価値観の変遷

時代が変われば価値観は変わる。
昔は問題視されなかったことが、今は問題視される。逆に、昔は問題視されていたことが、今では誰も気にも留めない。

僕が高校に通っていた頃は、電車の中に普通に灰皿があった。駅構内禁煙どころか、電車の中ですら禁煙になっていなかった。
社会人になって数年、生命保険の勧誘の方(女性)が、女性のヌードカレンダーを配っていた。会社の机の上に置いておいても、特に誰も何も言わなかった。セクハラ、なんていう言葉すらなかった。

アメリカだってそうだっただろうと思う。
映画「疑わしき闘い」の1930年代アメリカ。約束の給金を払わない。「雇用者」に逆らった人たちが随分殺されている。字幕で最後に、「最低賃金法」成立のきっかけになったようだったけれども、「それ以前」は「最低賃金」とか「被雇用者の権利」なんていう「価値基準」はなかったのかも知れない。(あまり正確な記憶ではないと思うが、悪しからず)
そもそも、イギリスやアメリカだって、女性に参政権がない時代が長かった。100年前はどうだったんだろうか。誰かが声をあげて、世の中を変えてきた。
近世のイギリス人女性が参政権を獲得するまでの映画も見た。最近の映画だけれども、タイトルを忘れた。(毎回、寝落ち寸前のブツ切りだから、印象しか残ってないけれども、)勇気のある人がいたんだな、という感銘が残っている気がする。あれ、同じ時代にいて、同じ経験をしたとしても、同じ行動が出来たかどうか・・・自信はないなぁ。

1940年代の日本では、「赤紙」一枚で徴兵されて戦場に送られた日本人は大勢いた。徴兵を逃れたらどうなるか、誰もが知っていた。社会全体が「戦場に追いやる」という意味では実質的な「強制連行」だけれども、「強制連行」という表現はなかった。女子学生も「勤労奉仕」として、企業での労働力として駆り出された。賃金なんて、出ていたんだろうか。「徴用工」という言葉があるけれども、日本でも同じ時期に工場で仕事をさせられて、まだ生きている人は大勢いると思う。「私はあの工場で働いた。」結構、年配の方から聞いた記憶がある。韓国人だけではなく、日本人でも同じ経験をしていて、日本人の場合には「あれは、そういう時代だったから」と諦めているのだろうと思う。憲兵がどういう存在だったか、どんな時代背景だったかを知っているから、とても文句を言えた時代ではなかったという歴史認識」を社会で共有しているから、その企業を責めることの無意味さがわかっている。

テレビドラマの「おしん」は(実は、私は全く見ていない。噂は知っているが、見られる時間帯の放映じゃなかったけど、)世界的にも有名らしい。ただ、「おしん」が丁稚に出された、「丁稚奉公」とは、形式を整えた「人身売買」ではないか、という気もする。「金を払ったんだから、働け」ということになる。「おしん」が韓国の話ではないことは、韓国人もご存知だと思う。それでは、もしも「おしん」が働くことになった先が「花街」のような業界だったとしたら、これほどまでに世界で知られることになっただろうか、という疑問がある。ただ、実際には「おしん」と同じようなプロセスで、その後、戦時中に「慰安婦」と呼ばれるようになった職業についた人たちもいただろうと思う。戦後の混乱の中で、性病で亡くなった方も相当にいたに違いない。生き延びたとしてもおそらくは、大半が日本では沈黙していると推測する。

「私は慰安婦と呼ばれています」…裁判所に届いた手書きの手紙
https://japanese.joins.com/article/006/251006.html?servcode=A00&sectcode=A10

このニュースの「時代背景」を正確に理解しなければ、本人が「強制連行」と感じているその実態が、本当に強制連行だったのかはわからない。
少なくない人数の「おしん」が、強制的に連れて行かれたと感じていると私は思う。そして、子供の知らないところでは大人どうしの金の流れがあった、とも自分は理解している。「違法行為」があったという記録もある。摘発されたから、記録が残っている。いわゆる「人さらい」、現在で言えば「誘拐」。身代金要求の誘拐ではなく、転売目的の誘拐。それらは当時でも「違法」だったが、金を払えば「合法」だった。
当時には当時の「価値観」や「行動基準」があり、大半の人はそれを正しいと信じて生きていたと思う。

誰かが声をあげて、世の中を変えてきた。その変える前の社会に現代の人間が飛び込んだ時に、同じことが出来るか、今と同じテンションで騒げるか、私には疑問だ。周囲に流されていたら、何もできない。それ以前に、当時に生きていたら、周囲が「正しい」とする価値観を当然のごとく受け入れる人が大半だろうと思う。
同時に思うのは、「今現在の価値基準」に基づいて、過去を断罪して当時の人を極悪人の如く扱う、その無意味さ。そもそも、価値基準が変わってきたことに全く気付いていない。ということは、裏を返せば、今現在の社会の「価値基準」を理解していない、ということにもつながる気がする。流されているだけなのだから、過去に遡って生まれていたら、その極悪人のような行動をその本人も平気で行う、ということになるんだろう。

今から、ほんの数十年前、100年前に遡っただけで、今とは全く異なる「価値観」の世界に突入すると思う。それが「正しかった」などと言うつもりはない。人種差別、性差別、人身売買。まだ、完全に変わった訳ではなく、現在でも残っていると思うが、少なくとも「人種差別」「性差別」「人身売買」を容認しない「価値観」に変遷しつつあると思う。
それらが誤りだったと考えるならば、今後を変えればいいだけの話、だと思う。

ただ、韓国が日本に「謝罪しろ」を連呼する、国会議長だったかが「盗人猛猛しい」などと発言する。どこまで、当時の時代背景を理解しているのか、疑問だ。韓国が日本に「謝罪しろ」と叫んでいる「慰安婦」も「徴用」も、他ならない日本人自身のほとんどが、この日本国内でも経験していて、「過去の歴史」として押し流していた。

その同じ話題が韓国では、ほんの20年ほど前、民主化後に降って湧いて、正確な時代背景を知ることもなく、あたかも韓国人だけがそうした目に遭ったかのように理解して、「謝罪しろ」を連呼し始めた。そもそも、大半の日本人が謝罪なんてされていない。何よりも1945年8月15日の「玉音放送」(で、正しかったかな?)で、「これで、この悪夢のような時代が終わった」と感じたようだと、自分は理解しているし、祖父母や両親の話から、「終戦」はある種のリセットだったと感じている。

確かに、韓国の場合には好んで日本の統治下に入った訳ではないと思うが、そこの至る時代の伏線というものがあり、例えば朝鮮王朝の腐敗など、朝鮮側に起因する歴史的な要素が、どの程度加味されているのか、私には疑問がある。
日本人だって、軍部の独走を容認することになった政府には思うことがあったとしても、「治安維持法」以後、急速な社会の変化の中で何が出来たか、今、過去を糾弾して叫んでいる人たちのどれほど多くが、当時の社会にそのまま身を置いたとして、同じように声を出せるのか、それを考えた時に、日本人は「リセット」を「リセット」として受け入れたのではないか、という気がする。

何よりも、こうして自由に今の自分の価値観を叫べるような時代になった、それだけでも、凄まじい社会の「価値観の変遷」の恩恵を受けていると思う。変えてきたのは、過去の人たちであり、この「慰安婦だと名乗り出たおばあちゃん」のような、歴史の中で辛い思いをした人たちの、思いだとも思う。軽んじるつもりはないが、ただ、当時の時代背景を、正確に理解して欲しい、それだけは思う。

日本は、日韓基本条約に基づいて数億ドル(忘れた。ググれ!)の賠償金を支払った。それは「リセット」を完全に行うための措置だったと、現在の日本人も大半がそう理解していると思う。「個人請求権」は「消滅」ではなく「移行」だとするサイトも、すぐに出てきた。

現在進行している、「特許差し押さえ」などの動きは、日本にとっては「過去の清算」ではなく、「今現在を起点とする、新しい韓日関係の象徴」になるだろうと、私は思う。相当に尾を引くと思う。


嫌だな、と思うのは、発してしまった言葉の「反芻」で、牛の反芻の如く、4番目の胃袋から先に進むまで、何度となく意識の表層に湧き出てきて、仕事の邪魔をする。盗聴やら盗撮やらに苛まれたことは、抗いながらも、自分の中からのこれで相当に仕事の邪魔をされた。黙っていられない。だからますます泥沼にはまる。
ただ、後悔はしていない。理由がある。

きちんと脳が「認識」してくれてはいないけれども、僕自身の「意識」はたぶん、過去において「何かをすべき時にしなかった」痛烈な後悔を持っていて、「今、これを黙って流したら、絶対に、肉体を抜けた後に、『また、やっちまった』という後悔をする」という確信のようなものがある。大半の読者の方には恐縮だけれども、僕自身は自分に前世があったことも、おそらく来世があることも、ほぼ確信に近い感覚で認識しているので、やはり、今よりも今後のことを大切にしたい。だから、とにかく後悔したくない。肉体を持っている間に「後悔」しなくても、それで良かったのかどうかは、本当のところは肉体を抜けてみなければわからない。死んだらそれまで、とお考えの方は、そういう生き方をされたらいいし、どうぞご自由に。ただ、僕は自分で納得できるように生きたい。
肉体を抜けた後で、「何故こんな生き方になったか」それを振り返った時に出てくる思いは、アーメンと叫ぼうが、南無阿弥陀仏と唱えようが(以下省略)もう、どうにも出来ない。そして次回に繰り越そうとする。結局、出来るようになるまで似たような経験をする。自分でその伏線を張って、そういう時と場所に生まれてくる。

「なんで、こんな悲惨な目に遭わなきゃならないんだ」という思いをお持ちの方も、多いんだろうな。この記事のおばあちゃんもそうだろうし、最近ニュースでよく流れる、親に殺された心愛ちゃんも、拉致被害者のご家族の方々もそうだろうし。そして、ただ「なんでだ」と愚痴をこぼすだけだったとしても、間違いなく1回の人生分の経験値としては蓄積されていく、と、自分は認識している。もし、それだけではなく、可能な限り客観視して、自分がその当事者になってしまったという「偶然」(実は偶然ではなく必然だと思うが)以外の要素が、どう絡み合って、なぜそういうことになったのか、自分のような「当事者」が今後現れないためには、自分以外の誰がどう動いてくれたら良かったのか、そこまで膨らませることができたなら、おそらく、単なる「1回分」ではなく「5回分」にも「10回分」にも、経験値を膨らませられるんだろうと思う。何も慰めになっていないかも知れないけれども、逆に言えば、順風満帆で何の辛い思いもしなかった人生なんて「1回休み」みたいなものだから、何かあった方が、余程「人生」の価値がある。きっと肉体を抜けてから「この課題は卒業できる」という自信や確信につながるだろうし、周囲の人が「この人、こんなに恵まれた生活をしているのに、なぜ私の苦境を理解できるんだろう」みたいな、その回の人生では経験していない裏側への理解力みたいなものが格段に身に付いて、いわゆる「格の違い」につながってくるような気がする。(師匠の受け売り、みたいなもんですが、私の解釈が間違っていたら、ごめんなさい。疑問のある方は、ぜひ勉強会にご参加を。)
(偉そうに、よくもまぁ、イケシャーシャーとこんなこと書いてるな、とは思いつつ。反芻が終わるまでは、仕方ない。)