測っていう科目の都合上、出そうと思えば数字満載の授業もできる。ただ、国試対策だと「暗記科目」ではある。その辺にギャップはあるけれど。
そう言えば、大学にいた頃、「フレッシュセミナー」なんていうホームルームみたいなコマがあって、結構そういう授業をやったことがあって、その時に担当した学年が、その時既に僕は大学教員を辞めていたのに、謝恩会に呼んでくれたりした。嬉しかったです。とっても。

ただまだ、漠然と、具体的にどういう展開で話が出来るか、なんて、そこまで具体的に見えている訳じゃないけれども、なんとなく、最初に学生に伝えるべきだったことは、こちらなんじゃないか、なんて、そんな気がすごくした。勉強内容を伝えきれたかどうか、以前に、もっとずっと早くから、どういう姿勢で授業に出てきてくれと、そちらで伝えることができたはずの事を、僕は伝えなかったのかも知れない、なんだかそちらの方が、妙に思い残された、そんな気がした最終回、だった気がする。

漠然としすぎていますが・・・

いずれにせよ、もう少しで3月までは会社の仕事に専念できる。プログラマ100%で仕事に集中できる。もう一踏ん張りで、頭を切り替えたい。
これも数字だけれども、年金が全然頼れない。だから生涯現役のつもりで会社中心に戻そうとしているんだから・・・現実を見据えて!