史実

深夜のDVD劇場。最近の楽しみは、寝落ちするまでのこの時間。それなのに、こうして何か書いてる。貧乏性だね。

若干、仕事の進展はあった。というよりも、裏技かも知れないけれども、Python → C言語 → Pythonのリンケージを自由にできる技をマスターしました。ネットに素材が溢れている、っていうことは、相当に「時代遅れ」かも知れないけれども、Cが使えるなら、はっきり言って、パソコンのかなりコアな部分の機能もある程度自由にできる。かなり時代に追いついて来た気がした。これで、Ruby → C言語 → Rubyをマスターしたら、もうなんでも来いってな気分かも。C言語はやっぱり、母国語みたいな感じだからなぁ。
Java?あれはもう、有償になったっちゃたから、捨てます。いつからだよ、と思った。最新情報に疎い。それを言ったら、MySQLも有償になったし、アンチ・マイクロソフト陣営が、アンチ・×ラ×ルにシフトするかもね。優良なコンピュータ言語なんて、いくらだって創造できる。既存のものを囲い込んで、ビジネススケールを広げようとしても、逃げ道なんて無限にある。世界は自由な方がいい。

なんだか、いい映画を見ると、気持ちがほぐれる。創作者に拍手。レンタル料の一部が作者に流れる、本当に貧者の一灯だけれども、創作者の才能に敬意を評します。

誰もが必死に生きようとしている。傍から見たらボロボロに見えていたって、本人の内面は誠実で必死で、正直で、そういうのを拾い上げてくれるのは、政治じゃなくて映画なのかなぁ、なんてことも思う。相手の価値観や、真実を理解できたなら、憎悪なんて出来ない。それが人間性なんだろうと思う。その逆に、政治が憎悪を掻き立てようとする場合もあったりする。

ふと、最近のニュースを思い出す。あまり書きたくないけれども、この段落が主題。何が正義か、判断基準は「事実」についての知識だろうと思う。その事実が、虚構であったとしたら、そもそも何が正義かの判断が出来ないし、誤った行動をしかねない。だとしたら、教育で「事実」を捻じ曲げることは、戦争指導者が開戦を決意するのに匹敵する「犯罪行為」だという気がする。余談ながら、人道的には「戦争」は犯罪行為だけれども、国際法上は「紛争解決の手段」としての「戦争」を否定はしていないし、「合法的な開戦手続き」を定めてすらいる、と理解している。この辺の価値観も、大きく軌道修正すべき、という気がするなぁ。
話が逸れたが、教育されて信じ切っている内容に嘘があったならば、その嘘を信じ切って「正義」を貫こうとしている人たちを責める気には、とてもなれない。大元の「嘘」をなんとかしろ、と、自分の国だったら猛烈に主張したいところだが、他国のことだから、火の粉が降りかからないならばどうでもいいことだし、火の粉が降って来たなら、高圧で放水するしかないんじゃないか?残念ながら。

高校時代の世界史の、吉田トラ先生。世界史は苦手だった。僕のブログを読んでいただけたなら、一目瞭然。忘れられないのは、定期試験の答案の返却が授業中にあって、渡された答案用紙に13点(100点満点)とか書かれていた。受け取った直後にグシャグシャに丸めました。とら先生には失礼だったけれども。情けないとは思いつつ、あんな、人名とか、イメージの沸かないカタカナ語の羅列なんて、覚えられない。今でもそうだけれども、固有名詞を覚えるのはとにかく苦手。なんだかねぇ、ミハイロブナ・ヒポポタマスだとか、マルシェ・ドゥ・カルチエの惨劇だとか、そんな感じの意味のわからんカタカナ語なんて覚えきれる訳がない。世界史で90点台取るやつが、宇宙人に見えた。世界史に多少興味が持てるようになったのは、多少は人生経験を積んで、こんなことがあったからこうなった、というストーリーをあれやこれやの雑誌とかで読むようになってから、だっただろうか。もっとクリアに見えて来たのは、協力隊に参加してからだっただろうか。価値観の相違ってな奴だろうか。
歴史は、裏側から、反対側からも見て見なければ、正しい理解は出来ない気がした。

高校時代の日本史の黒羽清隆先生。黒羽先生の授業は、点数は悪かったけれども、面白かった。印象に残っているのは、大化の改新の嘘の部分。今、どういう日本史になっているのか知らないけれども、「蘇我蝦夷」なんていう人物の人名が実名なはずがない、という部分で、この辺は日本人とか中国人とか、漢字文化圏の人でないと通じないだろうけれども、「蝦夷」なんていう名前を普通つけないでしょ、という話題。それが、堂々と「日本の歴史」として教えられているのは、おかしくありませんか?という、なんだか、そんなところだけは覚えている。要するに、当時の政権が敵対する勢力に関する歴史的な公式記録を書き換えた、ということなんだろう。それを「ほう、そうですか」と丸暗記したなら、それが「事実」となる。ところが、その「名前」だけから、「おかしいんじゃない?」と気づいた人がいたら、その人にまつわる「歴史的な事実」そのものが、捏造であった可能性が指摘されるようになる。固有名詞を覚えるよりも、むしろ、どうやって歴史の捏造が起きたか、そのプロセスの方が歴史として面白い気がした。「大本営発表」がわかりやすい例だったけれども、超現代史ということなら、厚生労働省による「統計操作」、でしょうかね。歴史は繰り返す。ご都合次第で、政府の公式発表なんていくらだって書き換えられる。

その、政府による歴史教育を信じ切って、他国では通用しない「史実」を振りかざして国民が行動するようになる、そうなったら、もはや悲劇としか言いようがない。難癖さえつけられなければ、見ていて面白いから、みんな黙って見ていると思うけれど。無関係ならば、喜劇で済ませられるのに。
どこの国でも、ってか、どこの宗教でも、どこの会社でも、あるいはどこの学校でも、みんなそれに近いことをやってるような気がする。どこの学校だったか忘れたけれども、スカートの膝上何cmをめぐってバトルが繰り広げられた(かなり古いラジオネタで、どこの話だか忘れたけれども、たぶん埼玉県内の高校)みたいな話を聞くと、どーでもいいんじゃね?みたいに、つい思ってしまうが、当事者にしてみたら、どちらも必死なんだろうなぁ。これもどーでもいいけど、性差別をなくすのはいいにしても、男子高校生の膝上20cmのスカート姿は、かなり、見たくないなぁ。(個人の見解です。)

当事者心理、ってな奴なんだろう。一歩退いて、あるいは、45度とか90度視点を変えて見てみると、どこに答えがあるか結構見えてくるような気もするし、「史実」としてまかり通っている内容が、本当に事実としてあり得たかどうなのか、判断する基準になるような気がする。

ただ、ねぇ・・・モーゼ様が海を割った話。そもそも桁が違うことが時々起きていたりするのも「歴史」だから、本当に判断は難しいよなぁ、なんてことは思う。異論はあると思いますが。
私は「偏向」してますから、あまり気にしないで下さい。