文字の意味付け

バグの意味が取れずに、固まった。けど、5分ほど悩んで解けた。
良かった。

Pythonなのに、文字列を格納する変数名として str を使った。
JavaとかC++なんかで、
String str;
なんてよくやる奴。その後で、数値を文字列変換するのに str(value)を呼び出したところで、エラーが起きた。
TypeError: “str” object is not callable

試しに、idleで
if = 50
と入力したら、SyntaxError になった。これはありがたい。

でも、
str = “abc”
はエラーにならない。その直後に
print(str(12.34))
とやると、エラーになる。オーバーライドだろうか。ちょっとなぁ・・・

今はエラーになるけれども、初期のC言語の場合、「予約語」がないから、
if = do + for;
なんてプログラムを書いても、確かコンパイラが通してくれた。さすがに、ねぇ・・・これはなかったよなぁ・・・。

でも、わかった。Pythonの落とし穴が、また一つ。
ついうっかり、でも、文字列変数名に str を使ってはならない。 ← 自分への教訓です。

それはそうと、「令和」

令の意味
https://okjiten.jp/kanji686.html
「会意文字」で、象形から、人がひざまずいて神意を聞く事を意味
らしい。

⑧「よい」、「立派な」、「優れた」 (例:令名)
は、8番目に出てくる。

「ご令嬢」とか、「御令息」とか、そんな舌を噛みそうな日本語は、一度も使ったことがないけど(せいぜい、お嬢様、お坊ちゃん、程度だろうなぁ)、「麗しい」の意味は間違いなくある、にしても、やっぱり、「命令」の令の方が印象が強いかも。

ただ、そもそもの象形文字に遡ってのツッコミ、ですが、「ひざまずいて神意を聞い」ても、たぶん神様は何も伝えては来ないと思う。「自分で考えろ」ってなのが、たぶん「神意」で、何も伝えてはくれない上に、自分で考えた挙句の行動が、神意に背いていて、集団としてそれが眼に余るようになると、根こそぎリセットしてくれちゃうのが神様だと、自分は理解している。僕らがゲームで遊んでいて、展開が思うようにならなくなると、つい初期化して最初からやり直したりする、その感覚で僕は理解している。何度も起きてるでしょうに、と思うが、再スタートしたら痕跡は残っていないし、あるのは、やり直した張本人の記憶だけ、っていう感じなんだろうか。

だとしたら、「令」の字は、「上から命じられる」よりも、「尊いものをただ受け入れる」に近い気がするし、そう考えると、「麗しい」で解釈するのが近いんじゃないかな、とも思う。「麗しき和」だとしたら、すごい年号だな、とも思った。

どうでもいいけど、僕のプログラム、Pythonなのに結構あちこちで str を使ってしまったみたいで、scanして、一つ残らず書き直すのに、気が遠くなる。


日付が変わった。布団に潜った。これで今日1日を終わらす。

「令」がなぜ、命じるに転じたのか。

命の文字の意味
https://okjiten.jp/kanji51.html

命は、令に口がついた文字。神に「言い付けられた」のが「命」。
だから、「命じる」 = orderの意味に転じた。としても、本来の意味は、「神は、『生き続けよ』と命じた」その結果が「命」なんじゃなかろうか。

「命」が「神に言い付けられた」もので、「令」が「神の思いを受け入れた」ものだとして、そのどこから「命令」=orderの意味が派生したんだろうか。日本語のニュアンスとしては、「言われたままの指示に従う」かな、と思う。

思うに、僕らは「楽な方へ、楽な方へ」解釈しようとする。「言われたまま」に従うのは、(それで生活が成り立つなら)とても楽だ。サラリーマンが「大変だ」と言いつつ、自営業に比べたら「言われたまま」感は遥かに大きいし、労働関連の法律で、(安い労働力として国が認めた)外国人でなければ、労働基準法違反だ、と、ワーワーギャーギャー騒げば、間違いなく、金にはなって生活には困らない。だから、「言われた通りの指示に従えば、神の思し召しに従ったことになる」的な解釈が成立しちゃったんじゃなかろうか。

その典型が、宗教の戒律だと僕は思う。例えば、食事の前には、「三遍回ってワンと叫び、右手に箸を持って、天高く突き上げて、フギャーと叫んでから、食事しなければならない」なんてことを、偉そうな人が口にして、それで食うに困らないとなったら、意味など自分では一切考えずに、それに従うことで、「神の思いを満たした」ことにしようとする。それが宗教の戒律だと思う。
そういう「戒律」を誰かが適当に「課した」とすると、後になってその「原典」を研究している人が、「『フギャー』とは、純粋無垢な赤子のような清らかさを、持っていることを、言葉にしたもの」だとか、「三遍回って」とは、「全身を使って、仏・法・僧のそれぞれに向き合うことを意味する」だとか、「ワンと叫ぶ」とは、「犬の如き忠誠心を、神に言葉で示す」ことを意味する、だとか、なんだとかかんだとか、解釈をこじつけて、そうなった途端に、「誰も逆らえない宗教戒律」にまで成長してしまう。そういう「戒律」を欲するのが、人間の性なんだろうか、なんて思ったりしている。
別に、どこの宗教のどんな戒律を、否定しようとか、そういう意図はありませんので、あしからず。否定はしませんが、バカにはしているかも知れない。

今日のニュースで、海外メディアのどこだかが、「令」をorderだと伝えたらしい。そういう解釈をしたがるのが人間、なのかもなぁ。
「戒律」に従うだけで、自己満足できる人は、結構多いかも。そういう人が多いから、新興宗教が成り立つ。というより、この文脈では、昔からあった宗教も、新興宗教も、大差ない気がする。どうでもいいけど。