脅し文句

悠仁さまナイフ事件、犯人逮捕のニュース速報。
最初に一言。子供に罪はないでしょう?仮に親が重罪人だったとしても、子供は無関係だと思う。「犯罪者の子供が謝罪すべき」なんていうのは、法治国家の考え方ではないし、あの話題はそもそも事実認定がおかしい気がするし、そういう国は法治国家として扱うんじゃなくて、放置国家でいいんじゃないかと僕は思う。まだまだエスカレートする。無益な争いは避けて、逃げるべきだ。全社撤退すべきだ。というのが話題の本題じゃない。

別に皇室に肩入れする気は毛頭ないけれども、まず第一に、外交機関としての皇室は世界最強だと思う。どんなに少なく見積もっても、間違いなく1500年は、中国とかの記録を含めて記録文書を伴って、歴史を辿れる。探せば、というか、既に確認されている古書の内容の突合を繰り返すだけでも、1700年くらいは辿れるだろうと思う。自称2700年くらい?それは、検証は無理だと思うが、「神話」の一部は事実らしいから、エンジニア的な感覚の1500年ではなく、文系的な感覚では紀元前200年位までは遡れるかも。こんな外交機関を持っている国は、全世界で他にない。どこの「王室」も、大抵が衰退したり処刑されたり、なんやかやで途絶えている。海外から滅ぼされるよりも、自国民から見放されたケースが多いと理解している。(そんなに詳しくないけれど。)実際には傍系(側室の系列)でかろうじて血がつながった場合もあったみたいだけれど、そもそも、血がつながっていること自体が、世界的には、唯一と言っていい国だと自分は理解している。なぜ、わざわざ、廃止する必要があるのか。
もったいない。

ただ、お気の毒なのは、皇室の方々で、今上天皇(平成天皇)がしばしばお言葉にされていた「国民の象徴としての役割を、必死で考えて、それをどのように」といった感じの内容のお言葉。聞いていて涙が出る。「血」が問題ならば、逃げようがないでしょうね。逃げようがない状況で、桁違いの重責を背負ったまま、一生通じて過ごされる、その辺のストレスに耐えられている皇室の方々には、ただただ敬意を表するし、やはりお気の毒という気持ちの方が強い。今上天皇には、ただ、「お疲れ様でした」と思う。普通だったら、亡くなった身内・親族なんかの霊体さんに伝えたい言葉だけれども、まだ生きていらっしゃる。どうか、重責から解放されて、生きるということを楽しんでいただけたらと、切に願う。顔が割れてるから、遠山の金さんみたいなわけにはいかないでしょうが。(あれは、下っ端の奉行だったっけ?)

思えば、協力隊の壮行会で、青年海外協力隊は今上天皇が創設されたとのことで、僕ら協力隊員には陛下にお目にかかる機会が与えらえる。僕の同期、平成4年度3次隊の同室の仲間は、グランドスラム達成(天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下のお三方と話を)したぞ、と(2段ベットが8個ある)16人部屋に戻って、着替えながら吹聴していた。別の彼はミクロネシア隊員だったかなぁ、皇后陛下は、お話をされる際に、ほんの15cmくらいまでお顔を近づけてお話しされるらしく、「その気になったら、唇を奪える距離だったなぁ」などとほざいていた。僕は、どなたとも直接は言葉を交わさなかった。あのえらく格式の高い部屋の壁を背にして、「恩賜の煙草」をふかしながら、陛下も、皇后様も、皇太子殿下も、何をお感じなのかなぁ、なんてことを考えながら、煙をふかしていたら、宮内庁の方に声をかけられた。「どうされました?」みたいなお言葉だったかなぁ。想定内だったんだろうなぁ。あの頃は、盗聴やら盗撮やらに苛まれて、何か相当な勘違いをされていたみたいな時期で、いや、他人の心なんて読めませんてば。本当にそんなことができたら、今頃もっといい暮らしをしてる。でも、ほんの数メートルの至近距離で、陛下にも、皇后様にも、皇太子殿下にもお目にかかれたのは、いい思い出だと思います。
でもやはり思う。あのストレスフルな状況で、「個人の感情」を一切表に出さない状況で「国家の象徴」の重責を担われている方々。私自身は、やはりお気の毒という同情の方の気持ちが強い。

ふと思う。今上天皇が一番気にされているのは、もしかしたら秋篠宮殿下ではないか。あの微妙なお立場。詳細は書かないけれども、適当に察してください。
ただねぇ。僕ら下賤の民から見上げていたならば、皇室の方のどなたであっても、世間一般には、その方が気をかけてくれていたならただ嬉しいと感じる方は多いんじゃないのかな。加えて、海外にだって、堂々と「日本からの敬意の象徴」として通じる。何を誇りと思うかは、本人次第。桁違いの「誇るべきもの」をお持ちの方が、その価値をご理解なされないのは、さびしい。心が満たされないなんて、満たされている方が、全世界的に少数派だと思う。
今上天皇の秘められた「反骨精神」(今回の、生前退位がいい例だと思うが)のような、前例を覆すような気質を、一番引き継がれているのが秋篠宮殿下じゃないかな、という気がする。それが表に出すぎているだけのような気がする。ちょっとしたことで週刊誌なんかは騒ぐから、きっとご心配なんだろうなぁ。親が一番心配するのは、「跳ねっ返り」なんだろうけれども、きっと大丈夫だと思う。でも、どうかゆったりと、ご安心してご退位ください、と思う。

表題って、なんでしたっけか?あ、そうでした。
話の枕が重すぎたし、長すぎた。

「ナイフを置く」、なんていうのは、いわゆる「殺し文句」というか「殺すぞ」みたいなセリフの代わり、なんだろうか。
これだけ、全世界に宗教なんてのが広まりながら、同様に全世界でこの「殺すぞ」みたいな「脅し文句」がまかり通ってる。宗教関係者の方々、情けないと思いませんか?

殺されたって、肉体を抜けるだけで「そのかた、ご本人」は霊体となって、遅くとも一週間程度の間には覚醒して、次の段階に移って、いずれは上に戻る。宗教ってのは、「人間の実体」は「肉体」じゃない、って、どこの宗教でも教えているんじゃないかと思うのに、一様に全世界で「殺すぞ」とか、さらに言えばどこぞの宗教団体なんか「殺してやったぞ」みたいな犯行声明が出たり、全くもって何も知らないのかと思う。「魂の永続性」と「殺すぞ」のセリフとが、完全に自己矛盾しているって、気づいていませんか?

世界中の宗教指導者は、一体何を教えているのか。何も感じられないなら、宗教指導者の看板を下ろしたらどうだと思う。そこいら辺の宗教関係者に喧嘩を売ってる自覚があるから、一応この話題も師匠に頼らずに、喧嘩したい人がいるなら受けて立ちますけど、喧嘩したいのは師匠とは無関係な私個人ね。スーダラ節の無責任男ですが、喧嘩は大好き!(しまった、バイアグラのBotが貼り付けるリンクが鬱陶しいから、書き込みを止めていたっけ・・・。訪問者がコメントの書き込みができない状況になってる。でも、意見を求めたって、バイアグラの値段を描いてるbotの書き込みしかないから、文句がある人の書き込みが止まってしまっている。)で、話題を戻して
映画もそうだし、テレビドラマもそうだし、「殺してやる」みたいな「殺し文句」(あれ?)。毎度のことながら、意味ねぇだろと思いながら見ている。

皇室の方々なんて、本当にあの方々は、生きているだけでも精神的な重労働だろうと思う。その方々の重労働を、国家としての「カードの一枚」として(冷たく)扱うならば、皇室の廃止なんて、国際社会での、願っても今からでは手に入らない貴重な「切り札」を一つ失うだけだと思う。あの方々がうらやましいなら、代わってあげたら?その代わり、Your Highnessみたいな、舌を噛みそうな英語を、文法的にも正しく使いこなし、食事中は一切姿勢を崩さず、そういう「日常」を一生続ける覚悟があったなら、ということであって、それができないなら、「テメェなんか、さっさと引っ込め」ということになるんだろうなぁ。あの方々は、そう言われないために、相当な努力をされている。

石窟寺院だとか、宗教的な遺跡だとか、破壊したがる宗教団体もいたなぁ。確かに、偶像崇拝には全く意味がないと、共感する。でもねぇ。ああいうのは、後から手に入れようとしても手に入らない、貴重な「観光資源」だから、「今生きている人たち」が潤うためには、貴重な「資源」を壊しちゃいかんと、僕は思う。
こう言っちゃなんだけども、頼ったって、神様は助けてなんてくれない。自分の力で努力して困難を克服するために、この物質世界を創造されたのだから、「頼る対象」としての「偶像」なんてのは全く意味がないけれども、今生きている私たちが先人に思いを寄せる「象徴」としては、今生きている私たちが「観光資源」として生活を成り立たせるために存在する「貴重な素材」として、わざわざ壊す必要なんて、何もないと思う。それをねぇ。何かと壊したがる人たちがいるんだよなぁ。
この段落、どうか、皇室に言葉を被せないで欲しい。説明の都合上、イスラム国が破壊した貴重な文化遺産を引き合いに出しただけなので、皇室の方々の場合には、どなたも生きていらっしゃる。モノとヒトとは違う。

なんだか、この表題。訳が分からなくなった。でもやっぱり、主題はこの表題か。

このまま行きます。「いい加減にしろ」というのが本音。

ファンキー!

朝から、原稿の校正作業。
その後、区切りをつけて、組み込み系のロジック(ほとんど終わっているけれども、細かいデバッグやトラップ組み込み、そして画面の化粧)。
なかなか頭が切り替わらなくて、小林克也さんのファンキーフライデー、流しっぱなし。

投稿ネタ。商店街の福引で1等から5等まで「ハズレなし」の張り紙で、商品をよく見たら、5等の「商品」は「会長さんのスマイル」とのことで・・・。
思わず聞き耳を立てた後、脱力。他にも笑えるネタは多かったけど・・・ダメだ、このまま引きずり込まれそう。

このタイミングで、ラジオのスイッチを切りました。克也さんごめんなさい。
どんどんと、バグを埋め込みそうな気がして・・・

大同団結

いつの頃からかは忘れた。都合の悪いことは、全部自分に都合のいいように考える。
腹立たしい奴、なんて、それはごもっとも。ただ、僕自身はもっと若い頃から、こういう考え方を身につけたかった。

スリランカのテロ。犠牲者の方々に、追悼の意を表します。そう書きつつも、これから僕は真逆の内容を書くと思う。

ああしたテロ行為が起きるたびに、国家間の連携が強まっていく。わが国には関係ないと思っている国が、こうした国家間の連携の輪に加わっていく。そのこと自体は、たぶん望ましい方向なんだろうと、私は考える。あなた方の死には、貴重な犠牲としての栄誉が向けられるべきなんだ。そこを言いたい。

ニュース報道では、スリランカの大統領派と首相派の不仲が報じられ、海外の諜報機関からのテロの可能性が伝えられていたにもかかわらず、情報共有が不十分だったらしい。これだって、チャンスだ。一応は、大統領も首相も、自己の保身よりも国民の生命財産の保全を大切に考えるならば、こうした「外敵」からの攻撃時には一致団結することが必要だと、思い知るべきなのかも知れない。かつ、具体的にこうした被害が出てしまわなければ、何がどう問題なのかなど、一切考えようとしない。(他人のことは言えません。僕もそうだし。車で人を撥ねていないのは、ただ運がいいだけ。)日本も、原爆を投下されるまでは「本土決戦」だとか「竹槍で機銃掃射に立ち向かえ」とか、盛んに喧伝していたらしい。広島、長崎の犠牲のおかげで、数え切れない日本人が(軍部という、これも日本人でもある指導者の導いた)戦争の惨禍から、死ぬことを免れた。広島や長崎の犠牲者に捧げる思いの中には、「あなた方のお陰で、私の両親や祖父母が、生き延びることができました」という思いがあっても、いいのかもしれない。
変わる機会になるべきなんだ。

どこかの国の財務大臣みたいに、既得権益最優先で国家間経済の流動化に全く目を向けようともしない、そういう元総理大臣を担いでいる国とかは、たぶん、経済政策で遅れをとる。それは治安も同様で、軍事行動最優先の防衛族に棹差させれば、かえって治安は危うくなる。もうバカらしいから、噛み付かないし、そういうのを選んでるのはその国の過半数の国民だから、いいんじゃないとしか言いようがないけれど。

それにしても、「イスラム国」ってのは、一体どれだけ「罪」を犯したら気が済むんだろうか。
また、訳の分からねぇことを書く奴だと思われるんだろうけれども(あ、ご存知ありませんでしたか、無視してくれたら、それが一番ありがたいし、慣れてる)思うがままに書くなら、まず第一に、「神の名において」人を殺す、なんて、神を冒涜している以外の何物でもない。 イスラム国に賛同するならば、「インシャラー」ではなく「インシサタン」と叫ぶべきだ。(アラビア語は知らないので、音のつながりの不正確さについてはご容赦。)第二に、イスラムを名乗るなら、「寛容」の精神を貫けと思う。イスラム教徒以外は皆殺ししてもいい、なんて考え方は、ムハンマド(様)すらも冒涜していると僕は思う。あの方に対して、失礼だ。第三に、自爆攻撃。イスラム教ってのは、「自殺」については何も教えていないのか?命の大切さを何も教えていないのか?この歳になると、今更コーランを全文読むなんて面倒なことをする気力もないし、「年金」が大してあてにならないから、仕事が忙しくて、申し訳ないけれども、読まずに書いている。ただ、僕にできることは、異教徒であっても「神」を信じる方々ならば、その意思を尊重したいと、ただそれだけ。これは僕の考え方であって、師匠とは一切関係ない。もし、あなた方の信じる神が命の尊さを教えているのならば、自爆攻撃など「罪」以外のなにものでもない。僕はそう考える。

その一方で、「自爆攻撃」に「自分の生きている意味」を見いだ出したい人たちの気持ちも、わかるような気もする。生活苦って言っても、世界水準での「生活苦」は、日本人の想像を絶しているところにあると思う。失うものが何もない。失いたくないモノを、持たせてすらもらえない。奪われ続ける苦悩。そこにつけ込んだのがイスラム国だとしたら、テロリズムの根絶は「貧困の根絶」に他ならないと思う。Ass Holeみたいな財務大臣には決して理解できないところに、テロリズムを正当化するルーツがあると思う。僕だって、私生活を根こそぎリークされて、切れた時には、こんな世の中全部潰れちまえと、何度思ったか知れない。あの時の僕に爆弾が手に入っていたなら、たぶん僕も「自爆テロ」をやっていたかもしれない。それでも、そちら側に流れなかったのは、たぶん、僕の「今回」以前の蓄積のお陰、なんだろうか。
アメリカの映画にあったな。「殺してやる」の発言が、殺意認定になるかどうか。頭に来た時にその言葉が出ることがあっても、それを行動に移すかどうかは全くの別問題。日本では、その言語表現に対する社会的な寛容があると思うから、ここまで言葉の限りに思いを吐き出しているんだけれども。
世界中の「イスラム国が食指を伸ばしそうな地域」に、富裕国が先に手を伸ばしさえしたなら、おそらくはイスラム国の根を断てる。言葉にするのは簡単。それがどれだけ困難な大事業になるかは、一応は理解しているけれども、それしかないんじゃないのと思ったから、書いた。

さらに言えば、根底にあるのは、「ちょっとばかし他人の上に立った人間の、ささやかな自己満足感」だろうか。どこの都知事だとか、どこの大学学長だとか言わないけれども、およそ「反論できそうもない相手」を「根こそぎ」にしたがっている、と、その「根こそぎ」にされそうな側にいる私は感じた。(「禁煙ハラスメント」の話題ですが。)
自分の決断で、他人を思うがままにできる、ってのは、快感なんだろうなぁ。そこに「大義名分」があったなら、申し分ない。

そうやって、湾岸戦争を始めたのが、パパ・ブッシュじゃないかと僕は思う。(あれ、息子だったっけか?ごめんなさい、もう僕には痴呆が入ってます。)あの湾岸戦争と、その後の捕虜の扱いがイスラム国を産んだ、なんて、NHKだったかBBCだったか忘れたけど、テレビ番組で特集をやってたのを見た記憶がある。一方的に「あいつら悪人だ」と決めつけて、それが容認されたなら、何をやっても許される。そんなバカな話があるか。やられた側が本気で怒ったなら、イスラム国みたいになる。あの組織(イスラム国)を立ち上げた人たちを決して容認するつもりはないけれども、やられて、対抗したくなった側の気持ちで言えば、僕は理解できる気がする。僕だって、誰かを呪い殺したくなって、それをブログに公言した過去がある。頼むから、人間の尊厳を尊重して欲しい。かろうじて、自己の尊厳を保つために、なぜ、何をどうしているか、せめてその程度の「声」に耳を傾けて欲しい。そういう「声」を抹殺しようとするならば、僕はあらゆる手段で、誰彼構わず噛み付くと思う。
ちょっとばかし偉くなったからって、他人を思うがままに支配しようとするな。そう主張したい。被害妄想かも知れないけれども、頭ごなしの、他人からしてみたら全然大した騒ぎでもない「禁煙ハラスメント」に、僕は過剰反応したけれども、ああした発言をした人たちに共通した優越感というか、支配層意識を感じてしまったから、それがどうしようもなく苦痛に感じた。

でもなぁ。優生保護法ではないけれども、あの都知事も、あの大学学長も、僕らを去勢するとまでは言っていなかったから、せめてその点だけは、感謝しておこう。人間として、生かしておいてくださって、ありがとうごぜぇやす。都知事殿。(いや、もう、今更子供を育てられるとは思わんから、失うものは何もないし、愛おしいものも何もないし、むしろ喧嘩をし続ける方が、よほど生きがいは感じられるような気もするんだが。誰が最適だと思います?読者の皆様方。)人生やり直すにも、もうタイムアウトな気がしているし。

一番厄介なのは、そういう「頭ごなし」の政治をやる人たちが、当のご本人は「正義感」に溢れていたりする、なんてことだろうか。
わかりやすいのは、トランプだろうなぁ。ご本人は「正義感」を持っているみたいだけれども、如何せん、視野が狭すぎる。極めて個人的に、イランにはただただ、同情する。イラン危機の種を蒔いたのはアメリカ。石油が大事だったのか、なんだか。アメリカの歴史教科書でその経緯を教えていること祈る。イスラム国の産みの親も、アメリカだと僕は思う。イラクのクウェート侵攻は明らかにイラクが悪い。ただ、対イラク戦争への流れは検証しなければ、また同じことがきっと起きる。だいたい、なぜ、アメリカは、そこまで世界に干渉したがるのか。軍需産業のご都合でしょう?パックスアメリカーナで、武器で世界を支配していれば、潤う。だから、トランプみたいなバカは大歓迎。
DVDで、Man Downというアメリカ映画を観たけれども、誰にどんなメリットがあるのか。あのMan Downみたいにアメリカ国民のメンタリティを犠牲にして軍需産業、全米ライフル協会が潤うのなら、頼むからアメリカ国内で留めて欲しいと思う。世界に輸出するな。
あの、トランプも、America Firstではなく、America Onlyで、殺し合いの輪を閉じておいて欲しい。経済は、アメリカ抜きの世界が潤うように、Ass Hole以外の財務大臣が日本を導いてくれることを祈りたい。

このページ、一体どんな話題を発端にして、何を書こうと思ったのか、訳がわからなくなった。
慢性的に、こんな調子です。時間の問題で、師匠の講演会でも、そろそろ師匠に破門されるかも。酒飲んでこのページ書いてる。泥酔に近いかも。怒りが、どうにもならない。さっさと忘れたいのに、ニュースを見聞きすると、際限なく言葉が湧いてくる。抱えていると気が狂いそうになるから、全部吐き出している。

そうだった、もう一つ書きたかったんだ。数日前の夕方のNHKのニュース。なぜ、日本で「議員のなり手不足」になってるのか。確か、フィンランドだったか、スウェーデンだったか、ノルウェイだったか、北欧のどこかの国の教育の話題を取り上げていた。小学校の頃から、子供達には「自分の意見を述べる」ことを優先している。社会を良くするためには、まず、誰もが「自分の意見を堂々と述べられるようになる」ことが大切。日本は真逆。子供が自分の意見を述べて、それが文部科学省の「カリキュラム」を脱線するような事態になったら、教員が責められる。だから、子供を黙らせて、「授業」を継続する。文科省の枠にはまらない子供は、叩き潰すのが文科省の方針、じゃないかと僕は思う。その挙句に、「選挙に行きましょう」とか「代議士になりましょう」だとか、政治家のなり手がない、とか、政治家になりたがる奴は利権目当て、金儲け目当てだけだろう、とか(あ、これ、当たってるかも、)そんな議論、意味がない気がする。
異端は叩き潰すのが、日本の慣習。
こういうニュース、聞いた瞬間に、何か奥があると感じつつも、その場ではあれこれとの話題が結びつかずに、固まる悪い癖が僕にはある。こうして話題にするのに、何日かかったんだろうか。他人と会話していても、「あれ」と思うと、いきなり固まる悪い癖は、昔から全く消えない。けど、ラジオのニュースだから、会話じゃないから、日常生活には実害はないかな。

って、表題はなんでしたっけか?「大同団結」?なんなんだ、このタイトル?

そうあなたが思うなら、読んだことを忘れてください。気にしないでください。私も、書いたことを忘れます。

こうやって、本気でものを考え始めると、だいたい僕は、口が半開きになって、目も半眼状態になって・・・、本気でものを考えてる時に自分がどういう顔をしているのか、偶然(何か乗り物の車窓だったかなぁ)直視して、あ、俺、いつもこんな顔をしていたんだ、と気づいたのは、40代になってからだった。それまで、気にもしなかった自分の愚かさ。
おかげでねぇ、愛知県にある国立某N大学のなんちゃら学部の教授には、「あなたには、説明したってどうせ理解できないでしょうね」と面と向かって言われてしまった。ありがたいお言葉をいただき、感謝申し上げます。なぜ、そんな言葉をかけられ続けるのか、40代になるまで気づかなかった私は、バカとしか言いようがありませんね。トランプ並み。

ぜひ、このページをお読みになった皆様も、同じ言葉を私に投げてください。同様に感謝申し上げます。(これが、泥酔した時の、僕の仕上がり方、かも。)

表題?忘れてください。今日、何があったの?ニュースを読んだだけです。

寛容

ふと、思った。
自分が不快だと思う相手を叩く大義名分があったなら、徹底的に排除しても構わない。
そういうメンタリティが、存在している。

スリランカのテロリズムにも、小池都知事にも長崎大学の学長にも、全く同じように存在している。そう思った。
ということは、誰にも同じように、テロリストのメンタリティがあるんだろうなぁ。

嫌な世の中だ。

名画

直近の記憶。ツタヤレンタル。(アマゾンとか、オンラインにしない理由?歯止めが効かなくなるし。)
寝落ちする前の深夜だけに、自主規制。

いい映画だった。「ハクソー・リッジ」
沖縄での日本兵が、すごい描かれ方をしていたけれども、それは主題じゃない。アメリカ兵から見たなら、当然日本兵は、ああいう見え方をしただろうと思う。リアリティを追求した映像がすごかった。「きれいな絵」でヒーローを描きたがるアメリカ映画とは、一線を画していたと思う。
これが戦場だ、と思った。自分がその場にいたならと思ったなら、ホラー映画よりもはるかに、心を蝕む状況が伝わると思う。(経験しないと、わからないんだろうなぁ。僕も今世では経験してないけど。)
ネタバレしたくないので、これ以上は書かないけれども、実在の人物で実話だというデズモンド・ドス氏に感銘した。

もし、アベが憲法第9条を破棄したなら、僕はデズモンドのような行動を取りたい。(ってか、このトシだと、もう足手まといにしかならないか。それ以前に、足手まといにしかならないから、絶対に自分にはお声がかからない人たちが、何かと決断する。)
若い人たちにも、是非、心してこの映画を見て欲しいと思った。これが沖縄戦か、ということも考えた。ハクソー・リッジについては、以上。間違いなく、名画だと僕は思う。

片っ端から、ランダムに「レンタルリスト」に連ねているから、たまたま、ロシア映画の「パトリオット・ウォー」との2枚が届いた。映画の黎明期だと、こんなアプローチなんだろうな。
日本映画の「203高地」だとか、古くは「七人の侍」なんかもそうなんだろうけれども、「爽快感」の落とし所が「勝利」であるのに対して、ハクソー・リッジは、必ずしも戦闘の勝利は見ていて気にならない。(完全に、アメリカ側に感情移入していたけれども。)「戦闘勝利」は、オマケでしかない、そういう描き方だったと思う。

ここのところ、外国映画が重なってる。

韓国映画では、「THE NET」と、「トガニ」。重いけれども。(重いのばっかし)
イギリス映画では、「私は、ダニエル・ブレイク」(日本でもやってそうだ。ってか、「トガニ」も、日本でもありそうな話だけれど。)
アメリカ映画では、「ニュートン・ナイト」も、「リトル・ボーイ」も直近で借りた。なんだか、題材の重なる映画が続く。
スパイダーマンとか、X-menとか、「話題」に振り回されて、ハリウッドなんてあんなのばかりか、と思っていたけれども、ちょっと見直した。
どれも「名画」だと思った。

確か、「O嬢の物語」だとか「チャタレイ」とかも、レンタルリストに放り込んでいたはずなんだが、順番がどの辺なのか。(意固地だから、リストの順番は操作しない。)いや、「題名」だけ知っていて、中身を知らないのはイヤだから、借りただけです。それ以外の興味はありません。(キッパリ!)

師匠が講演会で「エンティティ」を話題にしていた。浮遊霊・地縛霊になる方たちは、生きている時の意識を引きずっているから、「教材」としての解き方は、その辺かなぁ、なんて考えているが、こういう話題を書いても、通じない人が多いから、ただ単に書いてみただけ。「ハクソー・リッジ」をそっちの(オカルト系の)視点で描写したら(見える人だったりしたら、)すごいことになってる。
ただ、私の場合には、エンティティ(Entity)とか言われると、もう、データベースに関する私のコンピュータ関連の授業教材の(記述の正確性の)ことしか思い浮かばないから、たぶん(数カ月以内には届くであろう)映画を観た後でも、その”Entity”という単語に対する反応は、コンピュータ・サイエンス的な視点以外ではあり得ない、という気がする。せっかくだから、その両方を足して2で割って、話題のオチに使ったとしても、コンピュータと霊界の両方の知識を持ち合わせている人が、どれほどいるか、足して二で割った時の「笑いのツボ」が通じる気がしない。

全く、余談ながら、ニューギニア戦では、遺族会の田所会長のお父さんが朝鮮半島召集の部隊だったから、慰霊の際に韓国のご遺族にも声をかけて、僕も慰霊を手伝った。全く同様に、沖縄戦で「残虐な日本兵」として描かれている中に、朝鮮半島出身の人もいたはずだし、同じ事情が、フィリピンでも、ビルマでも、インドネシアでもある。その辺の、もっとはっきり言ってしまえば、「戦争での非人道的な行為」を行なった「日本人」の中に、朝鮮半島出身の人が少なからずいて、逆にその「残虐な日本人」と戦った側には、朝鮮人も韓国人も、(その当時でアメリカ国籍を取得していた人などを除いて)一人もいなかった、という歴史的事実を、朝鮮半島の方々は、どの程度、歴史教育で教えられているんだろうか?すごく疑問に感じる「論説」を見ることがある。歴史について、どこまで正確に知っているんだろうか。
かなりの余談になった。この話題は、このページの主題じゃない。

「ハクソー・リッジ」みたいな映画をハリウッドが作るなら、少しは見直そうかな。
無論、全世界でニーズがあるから、だろうけれども、やたらと銃をぶっ放して、やたらと人を殺して、やたらと車をかっ飛ばして、それで最後はメデタシメデタシ、みたいな映画。そういうのばっかり観ていると、トランプみたいな頭の構造になっちゃう気がする。というより、ハリウッドがトランプを当選させた、そんな気もした。

「情報戦」が主戦場になるなら、人命を軽視した時点で「敗戦」が確定する。そんな時代になって欲しい。
(なんて書いても、プチトランプが世界には溢れているから、いわゆる「テロリスト」には話題が通じない気がするけれども。)

フラッシュバック

しまった、と思う。余計な話題に首を突っ込んだ。というか、ニュースに変な反応の仕方をしてしまった。
だいたい、長崎大学で全面禁煙しようが、どうでもいい話なんだが、禁煙条例の小池都知事を思い出して、過剰反応した。
なんだか、開き直った。池袋には繁華街があって、喫煙所が撤去されたら、路上の一角に集団で路上喫煙するために人が集まる場所ができていた。僕もそこに便乗することにする。路地が何本もあるから、どこがセーフか、そこは、ニューギニア経験で勘を働かせることにする。東京には分煙なんていう発想が、カケラもなくなった。

ニュースを聞いた後、なんだか体じゅうの力が抜けて、連鎖的に昔のことまで山ほど思い出して、なんとなく新鮮な痛みを感じてしまった。今もなんだか、胸のあたりに風穴が空いているような気分で、体に全然力が入らない。食欲もない。メールを読んでも、要件が頭に入らない。プログラムコードが、知らない外国語に見える。

思い出してみても、自分のどこが悪かったのか、どうすべきだったのか答えの出ない話題が多すぎる。考えてはいるんだけれども。

そもそも、その場で反論させてもらえたなら、僕自身はほとんど根には持たない。相手は根に持つかも知れないけれど、相手が根に持つのと、僕が引きずるのと、どちらを選ぶか、っていう話なんだろうか。

どこぞの大学の場合には、発端ははっきりしている。入職して最初の学科会議で、N学科長が「コマ割り」の話を学科会議で取り上げた。「僕は聞いていません。」って言ったら、「契約書に書いてあるはずだから」というので、「労働契約なんて、もらっていませんけど。」って返したら、「わかった、じゃぁ、調べておく」と言われて、次の時に「先生の契約は、週9コマで、前期後期で18コマになっています。」と言われた。「契約書なんて締結した覚えはないんですが」と返したら、「この大学では、契約書は事務が作成して保管する。」と言われて、そんなバカなと思った。条件提示もされていない、説明も受けていないのに、「契約書」が作成されて、事務に保管されているなんて、おかしいでしょう、と言ったら、「ここではこれが普通」と言われた。「先生は年俸契約で、70歳までずっと年俸500万円です」とも言われた。思い出してみると、細かいことの書かれていない「労働契約書」に捺印した記憶はあるんだが。知らない間に、こういうことになった、という話題を、ネットに書いたのが、そもそもの発端だろうなぁ。全部事実なんだけど。ただ、僕は最後まで、自分の記憶にない内容が書かれていたらしい「契約書」なるものを見る機会がなかったから、証拠の提示ができない。N学科長がご存知のはずだけれども、もう忘れてるだろうなぁ。いずれにしたって、昔の話だ。
それ以来、もう、あの学校では抹殺されたも同然で。ただ、直接文句を言う手段が一切なかった。
でも、おかげさまで、(非常勤もやってたから、)毎週22時間、一日平均で4.5時間、一応は意味のあることを話し続ける喉は鍛えられたと思う。しかも、10秒とか20秒、意識が落ちて、半分眠っていても、(立って歩きながら)それなりに意味のあることを話続けて、ふと目が覚めたと言うか意識が戻った時に、眠っていた間に話していた内容の続きを自然に話し続けて、眠りながら授業をやってたことがバレない、なんて言う特技も身につけられた。感謝するべきなんだろうなぁ。

教務委員会の議事録は、委員会が開かれる前に作成されているのが常だった。(今は知らない。)「大学側からこの説明があった。」それが最初から事務方の用意した議事録に書いてあって、意見を言う先生も決まっていたんだろう。教授会も似たようなものだったらしい。教務委員長が茶番だとかボヤいていた。そういう大学だから、講師の契約書なんか、「双方合意のもとで」なんてことがあるはずがない。それを言い出したら、とある医科大学の教授会について聞いた話では・・・やめとこう。病気になった人が最後に頼るのが病院で、その病院が、なんて話になったら、ヤバイ。でも、ドラマにはなってるか。結局、よくある話なんだろうな。
悪いけれども、禁煙外来なんて、まっぴらゴメン。製薬会社のご都合に乗るくらいなら、まだ間接税を支払い続けた方がいい。それに、もうすぐ還暦で、もう十分生きたよ。慢性的に完全燃焼してる。

逃げた訳だから、当然、慰謝料がどうこうなんて騒ぐ気はない。ただ、何かあると体じゅうの力が抜けるくらいの記憶の連鎖で、直近の話題として意識の表面に躍り出てくる。その都度、必死で吐き出して抜け出したい。どこかの大学には悪いけれども、たぶん僕は、死ぬまでこの辺の記憶の嘔吐を何十回でも繰り返すだろうと思う。(韓国の文句は言えないなぁ。でも、事実は事実として尊重して欲しいけど。韓国の人の気持ちは痛いほどわかるんだが、学校で教えている内容が事実じゃない。)

小池都知事は、「人を選別する」人だと思う。民主党が崩壊した選挙の前に、確かご本人がそんなことを言っていた。昨今、露骨に喫煙者を見下すような発言をされている。正直言って、耐えきれない。酒だのタバコだのに頼ってメンタルを維持しようなんて自分が、情けないとは、確かに思うけれども、暴力が許される訳じゃない、言葉すら発する機会を与えられない、どうやってかろうじて、社会生活を維持しようかと思った時に、僕には他に手段が見つからなかった。そんなことは、関係ないんだろうなぁ。「喫煙は悪」らしいから。何を言っても無駄、だと思ったら、僕自身が日常生活を取り戻すためには、たぶん、今からは一切この話題を避けて、言葉を飲み込むと思う。消化しきれなかった時、何をどう思ってしまうかわからないけれども、もう、結果については気にしないことにする。意識の中で何をどう思ってしまうかは僕の勝手。(僕だけじゃなく、誰しもが、何を思ったか上にはバレバレだけれども、普通、誰もそんなことは気にしないでしょ?)言葉にして吐き出した方が、まだ軽く済む気がするけれど。

一切の反論を許さない。そういうやり方が正しいと思うなら、それはご自由に。ただ僕は、ひたす持ち続けた怒りを中に籠らせて封じることで、かろうじて社会生活に順応してきた。限界で耐えきれなくなった時にどうなるかは、今は考えない。ただ、罪悪感を持ちたくないから、この話題は言葉にして吐き出しておきたかった。免罪符。
腕力も振るわないし、暴言も吐かない。だったら、法律には、一切触れませんよね。

禁煙ハラスメント

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43964980Z10C19A4ACYZ00/
長崎大、喫煙者不採用へ 「学生らの健康守る」

住みにくい世の中になった。

以前、LGBTの人たちは、「性的な嗜好がフツーじゃないのは、ビョーキだから、最初からわかっていたら雇わなかった、雇っちゃったんだから、治療を受けて治せ」みたいな扱いを受けていたと記憶している。今は、その矛先が喫煙者に向いている気がする。

某K都知事なんて(都知事って書いた時点で、イニシャルにしても意味ないなぁ)禁煙について話す時は、何だか勝ち誇ったみたいに、喫煙者なんて人間じゃないみたいな言い方をしているような気がする。ほとんど、ハラスメントというか、差別じゃないかという気がする。僻みかもしれないけど。あの発言を聞くたびに、どんどんと不快になってくる。

確かに、受動喫煙で不快な思いをしてきた方も多いんだろう。その反動で、「これまでのツケを一気に返してやる」みたいな勢いで、追い込んでくる。諦めるしか、ないなぁ。

去年の12月だったか、今年の1月だったか、専門学校の2年生に「先生、今日飲みませんか」と声をかけられた。H君。留年組だけれども、どちらかと言えば、僕はそっちの方と気が合う。僕自身が、浪人に留年にと、親に迷惑をかけまくりましたからねぇ・・・「いいよ。」と二つ返事。
「え、先生飲むんですか、俺も一緒に行っていいですか」という学生が他に3人。いいよ。(ただ、手持ちがなかったので、支払いはカードで・・・)念のために書き添えれば、留年組だから2年生でも未成年でないことは確認済み。

話を聞いた。たぶん何か言って欲しかったんだろうと思うから、自分なりの言葉はかけたけど、もっぱら聞き役。みんな、話したくて仕方なかったみたい。そんな気もしたからの二つ返事。
今日、結構クサクサしていて、何だか話をしたくなったんです。H君、高校時代の担任とひどく相性が悪かったらしい。お前なんか、大学に行けるはずがない、行っても無駄だ、なんてことを高校の担任に言われたらしい。それなら意地でも大学なんか行くか、でも、やっぱり資格は取って、と思って専門学校に入った。「先生、俺、やればできます。実際、簡単だと思ってます。」それはわかってる。実力があるのは、ちゃんと把握している。他の3人も同じ。「先生、俺も行っていいですか」のO君。親とどうもうまく行っていない。二人とも、確かに問題行動は目立つけれども、アタマの素材が悪くないことはとっくに把握している。他の子も、色々あったみたいで。
学生の分際で酒を飲むなんて。なんて言うんだろうな。某大学の学長。飲まなきゃやってられない、そういう育ち方をしている奴は、いくらだっている。

だいたい、僕がそうだったから。会った瞬間に波長が会う感じはわかる。
気分だけでも「俺だって、生きていて意味があるんだ」と思わせてもらいたかったけれども、世間なんてそんなに甘くない。目立てば足を引っ張られるし、目立たなければバカにされる。間がなくて、そのどちらか。必死で仕事したって、アラを探して中傷する奴がいて、とにかく金を払いたくないから「タダにしろ」とか言い出す医者がいる。モチベーションの維持に苦しんでいるのは、未だに昔と同じ。どこか組織に所属したって、自分が必要とされている人間だなんて、思えた試しがない。バカにされるか、邪魔にされるか。だから、自分には自営業しかないと、なんども思いつつ、この「モチベーションの維持」という壁が、最大の僕の課題だ。

どこかの大学。千葉キャンパスから撤退する、っていうことで、まだ最終学年が残っているのに、専任教員は僕一人を残して、他の教員全員を池袋に移した。どこまで人件費をケチるんだよ。
実質的にコース主任の仕事を押し付けられることになったのに、あくまでも平の講師にしたかったのか、大学は辞令なんか出さない。その癖、父母面談がらみでは学長名で「各学科長、コース主任が責任を持ってなんちゃら」とかいう書類を事務が私に回してきたから、突き返した。「済みませんが、私は辞令をもらっていないので、コース主任を名乗って父兄に対応すると身分詐称になりますので、この書類は他の人に回してください。」ただ、事務をいじめるつもりは毛頭ないから、無論、職名を名乗らずに父母とは応対したし、僕一人だったけれども、臨床医学まで含めて学生の受験指導して、千葉の最終学年の国家試験合格率は、10人近く(それでも10人程度だ)専任がいた池袋と同じだった。とにかく、意地でも責任を持って、最後の一人まで単位を取らせて、卒業させた。
ただ、こういうやり取りばかりしているから、科研費を申請したら「悪いことをするに決まってる」とか言われて、科研費申請のコンプライアンス手続き書類そのものを「不受理」にされた。やるよなぁ。それに比べたら、長崎大学の嫌がらせなんて、可愛いものか。もっともらしい顔をして、はみ出した奴を除外しにかかる。心が広いねぇ。

師匠の講演会で、しばしば言われている。酒は飲んじゃダメだよ。アルコールは肉体だけではなく魂を、体の中の霊体の意識そのものを酔わせる。だから、アルコールが入ると、霊格の高い霊体さんたちとは意思疎通ができなくなって、意思疎通できるのは浮遊霊とか地縛霊とか、そんなのばかりになっちゃう。飲むなよ、と。それはわかっているけれども、僕はまだ酒をやめられていない。メンタルの管理が、全くできていない。ってか、そもそもが、霊格の高い霊体さんたちとは、意識の疎通なんてできた試しがない。時々、いらっしゃることは感じれる程度で。

俺って、生きていてもいいんだよな。十代の半ばから四十代まで、ずっとそんな感じだったし、酒もタバコも覚えたのは高校時代。あの高校に入れたのは、マグレとしか言いようがないけれども、あの国立東京学芸大学附属高等学校には、僕の時代には、酒もタバコもやってる奴らが(そうだなぁ、専門学校で、先生飲みませんかって、声をかけて来た学生とも、タイプは似ているなぁ)そこそこいた。他の仲間と僕とで、理由が同じかどうかはわからないけれども、酒もタバコもなかったら、メンタル的にとっくに潰れていたかもしれない、そんな気がする。

怒りを暴発させたことは何度もあった。それでも、これではいかん、と、自分を押さえつける時に、タバコに火をつけて、必死で気持ちを静めたことは何度もあった。それでも結局、モノに当たったことは何度もあるけれども、人には一切手を出していない。酒もそうだった。訳が分からなくなってしまえば、怒りだって、どうでも良くなる。そうなるまで飲んだことも、数えきれない。でも、さすがに、昼間っから酒を飲むなんてことはできなかったから、タバコにだけは逃げた。感情を抑えて、席を外して、タバコに火をつけたことなんて、数え切れない。他の逃げ道を知らなかった。本郷三丁目にある「ちどり」というスナックのマスター、ターちゃんに会うまでは、自分の感情をストレートに言葉にして、それを聞いてもらえたことなんて、なかったような気がする。説教されるか、無視されるか、バカにされるのがオチ。相手によったら、大学で教員をやってます、というその事実が、バカにする材料にされたりしていた。どういうあり方をしたって、他人を見下すことに必死な奴らがいる。

そしてタバコがねぇ・・・。もう、完全に犯罪者扱いというか、厄介者扱いだなぁ。仕事にすら就けなくなるんだものなぁ。

国立大学みたいに、キレイキレイなところは、汚い奴を全部除外する。でも、専門学校なんかには、僕みたいなハミ出しモノ、問題行動をすぐに起こす人間、親とか教師に厄介者扱いされて、それでも必死に生きようと、勉強しようとしている若い子たちがいて、僕なんかでも、そういう学生とはどうやら波長が合うみたいで、それでいいかな、と思う。いや、決して専門学校をバカにしている訳じゃない。汚いと貶している訳じゃない。必死に生きて、何が悪い。もがいて、逃げて、何が悪い。悪いと決めつけるなら、勝手に国立大学をやってろ、と思う。必死で、もがいているから、僕は専門学校も好きだ。やり切れない思いがあって、飲みたいなら、僕は付き合う。もう還暦寸前だけど。タバコだって、どんな悪癖だって、一方的にやめろとは言わないよ、僕はね。あんな、心の痛みがわからない人たちとは違う。

生きるってことは、疲れることだよなぁ、なんて思う。そのささやかなescapeを、refugeを、根こそぎ剥ぎ取ろうとする人たちがいる。なんだか、心が折れそうになる。本当に俺は、心が弱い。情けないよなぁ。今まで俺、どうやって突っ張って来たんだろうか。トドメを刺しに来てるよなぁ。

死にたいと思うことは、何度もあった。自殺未遂も何度もやってる。だけど死なない。土壇場で、死ぬな、生きろというブレーキがかかって、結局逃げ切れない。致命的な状態になる自殺行動には、絶対的な歯止めがかかる自分のメンタリティを自覚している。だから死ななかったし、今でも生きてる。なんで俺は、死ぬことに逃げられないんだと、悔しかった。ダメだ、死ねない。この状況でも、生きるしかないのか、と思った次の瞬間に、タバコに火をつけていた。それが何度もあった。

もう、東京みたいな人の多い都会では、仕事は出来ないかなぁ。ってか、させてもらえないんだろうなぁ。

と金

歩は、相手の陣地に入ると「と金」になって、横にも動けるようになるらしい。
将棋については、駒の動かし方と、この程度のことしか知らないけど。

歩と歩が真ん中辺で隣り合って、これから何か始まるのかと思っていたら、そのまま動かない。
片や、後ろから、飛車やら角やらが効いてるとアピールしてるみたいで、それはまだわかるとしても、もう片方は、全部の歩を前に一つ動かすみたいな、素人目にも訳のわからんことをやってる。いずれにしたって、何か構想があるようには見えない。

どっち道、前に進むしか動けない「歩」だという自覚がどちらにもないのか。

「と」と「金」が直接会って話をしたからって、それで「と金」になれる訳じゃないのに。前に進める覚悟がない、っていうよりも、展開について何の構想も持ってないのか。
自分は取られる覚悟で、他のコマを活かす覚悟で、それぞれが相手の陣地に入ったら、どちらも「と金」になれるのに。器っていうか、所詮は「歩」か。

ほや

生牡蠣は、結構いくつでも食べられる。
ほやは、これまで一回だけ食べたことがある。ただ、いくつでもっていう感じではなかったかなぁ。どこででも食べられる、っていう訳ではないから、慣れてないせいもあるかも知れない。

なぜか日本人は、「ナマ食」を好む傾向がある気がする。特に海産物。確かに僕も好きだけれど、もう少し簡単に流通させられる加工品、保存性の高い加工法を工夫してもいいような気がする。

そういう育ち方をしてしまっているから、仕方ないと思うけれども、二度目にアメリカに行った時のことを思い出した。アメリカの油に当たった。というか、注文した食事がことごとく脂っこくて(料理の英文名と自分のイメージとが結びつかなくて)、トドメを刺されたのはパスタだった。「もうダメだ、パスタなら軽くしのげるかな」と思って注文したのが、日本で食うのとは全然違っていて、パスタがオリーブオイルの中で泳いでいるような、本格的な(!?)イタリアンで、腹は減ってるから食ったけれども、すでに脂に耐えきれずに疲れ切っていた胃腸が、これでノックダウンした。でも、仕事の予定はある。ボストンの、とある有名大学との共同研究のコーディネータの方が、気を利かせて日本料理店に連れて行ってくれた。(たぶん、あの経費はコーディネータさん経由で、会社に回ったんだろうなぁ。)刺身があった。これなら食える。もう、30年前かなぁ。まだアメリカでは日本食がさほど注目されていなかった頃、マグロの刺身、アメリカ人から見たら、生の血の滴るような魚を、猛烈な勢いで口に運んでいた僕の姿は、きっと野蛮人そのものだったかも知れない。でも、あの時は相当な量の生魚で生き返った。

だから、「ナマ食以外」を強調するのは、日本人としてどうか、なんてことも思うんだけれども。

もっと新しい、流通しやすい保存食形態の魚介類が多くても、いいような気もする。立花萬平さんのように、試行錯誤をしていけば、何かきっとできるような気がする。

最近僕は、漬物にハマっていて、いわゆる「腸内フローラ」って奴で、乳酸菌ベースの、ぬか漬けのような、あるいは味噌漬けのような野菜を、瓶に移し替えて、事務所で、おやつ代わりにつまみながら仕事している。(こういう、好き勝手できるのが、自営業のいいところで・・・)だって、ポテトチップや「たけのこの里」なら良くて、瓶詰めした漬物がいけない、なんて法律はないでしょ!?
最近、乾燥冷凍の野菜スナックが結構多くて、豊作の時の野菜の値崩れを防ぐのに、こういう加工流通は、結構役立つんじゃないか、なんてことは思う。

寿司の原点は、なれずしのような発酵食品だろうか。もう一歩進めて、干物とはまたちょっと違う新しい保存食としての魚介類、なんて開発できないかなぁ。「ほや」は、乾燥させたら、あの独特な水っぽさの旨さが失われるかも知れない。でも、味噌とかチーズのような発酵食品と相性がいいようで、例えば、生牡蠣のパックみたいな感じで、もう少し、万人ウケする発酵させた「健康食」みたいに仕立てて、加工流通させられないものかなぁ。それができたら、韓国への輸出に頼らずに、国内向けに、もっと出荷の引き合いを増やせるんじゃないかなぁ、なんてことを思う。

フルーツでも、ナマ食よりも缶詰の方が美味しい、なんてのも結構あったりしたような気がする。(あれは、添加物の味だったのかなぁ?)

こういう突破口を開くのは、年寄りじゃなくて、高校生とか中学生とか、既成概念に縛られない人たちじゃないかな、なんて思う。例えば、ホヤをコーラで漬けるとか(いや、適当に書いてるけど、)「腸内フローラ」+「新鮮魚介類」、みたいな組み合わせで、何か保存食として「ホヤ」を食えたら面白いのに、なんてことを思う。

福島県沖の魚

房総半島から東北にかけての沖合では、親潮と黒潮のぶつかる潮目が、季節によって南下と北上を繰り返していて、いい魚が取れると理解している。

当時、3.11の後、いわき市出身の学生にボソッと、「しばらく光りものが食えなくなるかなぁ」とボヤいたら、そっちか!みたいな感じで苦笑いしていた。いやぁ、生活が大変になるだろな、ってのは十分に理解はしていたけれども、コトが深刻であればある程、軽く受け流す癖がありまして、申し訳なかった。理解してない訳じゃなかったんだけど。

現在、基準値を超える魚は出荷しないように、厳密に管理しているらしい。あたしゃ、イワシもアジもサンマも、大好物ですからね。回転寿司では、マグロとかハマチじゃなくて、最初はまず光りもの。いきなりケーキを頼む誰かよりもマトモだと思ってる。

まず、日本国内で普通に受け入れるのが先じゃないかな。風評被害からは、まだ十分に回復してないと思う。
でも、こんな美味いもん、わざわざ海外に輸出することはない、と思うな。食いたきゃ日本に来たらいいし。

トランプ vs 国際社会

あれぇ、数日前にも何かニュースが流れていた気がしたんだが、見つからない。
要は、このニュースの続報なんだが・・・でも、いいや。(本業が、金を稼いで食いつなぐのが、必死!)

https://jp.reuters.com/article/usa-golanheights-un-idJPKCN1R8213
国連安保理、ゴラン高原の主権問題で緊急会合 米国の孤立鮮明に

アメリカ以外に、認める国なんかないのは明らか。イスラエルのやり方を認めたら、戦争に対する歯止めが効かない。武力行使による国境線変更にどんな「意味」があるか、普通の頭なら理解できるはずで、理解できたら容認などできるはずがないんだが、アメリカは、というかトランプが明確な例外だと、証明されたということだろう。

約20年前、最初にブログとしてあれこれ書き始めた頃、僕が「国際社会」なんていう言葉を使ったら、どこかの評論家が、「国際社会」なんてものは存在しない、と、言っていた。つまり、国連だってただ単に、国家エゴがぶつかり合っているだけであって、そこに「コンセンサス」なんてものは存在しないし、「共通の価値観」も存在しない。確かに、そうだったかも知れない。

皮肉なことに、「国際社会」の「コンセンサス」とか「共通の価値観」を創出したのは、世界の破壊を意図した、アルカイダであったりイスラム国だったかも知れない。恐怖による支配があってはならない。それが「共通の価値観」になって、おそらく、9.11以後に「国際社会」が「社会」として成立したのかも知れない。やがて、「恐怖」は翻って、少しずつ「武力行使」へと認識が拡大して来た。明らかに、議論の中のパラダイムシフトを感じる。そのパラダイムを変えていないのは、おそらく、中国とロシアだけだろう。

厄介なことに、今回「恐怖」もしくは「武力行使」による国境線の変更を容認する国に、アメリカが仲間入りした、ということになる。そうなった時、この「武力行使」や「恐怖支配」による国境線変更があってはならない、という「コンセンサス」を、中国とロシアを除く世界の大多数の国は、アメリカと共有できなくなってしまった。

そして、アメリカ、ロシア、中国、というたったの3カ国で世界の面積の四分の一を占める大国が、いずれも、「武力行使」による国境線変更を容認している、もしくは、表向き容認していないものの、結果として軍隊を送り出して国境線の変更を主張している。ニワトリが先か卵が先か。そういう「武力行使」によって国境線を変更して来た国々だから、たったの三カ国で世界の面積の四分の一を占めるに至ったのかも知れない。国家の成り立ちを考えたら、当然の「その国の品性」なのかも知れない。野蛮。

幸いなことに、安全保障理事会でアメリカが孤立というニュースだった。

この「国際社会」も、主導するのは「国連」という舞台での「国家代表」による意志表明なんだろうと思う。
日本の場合には、これか。良かった。さすがに、安倍総理もここまではトランプに追従はしていないようで・・・
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42904120W9A320C1EAF000/
官房長官「イスラエルのゴラン高原併合認めず」

今後は、この「国際社会」自体も変わってくるかも知れない。ウクライナへのソ連軍の侵攻がそうだった。民間人の持つ情報発信能力、SNSの役割、なんかだろうと思う。民家のすぐそばを走るロシア軍の戦車の映像が流れた。日本なんかだと「インスタ映え」程度しか使い道がないかも知れないけれども、紛争地では強力な「武器」になると思う。この、「恐怖」もしくは「武力行使」による国境線の変更が(南沙諸島のように、無人だった場合は別にして、)人が元々住んでいた地域、すなわち、難民が発生する可能性の大きい地域では、現実に何が起きているかを、世界中の「その他の地域」の人たちに発信すること、それ自体が「武器」になると思う。銃火器の輸出ではなく、状況によっては衛星電話を使うための資金援助とか、そうした「情報発信支援」が成功すれば、およそ、生活者としての基盤を奪われることを恐れるような、世界中の「普通の人」を味方につけることが出来て、それは、例えば、イスラエルの一般市民に対しても、相当な「反撃」(=説得力)になるんじゃないだろうか。
安倍総理は銃火器輸出を支援したらいい。安倍やら麻生に頼らない「世界平和」への貢献の方法が、ある。

トランプさんは、「普通の人」ではない、と思う。
普通の人は、ビルやゴルフ場を所有したりしていないと思う。
あの人には、「武力行使による国境線変更」が、普通の生活者にとってどんな打撃か、なんてことは、理解できっこない。

確か、アッバス議長が「国際社会の判断に委ねる(みたいな・・・、ニュースで聞いたんだけども、確認が取れなかった、忘れた、このニュースサイトを探したかった)」とか、発言されたらしい。パレスチナ・チャンネルを作って、どんどんと流したらいい。「自分がやられたら嫌なこと」を、平気でやっている「イスラエル」と、やられている「パレスチナ」の映像を、どんどんと流したらいい。そうしたら、おそらく、「国家代表」だけではなくて、世界中の「普通の人」が味方になって、いずれは「国際社会」を形成して、主導権を「国連」からさらに下に降ろして、「世界中の普通の人」が「国際社会」になってくる。

グーグルは、決してそこに顔を出してはならない。ザッカーバーグさんなんかは、たぶんわかっている気がする。それで(引いていて)も、主役になろうとさえしなければ、世界を一つにする「媒介」たり得た名誉を、堂々と歴史に残せるような気もする。

このページ、私なり、自分なりの精一杯の表現のつもりで、書いている。通じてくれる人が、一人でも多ければ嬉しい。でも、トランプさんには通じなくていい。理解力を期待しない。

本来ならば、武力行使による国境線変更なんて、あってはならない。それをアメリカに理解してもらうことが無理ならば、せめて、「イスラエル+トランプ vs それ以外の世界中の人々」という構図を、なんとか創り出すことはできないものだろうか。

有人宇宙空間飛行、なんかよりも、こうした紛争地帯の「普通の生活者支援」のために、衛星通信を使った「情報発信能力支援」なんてのに、名乗りを上げてくれる世界的な企業は、ないもんだろうか。世界を変えられるかも知れないのに。

東アジア

【パクリ?】令和の由来が万葉集だけでなく、本当の出典が中国古典「帰田賦」の可能性

パクリ、っていうのは違うんじゃないのかなぁ。そういう解釈をしてしまう、っていうことは、日本人が日本の文化を忘れているんじゃないか、なんてことも思う。

自分にはそんな芸当は出来ないけれども、英語での会話の中にシェイクスピアの一節を盛り込んだりすると、知っている人が聞けば、「おぉ」って思うかも知れない。一種の知的な「遊び」だと思う。
身近な例で言えば、「埼玉県人には、××でも△□しておけ」みたいな言い方をすれば、知っている人は、あの映画を思い出してニンマリするかも知れないし、知らない人は、真顔で怒って「埼玉人をバカにするな!」なんてことになるかも知れないし、引用したり、パロったりする遊びっていうのは、お互いの知識の確認行為みたいなものだろうと思う。

あるいは、有名な歌の歌詞の一部をさり気なく会話の中で引用したりすると、文化を共有するものどうしならば、通じ合える。ビートルズの歌詞の一部だとか、嵐だとか、ぶっちゃけ、AKB48の歌詞の一部を引用されても僕には全くわからないけれども、同世代どうしならば、たぶん、そういう会話が楽しめる。それと同じじゃないか、という気がする。

万葉集が成立した時期は、黙々と「詩」を書いて、それを出版するのではなく、お互いがどれだけ教養があるかを確かめ合って、それを愛でて、交流の時間を持つために「歌会」を開いて、お互いの歌を詠んだりする。それを記録したのが、様々な歌集だったんじゃなかろうか。その「歌会」の際に、有名な古典を引用すれば、「あ、あいつ、あの詩を知っているな」とか思うし、知らずに論評したりすると「なんだ、元歌を知らないのか」みたいに馬鹿にされたりもする。生活感覚としてそれがわからなくても、やはり、知識としては知っていて欲しい気もする。

万葉集の成立した時期から考えたならば、「帰田賦」(これは初めて知ったし、賦なんていう詩の様式も、漢文で習ったかどうか、覚えていないけれど)は、数百年前の古典であって、例えば、自身の著作の中に、例えて言えば、(しつこいようだけれども)シェイクスピアの有名なセリフをさり気なく紛れ込ませたり、今で言えば、サラダ記念日を盛り込んだり、そういう「知的な遊び」として「帰田賦」を模した前文を書いた、としたなら、それは「中国の古典の影響を受けた、日本人の創作」ということでいいんじゃないか、という気がする。

宮中の「歌会始」なんて、今でこそ皇室行事にしか残っていないけれども、万葉集の当時は、文化的な遊びとして、広く庶民も行なっていて、千数百年前の日本で、農民や漁民が中国の古典を読んでいた可能性があるとしたら、それはそれで、誇っていいことじゃないか、とも思う。江戸時代の「縁台将棋」とかで、「有名な誰それが打った手」なんてのを披露したり、そういう模倣は「パクリ」というよりも、知識が広いことをお互いに確認し合う行為、だったんじゃなかろうか。
それにしても、当時の伝統を、今でも引き継いでいる「文化の継承者」としての皇室の存在感を、改めて感じてしまったけれども。

ただ、中国の文化的影響を除いては、日本文化は語れないとも思う。遣隋使やら遣唐使。日本で使っている漢字の読み方が、なぜこんなにも多いか。千数百年の間、中国からの文化的な影響を受けてきたから、漢音だけではなく、呉音、宋音、唐音などなど、本家の中国では「漢音」しか残っていないのに、日本語の中に歴代の中国の「音」が片っ端から残っている。
こう言っちゃなんだけども、中国人だって、呉音、宋音、唐音なんて、そう簡単には読めないでしょ!(すみません、呉と宋と唐の順番がわかりません。)

日本語の「漢字」では「生」という文字の読み方が、どうやら一番多いらしい。

「生」という漢字には150種類以上の読み方があるそうですが、ふつうに知られているもの以外に、どんな読み方があるのですか?


「生」という漢字には150種類以上の読み方があるそうですが、ふつうに知られているもの以外に、どんな読み方があるのですか?
150通り、って、なんだよ!でも「生」の読み方が一番多い、ってのは、なんだか嬉しい気もする。人の生き方、なんて、なんだってアリで、それが「悪」かどうかは自分で判断したらいい。(数万年後には、それを繰り返して、誰もが「悪」ではなくなる。)そう考えると、単に読み方を探っただけで、こんなにも読み方が出てくる。「生」の凄さ。これは、すごいことだ。

埼玉県内の難読地名の、ベスト1は、たぶん越生町(おごせまち)だと思う。(英語にしたら、”Over the Life Town”か?)知ってるから読める。色々と聞いたことがあるけど、コシキマチ、とか、エッセイマチ(これ、ちょっと綺麗だな)とか、毛呂山町のケロサン町は笑ったけども、まず、知らなきゃ読めない。越を越後のエチ、生をショウと読んで、エッチシヨウマチだって、読めないことはない。(越生町のみなさま、勝手に町の名前で遊んで、ごめんなさい。)
m(_ _)m

日本と中国とが、切り離せる訳がない。それを言ったら、韓国だって同じ。奈良県の奈良って、韓国語でどんな意味がありましたっけか?「奈良時代」の「平城京」で、いつ頃から奈良の地名が定着したのか。(知らんけど)。それが韓国に逆流したとは思えない。僕の家からそう遠くないところに、高麗(こま)神社があるけれども、「高麗」は、コウライ、音としてはKoreaに近い。ってか、そのものじゃないかと思う。実は、神社の表札には小さく「句」の字が入っていて、「高句麗神社」とも読める。数百人単位の高麗人が日本にやってきて、帰化して、当時の「先端技術」を日本に伝えた。当時の人口密度から考えたら、大集団だ。日本と韓国だって、(韓国がどういう教育をしていたのか知らないけれども、)切り離せる訳がない。日本人のDNAの調査で、韓国人の9割にみられる遺伝的特徴が、日本人の4割にもみられる、なんて記事を読んだ記憶がある。(出典の提示ができなくて、ごめんなさい。雑読。これが僕が、学術論文を書けない最大の欠点。)
日本人が韓国人を見下すようになったきっかけは、朝鮮王朝の腐敗だと思う。直近の歴史で、日清戦争あたりでは王朝の腐敗して堕落した政治が原因で、一般人はそれこそ、犬か豚かみたいな泥まみれの生活を強いられた。(それは、日本の江戸時代にも、各地で起きているけれども。)その頃から、形勢が逆転して、日本が朝鮮を見下すようになった。ほんの100年か200年前程度の話であって、さらにそこから遡れば、日本側から見た朝鮮半島は、時代によって尊敬すべき国であったり、見下すような国であったり、変遷を繰り返していたと理解する。「王朝の腐敗」は、世界中どこの国でも、少なからず経験している歴史なんだろうと思う。
言葉を辿れば、文化的なつながりがわかる。もっと時間軸を長く取って、マクロに見るべきなんだ。
余談ながら、マリ王国の文化の片鱗。今でこそ、世界最貧国にグループ分けされているけれども、かつては一帯を支配した大王国だった。どんな文化があったのか、一度行ってみたい。アフリカだけど。行く機会、あるかなぁ。こんなことを言い出すと、世界中みんなそんな歴史がある。

昨今の、「ウリジナル」にはナンセンスが多いけれども、韓国も堂々と、是は是、非は非として、虚飾のない歴史、事実に基づく歴史を、誰もが知っているようにしたらいいのに、なんて思う。

文化的に、相手を模倣することが相手に対する敬意の表し方である場合もある。中国の著作権問題は、敬意の表明というよりも、ただ単に売れるからパクっているケースが少なくないと思うから、一概に容認は出来ないけれども、こうした表現上の模倣は、相手に対する敬意の表明として受け入れられないかな?

そもそも、「公式な歴史」が、きっちりと相互で検証可能な形で確認できて、日本でも韓国でも中国でも「同じ歴史的説明」ができるように、それぞれの立場からの「事実検証」をもっと緻密に進めるべきであって、そのプロセスに「政治」が介入するべきではないと、僕は思う。
なんだかんだと、東アジアは、一蓮托生で、僕の知っている「日本の歴史」が客観的に正しいなどと強弁するつもりはないけれども、少なくとも自分は自分の知っている範囲でしか語れない。その前提で、東アジアを、せめて文化的なところで、一つにできないかな、なんて思う。

そして、最後に(最後っ屁ってやつで)余計な一言。

前述の越生町には、「山吹の里」というのがある。
(太田道灌 山吹、で検索してみて下さい。)
七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき
この歌を、「片田舎の、貧しげな家の娘」が知っていた、ということに、僕は、日本人としての誇りを感じる。万葉集の「令和」も、その当時の日本人の教養を表すものだと、僕は考える。いわゆる「パクリ」などではない、と自分は思う。

文字の意味付け

バグの意味が取れずに、固まった。けど、5分ほど悩んで解けた。
良かった。

Pythonなのに、文字列を格納する変数名として str を使った。
JavaとかC++なんかで、
String str;
なんてよくやる奴。その後で、数値を文字列変換するのに str(value)を呼び出したところで、エラーが起きた。
TypeError: “str” object is not callable

試しに、idleで
if = 50
と入力したら、SyntaxError になった。これはありがたい。

でも、
str = “abc”
はエラーにならない。その直後に
print(str(12.34))
とやると、エラーになる。オーバーライドだろうか。ちょっとなぁ・・・

今はエラーになるけれども、初期のC言語の場合、「予約語」がないから、
if = do + for;
なんてプログラムを書いても、確かコンパイラが通してくれた。さすがに、ねぇ・・・これはなかったよなぁ・・・。

でも、わかった。Pythonの落とし穴が、また一つ。
ついうっかり、でも、文字列変数名に str を使ってはならない。 ← 自分への教訓です。

それはそうと、「令和」

令の意味
https://okjiten.jp/kanji686.html
「会意文字」で、象形から、人がひざまずいて神意を聞く事を意味
らしい。

⑧「よい」、「立派な」、「優れた」 (例:令名)
は、8番目に出てくる。

「ご令嬢」とか、「御令息」とか、そんな舌を噛みそうな日本語は、一度も使ったことがないけど(せいぜい、お嬢様、お坊ちゃん、程度だろうなぁ)、「麗しい」の意味は間違いなくある、にしても、やっぱり、「命令」の令の方が印象が強いかも。

ただ、そもそもの象形文字に遡ってのツッコミ、ですが、「ひざまずいて神意を聞い」ても、たぶん神様は何も伝えては来ないと思う。「自分で考えろ」ってなのが、たぶん「神意」で、何も伝えてはくれない上に、自分で考えた挙句の行動が、神意に背いていて、集団としてそれが眼に余るようになると、根こそぎリセットしてくれちゃうのが神様だと、自分は理解している。僕らがゲームで遊んでいて、展開が思うようにならなくなると、つい初期化して最初からやり直したりする、その感覚で僕は理解している。何度も起きてるでしょうに、と思うが、再スタートしたら痕跡は残っていないし、あるのは、やり直した張本人の記憶だけ、っていう感じなんだろうか。

だとしたら、「令」の字は、「上から命じられる」よりも、「尊いものをただ受け入れる」に近い気がするし、そう考えると、「麗しい」で解釈するのが近いんじゃないかな、とも思う。「麗しき和」だとしたら、すごい年号だな、とも思った。

どうでもいいけど、僕のプログラム、Pythonなのに結構あちこちで str を使ってしまったみたいで、scanして、一つ残らず書き直すのに、気が遠くなる。


日付が変わった。布団に潜った。これで今日1日を終わらす。

「令」がなぜ、命じるに転じたのか。

命の文字の意味
https://okjiten.jp/kanji51.html

命は、令に口がついた文字。神に「言い付けられた」のが「命」。
だから、「命じる」 = orderの意味に転じた。としても、本来の意味は、「神は、『生き続けよ』と命じた」その結果が「命」なんじゃなかろうか。

「命」が「神に言い付けられた」もので、「令」が「神の思いを受け入れた」ものだとして、そのどこから「命令」=orderの意味が派生したんだろうか。日本語のニュアンスとしては、「言われたままの指示に従う」かな、と思う。

思うに、僕らは「楽な方へ、楽な方へ」解釈しようとする。「言われたまま」に従うのは、(それで生活が成り立つなら)とても楽だ。サラリーマンが「大変だ」と言いつつ、自営業に比べたら「言われたまま」感は遥かに大きいし、労働関連の法律で、(安い労働力として国が認めた)外国人でなければ、労働基準法違反だ、と、ワーワーギャーギャー騒げば、間違いなく、金にはなって生活には困らない。だから、「言われた通りの指示に従えば、神の思し召しに従ったことになる」的な解釈が成立しちゃったんじゃなかろうか。

その典型が、宗教の戒律だと僕は思う。例えば、食事の前には、「三遍回ってワンと叫び、右手に箸を持って、天高く突き上げて、フギャーと叫んでから、食事しなければならない」なんてことを、偉そうな人が口にして、それで食うに困らないとなったら、意味など自分では一切考えずに、それに従うことで、「神の思いを満たした」ことにしようとする。それが宗教の戒律だと思う。
そういう「戒律」を誰かが適当に「課した」とすると、後になってその「原典」を研究している人が、「『フギャー』とは、純粋無垢な赤子のような清らかさを、持っていることを、言葉にしたもの」だとか、「三遍回って」とは、「全身を使って、仏・法・僧のそれぞれに向き合うことを意味する」だとか、「ワンと叫ぶ」とは、「犬の如き忠誠心を、神に言葉で示す」ことを意味する、だとか、なんだとかかんだとか、解釈をこじつけて、そうなった途端に、「誰も逆らえない宗教戒律」にまで成長してしまう。そういう「戒律」を欲するのが、人間の性なんだろうか、なんて思ったりしている。
別に、どこの宗教のどんな戒律を、否定しようとか、そういう意図はありませんので、あしからず。否定はしませんが、バカにはしているかも知れない。

今日のニュースで、海外メディアのどこだかが、「令」をorderだと伝えたらしい。そういう解釈をしたがるのが人間、なのかもなぁ。
「戒律」に従うだけで、自己満足できる人は、結構多いかも。そういう人が多いから、新興宗教が成り立つ。というより、この文脈では、昔からあった宗教も、新興宗教も、大差ない気がする。どうでもいいけど。