半グレ

NHKスペシャルで、半グレを扱っていた。新しい「反社会勢力」。
ただ、なんだか直感的に、「正直でいいんじゃないか」とも思った。

社会のルールに従っている多くの人、そのルールを守るべきだと思ってルールを守っている、というよりも、ルールを破ってペナルティを受けるよりも、表面的にルールに従っていれば、既得権上メリットが大きい、その結果ルールを守っている、それだけの人もいるような気がする。特に、既得権上優位な立場に立てた人は、そのメリットを享受するために敢えてルールを破ってペナルティを受けるという行動を回避する。裏を返せば、バレなきゃ構わないと思っている。それだけのことじゃないか、と思う。

という書き方は、誤解を招くかもしれない。そういう人ばかりではないが、そういう人もいる、少なくともペナルティよりもメリットの方が大きいと思うから、仕方なくルールを守っている人も、相当数いるんじゃないか、と思う。違っていたら、ごめんなさい。

裏を返せば、既得権がない、ルールを守ることのメリットがないと思って、それでも何らかの「利益」を得たいと思ったなら、ルールなんか糞食らえの行動をとる。僕も、その種の人間に近い。ただ、僕には彼らと違っていることが一つだけある。ペナルティについての理解の違い。

ほとんどの人が、「即死」などで猶予がない場合を除き、病気や怪我などで徐々に死に近づいて、肉体の脳と意識体との結びつきが弱まってくると、「霊体」に近くなる、らしい。霊体=意識体に近くなるとどうなるか。まず、周囲の人の「意識」が、ストレートに自分の中に入ってくる。嘘をついてもすぐわかる。第二に、肉体からの制約が徐々に薄れてきて、元々、肉体を持つ前に自分が何をしようと決めて来たのかを、徐々に思い出してくる。
肉体を持つ前の「自分で決めたこと」だから、「金持ちになろう」なんていう目的を持って生まれてくる人は、まずいない。いたとしたなら、「金持ち」になることで、その金をどう再分配すれば人の役に立つかを「課題」として、その手段としてまず金持ちになることを考える、くらいだろうか。
で、霊体が肉体から抜けかけた、その状態から健康に戻ることは稀だから、しまった、生き方を間違えたと死ぬ直前に気づき、自分の周囲にいた人がどんな本音を持っているかを見せつけられた挙句に、やり直しも出来ないまま亡くなる場合が少なくない、と自分は理解している。

この文脈で、半グレ、暴力団にしても、正攻法で大企業で上まで上り詰めた人にしても、自分がどうすべきだったかを、おぼろげながら思い出してくるのが、この「肉体を抜ける直前」の時期であり、もし、多くの人を苦しめて、ひたすら自分が「成功する」ことだけを考えた、例えば、エンロンの経営者だとか、そうした生き方をしてきたならば、肉体の終わり、いわゆる「死」を目前にしたところで、ようやっと、ぼんやりと「間違い」に気づき始める。気づいてももう遅い段階に至って、ようやっと気づく。こういう人がどれほど多いか、ということかも知れない。死ぬ間際になって、急に人格が変わるケース。それでも、完全に肉体を抜ける前に気づけば、まだましか。財産に執着しながら死んだら、迷いますからね。地獄にすら行けない。

別に、信じてくれなんて書きません。こういう考え方もある、という話。仮に、「人の実体が霊体=意識体」だと論証できたとしても、そこから先の世界については、証明などしようもない。我欲を捨てれば、もっと色々とクリアに受け取れるんだろうけれども、生半可なことでは無理だと、自分は感じている、というか理解している。何がその「我欲」なのかは、僕にもうまく説明できません。僕以外の仲間の誰かに聞いてください。

こういう考え方があって、というよりも、どうやら僕自身も結構歳を食って、いつ頃からか、漠然とこの辺のことを感じ始めたみたいで、だから、結局、半グレとか暴力団とは異なる行動規範で生きてきた。僕自身も生活感覚のところは、「ルールのためのルールなんか、糞食らえ」だと思っているから、彼らと大差がない。理由が説明できないルールには、従いたくない。ただ、黙って従わないだけではなくて、まずルールの意味について噛み付くという習性が、昔からあった。頭でっかち。そして、「糞食らえ」と思っていても、あまりにも秩序を乱すようなら、結局大人しく従って来た。違いはそこだけだろうか。結果オーライで、人を苦しめたり傷つけたりすることを気にも留めない、そういう生き方は回避できた。

NHKの番組では、半グレの人たちが、全く倫理観を持っていない、社会がこれからどうなるんだ、みたいな感じのナレーションで締めていたように、あやふやに覚えている。ぶっちゃけ、形だけルールに従っている大人だって、内面的には大差ない人が多いと、自分は思う。そして、どちらも、行く末は似たようなものだとも思う。

案外、エンロンの経営者を生んだアメリカなどでも、敬虔なキリスト教系の信者もいれば、イスラムの厳格な教えに忠実に従っている人もいたりする。彼らの価値観では、他人を傷つけたり苦しめたりする生き方は、明確に「是」ではないはずだと思う。それは、僕が住んだことのあるパプアニューギニアでも同じだったし、トランプや、イギリスのジョンソンなどが差別して小馬鹿にしている国々にも、明確に善悪を意識しながら生きている人たちがいる。トランプよりも格上だと僕は思う。ジョンソンはわからんけど。

一方で、日本では、まず第二次世界大戦中の「国家神道」への反動から、天皇陛下を神格化することへの反動などで「宗教」を忌避する傾向が生まれ、オーム真理教の事件などの後、その傾向が加速した。結果的に、「善悪」を考えることと、「新興宗教」とを同一視して、宗教全般への忌避行動が「善悪を考えること」の無効化につながり、今や、子供達など次の世代に「何が正しく、何が誤っているか」をきちんと伝えている親とか、大人が昔よりも減って来ている気がする。

ぶっちゃけ、僕自身は、こんな偉そうな話題をかける人間ではない。僕は自分自身の判断で生きているし、どなたも、どんな判断で生きるか、どうぞご自由に、ということだろうか。というよりも、僕の価値観を誰かに押し付けたなら、それは僕自身の罪になる、とも思っている。

どういう生き方をしても、それはその人の自由だと思っている。止めはしない。だけど、肉体を抜けた世界があって、そこに帰った時に後悔しない生き方、というのは、ものすごく道幅が狭い、そんな気もしている。これまで多くの偉い方々が説かれていますからね。今更私ごときが書くまでもない話題かもしれない。