持ち家?

今日は、のっけから。敢えて、挑発的な文章を書くと思う。

予想以上に、台風19号の被害が大きかったようで、我が町でも槻川沿いの遊歩道が抉られたらしい。あちこちで、土砂の流入があったとも聞いた。困難な状況だと思う。

自宅に住めなくなった方は、避難所での居住ということになるんだろうか。家財道具が泥をかぶった方々も、多いと聞いていた。資産、財産の多くを失われた方々が、今回の災害でも多数出た。

日本の場合には、自然災害。ただ、海外では戦争で生活の基盤を奪われて、結果的に資産も財産も奪われて、帰る場所のない方々が多数いる。(74年前前後、日本でも経験したはず。)戦争と違って、避難所では命の危険は少ない。リスク自体が既に去っているから、戦争による避難民とは状況はかなり良いのだろうとも思う。ただ、共通しているのは、個人で築き上げた財産も生活の基盤も失って、帰ることのできる場所がなくなった、という点だろうか。

この年齢になると、ぼんやりと思う。親父から相続した家が頑丈だから、居住環境には私は恵まれているけれども、今の延長だと、いずれ仕事が出来なくなった時に、年金では固定資産税を払いきれずに、家などを手放してどこかの貸家に入る、ということになるかも知れない。それは悲しいことだろうか、と想像してみた時、案外セイセイしている自分がいるような気もした。
例えば、資産に恵まれて豪邸に住み、有り余るお金で調度品も家財も一流の品が揃っていた、としても、目が衰えて見ることができなくなり、筋力が衰えて自力では触れることすらできなくなった時に、自分はどう感じるだろうか、とも想像してみた。そうした「恵まれた環境」に、心が満たされているだろうか。逆に、そうした「恵まれた環境」にこだわればこだわる程、情けなさで一杯になるような気がしている。

日本では、「持ち家」というのは、ある種の「人生の目標」でもあったかも知れない。けれども、貸家という「シェア」の物件であっても、肉体を抜ける時には、むしろ面倒もなく、気軽にこの地を去れるような気もしてならない。
だとしたら、避難生活とか、難民生活というのは、果たして絶対的な不幸なんだろうか、という疑問も湧いてくる。

青年海外協力隊でパプアニューギニアに赴任して、一旦州政府から支給された住居に落ち着き、赴任して2ヶ月頃に「隊員総会、兼、健康診断、兼、懇親会」でもって、国内移動の飛行機に乗った。その時に、預け入れ荷物から、ごっそりと持ち物を抜かれた。(聞いた話では、アメリカなんかでも結構あったらしいから、決してパプアニューギニアを馬鹿にしていることにはならない、とは思う。アメリカ並み、ってのは悪口ではないと、僕は理解している。)
その時、まず猛烈な不快感に襲われた。腹も立った。ところが、しばらく生活しているうちに、持ち物なんか、どうでもいいんじゃないか、という感覚に陥ってきた。なんの魔法だったんだろうか。
今、今現在の記憶と知識にかぶせて思い出している当時の気持ちと、当時実際に感じていた気持ちは、違うかも知れないけれども、今にして思う。最も大切だったことは、その時に、僕がその場にいたこと、だったんじゃないか、あるいは、僕が何をしたか、だったんじゃないか、ということだった。

無論、持ち家じゃない。間借りである。荷物。僕は、相当に荷物が多い方だった。特に、かなり金はかかったけれども、本はかなりの数をアナカン(Unaccompanied Luggage;別送手荷物)で送った。それでも、家財道具は全て「レンタル」(州政府の貸与;家への備え付け)だった。それでは、その生活が不自由だったかと言えば、何もそんなことはなかった。
結局、自分が何を持っているか、なんてことは、最低限仕事に必要なもの以外は、全然大切ではない、ということなんだと、気付かせてもらえたのかも知れない。それで、なんだか生き方そのものが「気楽」になりすぎてしまって、それまでは、生まれてこの方ずっと拘っていたものが、一つきれいに消えた。荷物を盗んでくれて、ありがとう、ということになる。

今時は、本がなくたって、ネットに繋がれば、かなり活字は読める。知識も仕入れられる。これだけでも、相当に持ち物が減る。
仕事は、Mac一台、場合によっては、Windowsパソコンが一台あれば、どこでも仕事ができる。

今、「シェアオフィス」というのがあって、僕らのような零細はかなり安く、机一つだけで仕事は続けられる。家も、家財道具も、シェアであったとしても、どこに不自由さがあるのか、ニューギニアでの一件以来、自分の中でボヤけてきた。大切なことは、どこにいて、何をするか、それだけ。

食材。僕自身は(同居人は知らん)乾燥食材が中心で生きていけるから、あとは、生野菜とかを適当に栽培するか買うかするだけ。夏場は、冷蔵庫も欲しいけど、井戸水程度の「冷たさ」でも十分な気がするし。
ふとん。とりあえず、畳一畳の広さがあれば、なんとでもなる。
プライバシー。これについては、僕はこれまでも、猛烈な勢いで噛み付いてきた(本当に、誰かを呪いたくなるくらい、根こそぎ、ってな経験談を、もう何度もしつこく書いてきた)話題があるけれども、お陰様で、最近は特に何かを隠そうという気には、全くならない。わからんもんはわからんし、知らんもんは知らん。できないもんはできない。できないもんも隠さんけど、できることも隠さん。

恥ずかしいこと?まぁ、してるけど、それは書かない。(悪いことじゃないはず。)見苦しいから隠してるだけ。だから敢えて言えば、飯を食えば当然出るもんは出るし、あれやら、これやら、それらは、敢えて人目に晒すこともないけれど、寝姿だって、なんだって、誰もがやってることをなぜ恥ずかしく思う必要があるの、なんてことは考える。いや、エチケットという概念は大切。ただ、環境や状況に応じて、「当たり前のことなんだ」というその「当たり前のこと」を必要以上に、恥ずかしがったりする、そういう部分ってのは、考え方を変えた方が、生きるのが楽になる気もする。
人間なんて、「生物としての生き方」については、解剖学的構造と同じく、おそらく世界中で、かなり同じ部分があるし、むしろ、自分だけが特別だから、なんていう感覚は捨てた方がいいような気がしてならない。

確かに、「私」にとって、「私」は「特別」である。他人ではないから。私は他人ではないし、他人は私ではない。その区別において「特別」という意識は、人間存在の根幹に関わるかも知れない。でも、その「特別」は、「私」という人間の生き様とか、どこにいて、何をするか、にだけに関わるものであって、誰もが人間として同じ「生き物」なら、恥ずかしがる必要がない物事は、相当に多い気がする。
(念のために書けば、エチケットが不要だとは、言っていません。環境や状況に応じて、考え方や、感じ方を、少し見直してみたら、と言いたいだけ。)

自然災害で、戦争で、自分の家、土地、財産を奪われた。それは確かに、間違いなく悲惨な経験だと思う。ですけどね、いずれ年老いた時に、必ず手離さざるを得なくなる時が来る。それらの価値を愛でることができなくなる時が来る。それが今来た。でも生きてる。だったら、生きてることの方を優先したっていいかも知れないと、僕は思う。

馬鹿だなぁと思うのは、「経済」というか、喧嘩腰で書くなら「金儲け」だけを考えている人たち。原子力発電所の建設で、「想定外のことは起きない」なんて主張がまかり通る。その一方で、裁判では「あの津波は想定できなかった」ということになった。(事前に、津波の可能性を指摘されていたらしいのに。)「想定外のことが起きない」ならば、「起きてしまったことは、全て想定内だった」ってことになりませんかね?どっちも、行政、司法の主張。
加えて言えば、活断層の上に原子力発電所が作られた。それを主張する、とある学者先生(というか、僕が行き付けだった飲み屋の常連さんだけど)が、日本の某国営放送の取材を受けて、根拠を提示して原発が活断層の上にあることを(たぶん、学者生命を賭けて)主張し、きちんと取材されたのに、直後に原発推進派からイチャモンがついて、挙句に、「原発が活断層の上にある」くだりは、全く放送されなかった。以来、その先生は、某国営放送からの取材を、一切拒否しているそうな。

僕らが知るべきは、政治とか政府というのは、そういう存在だ、ということかも知れない。
自分の身を守るためには、疑ってかかる必要がある。彼らのいう「安心」がどの程度安心なのか、実際に経験して、体験してから考える、か、もしくは、自分以外の方々の苦悩に想像力を馳せて、自分の身に何が起きるかを想定し、その上でなおかつ、自分の人生を納得して生き抜く方策を模索することが大切なんじゃないか、という気がする。(この段落あたりが、このやたらと長いページの本論。)

ここから先は、私の尊敬する師匠が、私などには想像もつかない知覚を駆使して、講演を組み立てられて、その内容を私なりに必死に理解し、可能な限り「正確」に伝えたい内容を書く。そういう話題だから、そういうのが嫌いな人は、ここで読むのをやめてください。読んでから文句を言われたって、そんな、読んでるあんたの好みにまで、私には責任を負えない。

200年というスパン、正確には、180年±数年の範囲で、大陸が一つ沈み、新しい大陸が一つ浮上し、その際に国家が一つ消滅する、と、私は想定している。その際には、埼玉県で言えば、川越市の辺りまで津波が到達する。太平洋側で川越市に到達する津波、が、日本各地でどの程度のレベルになるか、あるいは、日本よりも距離が近いハワイや欧州で、どの程度になるか、逆算で、計算はできると思う。その頃まで、この文章が残っていれば、だけれども。大丈夫。今を生きている読者の皆さんは、書いてる私を含めて、誰もその時には「今の私たち」ではいないから。中には、気の早い人が、「次の自分」でその場にいるかも知れないけれども、「今の自分」との接点を脳に持ち込める方なんて、おそらく皆無だから、「自分自身」であっても、「他人」扱いしていいんじゃなかろうか。
さらに、800年というスパンならば、数十の国家が、というよりも、現在数十の国家が存在している「陸地」が海に呑まれる。土地の所有者が土地と一緒に海に呑まれたならば、むしろ話は簡単かも知れない。運良くなのか、運悪くなのか、土地が消失した際に、その土地の所有者が生き延びてしまったなら、その方はどうなるんだろう。避難民になる、以外に、生き延びていく方策はないだろうなぁ。

悲観する必要があるの?

思うに、中国民族、現在の中華人民共和国の、漢民族も含めた多くの方々は、その文化的な遺伝子の記憶に、今回の過去4000年の歴史の教訓を刻んでいる気がする。
「私有財産」を持とうとしても、捨てざるを得ない、故郷の土地すらも捨てざるを得ない、そうした歴史の繰り返しがあった。今のシリアみたいなものかも知れない。多くの人が、「私有」に憧れつつ、その根底で、共有とか、生活共同体の中での「生活資材の共有」による安心感にも憧れた。共産主義が中国によって大々的に取り入れられたのは、そうした歴史的な記憶によるものではないか、と私は思う。たぶん、だけれども、2回くらいは僕も中国で経験をさせて頂いている。土地も、家も、誰のものでもなく、あ、今困っているならこの家にどうぞ、畑を耕すなら、あの区画を使ってください、そうした自然で緩やかな共有意識が、当然のようにあって、それがあったからこそ、多くの人々が力強く生き延びた。歴史的、遺伝的な、民族の記憶なのかも知れない。その流れだけならば、「共産主義」は非常に優れた「社会システム」になり得たんだろうと思う。ところが、実態としては、習近平国家主席が「腐敗撲滅」に腐心しているように、地方幹部の汚職が国家の根幹を揺るがしかねない事態に陥っている。
私見だけれども、それは「共産主義思想」の誤りじゃない。「共産主義」を具体化する、システムの、制度設計の誤りであり、性善説的な発想の誤りでもあり、器の小さいものが出世すればすぐに個人の欲得で、制度の名を借りて奪って自分のものにしようとする、その部分の見誤りだと思う。
地球系の全人類の6割、霊体の数にしてざっと300億体は、まだ未熟な意識体で、「集団の利益」を考えることができない魂だと、僕は理解している。トランプを見たらすぐにわかる。今肉体を持っている「ヒト」の数にして、40億体くらいは、「社会性」が貧困だと僕は感じている。(文化的な歴史によって、偏在しているとは思う。比率の低い社会でどうなるか、それは、地震や大災害の際のどこかの国の国民性を見ていたら、多少は参考になる気がする。略奪が起きない。そういう国は、築こうとしなかったらできない。)中国の場合、現実にはそうした未熟な方々が、地方組織の長として汚職や腐敗構造による国家予算の漏出を引き起こしている。それを防ごうとした場合、地方組織の絶対的な権力を奪う以外に方策が見当たらない。原子力発電をやめない限り、原子力からの安全がないのと、同じ構造だと、(私には全く同じ構造に感じる)私は考える。その「共産党」であることの絶対的な権力を奪う結果が、最終的に何を引き起こすかは、言及しない。つまり、地方組織の腐敗や汚職を看過し続けるか、もしくは、という状況にあると思う。

今、中国で進んでいると思えるのは、例えば「自転車のシェア」だと思う。自転車を私有することなく、必要な時に使える。この「ビジネスモデル」は、自然災害に対しても、戦争のような人為的な悲劇に対しても、かなり有効な施策であるようにも、私は感じる。積極的に「私有」ではなく「共有」する。昨今急速に普及しているインターネットの「WEB文化」における「知識の共有」もそうだと思うけれども、実社会で、今はたった「自転車」だけかも知れないけれども、シェアすることによって、リスクも分散し、「機能」を利用することを必要最小限のコスト負担で実現する、優れたシステムの実装のように、僕には思える。

日本のレンタルオフィスも、そんな気がする。「シェアハウス」も、かなり優れたアイディアのように感じる。

いくつか段落を戻して、時間の問題で、「ここは、我が国の土地」ということを、その国の国民が言えない時代が来ると思う。例えばシリア。どういう理由で、シリアの方々が母国を捨てようとしたのかは、当事者じゃないのでわからないけれども、余程危険な国になったんだろうな、とは思う。誰がそうしたのかは知らないけど。その程度なら、戻ろうとしたら戻れるはず。ところが、国土が海に沈んでしまったら、「ここが我が国」がなくなる。今後1000年スパンでは、それが全世界で起きる。そうなった時に、例えばクルド民族は「国家を持たない民族」だと言われているけれども、「日本列島が存在しないけれども日本人」だったり、そうしたケースは、数多く出てくる。
ぶっちゃけ、それを経験したことある人は、少なくないでしょう?と、言いたいんだけれども。例えば、今すぐに日本列島が沈んだら、歌舞伎の舞台の構造だの、日本刀の鍛錬の方法だの、日本にまつわる全てが、「地球史」からは消えてしまう。そうやって、消えてしまった文明のことを、今の僕らは知らない。同じように、今の僕らが忘れ去れれる事態が、間違いなく起きるんだと、そういう考え方はできないものだろうか。
そんなこと、起きっこないさと、言いたい訳ね。「想定外の事態は起きない。」とか、「原発の下には活断層があるはずがない」と、そう言いたい訳ね。別に、どうでもいいけど。

思い出せる訳ないよなぁ。一切の我欲がないくらい心が澄んでいないと、そんな自分自身の魂の記憶すら、辿れない、らしい。僕はもう、我欲に肉欲、色欲でいっぱいだから、師匠の講演会を引用して書いてるだけ。自分自身で掴み切れていない話題を書いた時にどうなるか。とりあえず、落ちるところまで落ちて、今後数千年は出てくれないとか、そうなるのかも。どーでもいいし。

土地とか、建物とか、そういうのは「不動産」(real estate)とか称して、動くことも、消えることもない資産だと、誰もが考えていますよね?無論、国土も。本当にそうかな、と僕は言いたい。絶対に地形が変わらない、という理解は、正しいの?知らんけど。

ここに来て、かなり文章が荒れてるでしょ?今僕がどうなってると思います?シラフでいると、書く勇気が持てない。飲まなかったら、無難に仕様書を書いてるか、プログラムを書いてる。だけども、何か書かなきゃ、今自分がこうして生きている意味がないんじゃないの、なんていう気がして、ひっかけてから、書き出す。あとは適当にお任せします。完全に、仕上がっています。明日イタリアで記者会見したら、泥酔状態の顔を全世界に晒すくらいに・・・(おっと、故人を引き合いに出しちゃったか、)いえ、書き尽くしたかどうかはわからないけれども、もう、かなり書きたいことは書いた気がする。こうなっちゃうと、2Lの焼酎なんて、すぐだもんなぁ。

大丈夫。もう、十年以上やってます。明日、っていうか、数時間後、東武東上線の中で眠って、1限の最初の30分は、もしかしたら、呂律が回っていないかも知れないけれども、その頃には、今、この指が動いている程度には頭も働いているだろうから、普通に授業ができるだろうと思う。

考えてみれば、こうやって、「雇われて」数コマ教えるっていうのも、「シェア」と言えば「シェア」かも知れない。ありがたい制度だ。

全世界で、一人でも多くの人が、「今自分は、こうやって生きている」と、実感できる環境で生活できますように。

何を書いてんだか、訳がわからなくなったので、これで終わります。
せっかく、読んでくださったかも知れない方に、最後屁を。
「あんたも、好きねぇ・・・」

(こんな、訳のわからん話を、よくぞここまで、目を通して下さったな、という意味です。)
途中で警告しましたよね?あの段落から下の話題は、忘れてください。