持ち運ばないスマホ

パソコンの需要、スマホの需要が頭打ちだとか・・・買い替え需要に期待?

こんなことをふと思い出した。

以前、ニューギニア方面遺族会、太平洋戦争中にニューギニアで親を亡くした方々の慰霊の旅、会長の田所さんが戦死の連絡にあった地名、部隊名から、克明に部隊の移動ルートなどを調べ上げて、ピンポイントで慰霊の場所を決めて、村を訪問していた。確か、東セピック州のダグアの、内陸側の村での慰霊だったと思う。
ご遺族の方が「純朴そうで、いい村ですね。」と、おっしゃった。日本でいう「リール転がし」だろうか、車輪で遊ぶ子どもがいて、子どもたちも昔ながらの無邪気な遊びを楽しんでいた、と見えたのだけれども、ふと見かけたのは、家の裏に腰掛けて、携帯型ゲームに熱中していた子供。液晶にあらかじめ図形がはめ込まれていて、単純な1機種1ゲームだけ遊べる極めてシンプルな携帯型ゲーム。中国製か、と思いきや、製造はインドネシアだったのか。ここまで出回っていたのか、と思ったけれども、部品点数は100に満たない、ゲーム専用LSIが一個、液晶駆動用のICが一個、それに液晶+抵抗、SW、などなど、手半田でも作れて、日本でも数百円で売られていたキットのようなゲーム機。

こんなこともあった。職場の上司(州政府教育局で、部長クラスの人、ヤカムル村出身の・・・名前が出てこない)彼に言われた。バニモのタウンから20kmくらい離れたコミュニティ・スクール(日本で言えば小学校)の校長先生の持っているコンピュータが壊れたらしいので、見てやってくれないか。いいよ、と、バイクで移動して、面会した。これなんだよ、と見せられたのが、やはりシンプルな専用ゲーム機。インドネシア製かなぁ、出回ってるんだろな、と思った。どちらが先だったか思い出せない。
液晶が全部点灯したまま、フリーズ状態で、スイッチのON/OFFも効かない。高温多湿ですからね。水没しても壊れない程度の頑丈なハードだけれども、リセットしないかぁ、と思った。直せないなんていうのは、なけなしの沽券にかかわる。試しに、ボタン電池を取り外して、入れ直ししたら、一発で動くようになった。ありがとう、ありがとうとか、ものすごく感謝されたけど、すごく複雑な気分。まぁねぇ。これも、コンピュータを修理したカウントの一つになったのかも。
僕の職場、州政府の教育局だったんだけれども。

あのゲーム専用のLSIが、日本製かどうかはわからない。ゲーム画面の構図に見覚えはある。ただ、当時のゲーム専用LSIとかは、動作さえ踏襲できれば、構図を配置した液晶駆動だから、ロジックのトレースはそんなに難しくなかった、と記憶している。

今頃、パプアニューギニアでも、結構大勢スマホを使ったりしているのかなぁ、なんて思う。
そうこうしているうちに、「機能」だけ踏襲させて、安価に使えるバッタもんが出回るようになる。そしてふと、あのゲーム機を思い出した。

Raspberry Piに、今、類似品が出回っている。機能だけだったら、Windowsのパソコンで行なっている作業を、2000円程度のCPUで実現できる時代になった。ほとんどが中国産かな。日本人は、マイクロソフト信仰がすごいから、僕らがいくらLINUXに馴染めばいいのに、とか騒いでも、Wondowsが走るPCに4万円とか5万円とか出さないと、どこの会社も学校も、そんなもんはコンピュータじゃないと思っているんだろうなぁ。値段が高くないとパソコンじゃないと思っている。
だけど、世界は違う。機能が同じだとわかれば、最初から廉価版のCPUを使うだろうし、学校で一人一台のコンピュータを使わせるとしたって、一人2000円とかでなんとかなるならば、下手すると、一人4〜5万円の見積もりを下回ると教育委員会が不良品を疑ってかかる日本なんかと比べて、大差ないか、より低コストでコンピュータの導入教育ができる、世界がそう変化してきていると思う。お偉いさんが「自分の知ってるコンピュータ」にこだわる日本より、安定低価格で情報教育できる後発国が、日本を追い越すのは時間の問題。今の調子だと、10年後には、情報リテラシーで日本が他の東南アジアなんかの国々の後塵を拝する気がする。

そのRaspberry Piがあれだけ安く作れるのならば、という発想の延長で言えば、Androidが走るCPUが、必ずしも「携帯」を前提としないシャーシ、外付けのモニター+タッチパネルなんかにペリフェラルを置き換えて、完全にAndroid端末として動作できる「携帯しない、携帯電話+アンドロイドOSのコンピュータ」を作ったなら、もしかしたら、インターフェース込みで、200ドルを切る価格で実現して、相当な勢いで普及するんじゃないか、という気がした。

そんな気がしただけ。
だけど、そこに、無料の「高等教育」のコンテンツを流せたなら、世界の教育水準は劇的に変化する。そんなことを、ふと考えてみた。

日本はもう、いいよ。足踏みしてれば。マクロにみて、全世界の教育水準が高まってくれたなら、これはとても嬉しい話だ。ぜひ、日本を反面教師にして!


さてと、ここからが私の暴走。

そして私。そんなプラットフォームで、全世界に向けて、「師匠のお言葉」を、師匠の意に反しない形で、とにかく流そうと思っている。全世界の総人口の8割に、師匠の言葉を流したい。いや、私の流す情報に興味を持ってくれるかどうかは、相手次第だから、興味を持っていただけたなら、そこには師匠の言葉が次から次へと、流れている状態を作りたい。もうあと、20年だけ、頑張りたい。

とにかく、実績がないと誰も耳を傾けてはくれないから、必死で上の(高位霊界の)意識を、クリアに受け取ろうともがいていた。雑念に染まって似たような波長を持っていれば、迷っている霊とか浮遊霊、地縛霊は、見えたり声が聞こえたりするけれども、そっちは要らない。(そんなのを受け取れる自分の心が汚れきってる。情けねぇ。)そっちは、見えなくてもいいし、感覚ですら感じられなくてもいい。受け取りたいのは、とにかく上位の意識だけ。

ですけどね、こんな私みたいに、酒は飲むし、色欲は全開だし(行動だけはブレーキが効きまくってるけど、)もっと低レベルなところでも、「宝くじに当たって欲しいなぁ」とか(楽して、いい暮らしをしたい、みたいな)、およそ、普通なら、上の意識なんか受け取りようもない私が、それなりに、何度かマグレはやってきた。はっきりと思うのは、こんなマグレが出来たのは、時間はかかったけれども、それなりに師匠の言葉が自分の中に定着しつつあるんかなぁ、と、考えられる理由は、それしかない。

すごい時代になったよなぁ、なんて思う。遅かれ早かれ、もう後20年もかからない気がする。世界中の8割を超える場所で、リアルタイムに情報の送受信ができるようになりそうな気がする。教育だって、劇的に変わると思う。国家が「教える」常識は、世界の非常識だと、誰もが考えるようになる、かも知れない。(実例は、どこかの国。)もしかしたら、地盤沈下相対的に、見下される時が来るかも知れない。

そんな中で、そのペネトレーションが概ね完了するまで、ただひたすら、師匠の言葉を流したい。(悔しいけれども、シラフでこの言葉を書く勇気が、ないんだわ。いわゆる世間の常識に染まった自分の行動規範が、どうしても壊せない。で、その一言。)師匠は、「創造主の意識を受け取って、」世界がどう創造されたかを、忍耐強く、克明に講演されている。(はい、ここです。「創造主の意識を受け取って、」なんて、何をバカをほざいているんだと、お思いでしょうね。私はバカですから、何の違和感もありません.

リそうお思いになるなら、どうぞご自由に。その代わり、ここから先は読まず、二度と僕のページに来ないでください。この表現を書いてネットに晒すのに、どれだけ蛮勇が欲しかったか。話を戻す。)

僕には、そうした高位の意識は受け取れないけれども、普通の人間の脳の機能を使い、視覚や聴覚、記憶に頼って、師匠の言葉を仲介することはできる。もう一つ条件があった。自分で実際に試してみて、納得し、師匠のお言葉が間違いないと実感できるまでは、他人に伝えてはならない。自分が確信できないことを他人に伝えたなら、それはいわゆる「シューキョー」であって、創造主の望む姿とはかけ離れる。自分が、それが出来たと思うなら、初めて他人に伝えなさい。という感じだっただろうか。自分では何も考えずに、ただ言われたままに盲信することを強いられ、言われたことをやってさえいればいい、そう思うなら、それもご自由にと思うが、僕はそれが「シューキョー」だと思う。

その上で、書くならば、全ての人が、自分自身の判断で、創造主の望む姿に近づこうとするべきだ。だけれども、そのためには、創造主が何を望んでいるかについての、正しい知識を知る必要がある。だから、誰かがそれを伝える必要がある。自分が伝えていいと思うならば、伝えよ、と、僕はそう解釈する。その解釈、もしくは、内容そのものに誤りがあったなら、それを伝え聞いて、うっかり信じてしまった人も含めて、僕自身も大勢を巻き込んで、地獄の深いところに落ちる、それだけのことかも知れない。だから、こうして書いているけれども、お願いだから、鵜呑みにしては、信じないでください。どなたにも、僕と同じ、神が創造されたヒトとしての「核」があるはずで、どうかご自身のヒトとしての意識に照らし合わせながら、読んで欲しい。

伝えたい話題は山ほどあるけれども、絞り込んで言えば、一言で「調和」かも知れない。大切にするべきは、まずは自分自身の意識を汚さないこと。憎しみも、嫉妬も、物欲も、怠惰も、それら全てに棹させないこと、だと、私は理解している。その上で、周囲のヒトの思いを感じ取って、お互いにとっての最適な状態を見出そうと努力すること。今日、書けるとしたらこれだけだろうか。あまりにも書きすぎると、学生が飽和して記憶に残らない、じゃなかった、要点がボケるから、今日はこの「調和」だけ。

「シューキョー」じゃないから、お金はいりません。タダでお読みください。書き続けるための資金、WEBを維持するための金は、自分でなんとかします。上の意に背かないなら、「浄財」だの「寄付」だのに頼らずに、上が助けてくれる、はず。「お金を払わなかったら、神の思いを教えてはあげません。」僕はそれは、本当に神様なの、と思う。万人に、一円もお金を持っていない人にも、意識を注いでくださるのが神だと、思う。

ねぇ、暴走してるでしょ?
ツタヤのレンタルで、片っぱしから気になったものをレンタルしていたら、今日届いたのは「O嬢の物語」のシリーズ1枚目だった。(それが、どんな映画か、ご自身でご覧になってから、ご判断ください。)
ロード・オブ・ザ・リングとか、ハリポタと似たような感覚で、最後まで全部見ようと思ったけれども、いや、これはもう十分。これが人間なんだよね、とも思った。

ヒトの肉体は、「意識体」とは別に、肉体ベースの生物種としての生存を賭けて、自分の遺伝子を残そうとする。その「肉体」からの、肉体固有の意識が、ヒトの意識体に働きかけて、ある種の行動を取らせる。その仕掛けを創造されたのも、創造主だと僕は考える。師匠は一言も、そんなことは話されていないから、この段落は、生物学をかじった私個人の考え。この段落は、師匠の講演とは無関係。
もしかしたら、「肉体」としてのヒトの、個々の細胞の持つ意識体の方が、本来なら「肉体」を乗り船として船頭として操るべき「意識体」よりも、サバイバル経験が多いのかも知れない。「快感」が先に来なければ、ヒトが行動しないだろうと見越して、快感を先に与えて、肉体ベースの生物種としての存続を図っているのかも知れない。そんなことを考えた。
もう一つ「O嬢の物語」の1枚目のDVDを見て感じたのは、男尊女卑。「女性の尊厳」だろうか。これ以上は書きたくない。2枚目以降のレンタル予約は、キャンセルする。全部見てから話題にしようかと思ったけれども、もう十分。英語で書くなら、”I’m fed up with it.”という感じか。
と、言いつつ、昔から気になっていた、「チャタレイ夫人」はキャンセルしない。噂だけは知っていても、全く中身を知らないもの。実際に自分を汚してみなければ、汚れをきれいにするための手段は、身につけられない。(なんていうのは、実は、口実か?あ、そうお感じなら、どうぞ、ご自由に。汚れ物は、汚れ屋さんに!)汚れを知らなかったら、汚れていない状態のありがたさがわからない。ヒトは誰もが、トランプみたいな経験を積み重ねて、徐々に、意識体としての「汚れにくさ」を身につけていく、そういうものかも知れない。

こんなところ、ですかね。暴走を始める前の話題、「持ち運ばないスマホ」の話題は、かなり、現実味が高い気がしている。
以上。