あれこれ

1日が終わった。というよりも、日付が変わって、もう2時間。丑満時ってやつですかね?(関係ねぇよ。)
ちょっと、どんよりとしている。

専門学校の、2年生と、3年生のリアクションの違い。
学生の反応、(っていうか、専門学校は「学生」ではなくて「生徒」なのか?違いがよくわからんが・・・)2年生は、中間試験対策、というよりも、僕自身の考えは国家試験対策。「成績」なんて、中間経過に過ぎない。とにかく、国家試験に合格して、社会人になったなら、次は本人が自分で社会に対して何かをする、「足場」というか、文字通りの「免許」を手にする。僕らは、そのチャンスを最大限に広げるだけ。
国試によく出る内容を、とにかく覚えて欲しい。だからそれを中間試験に出題する。出題すると予告すれば、必死で覚えてくれる。覚えて欲しい内容をピンポイントで伝える。それを整理するから、実質的には、中間試験の問題と答えを教えているのに等しい。(どういう解釈をするかは、学生の勝手。)そうして、2年生の段階では、多くの学生が「覚えて」いてくれる。

自分の担当科目を中心の授業だから、3年生の「国家試験対策」では、ちょうど1年前に学生に中間試験で覚えてもらった内容を、反復するのだけれど、1年経つと忘れてしまているのかなぁ・・・1年前はあれだけ覚えていたのに、と思うくらい、忘れちゃってる。その3年生の目を見ていて、教えている僕自身が「単なる、僕自身の自己満足か」と思えてきて、ちょっとどんよりした。内容的には、国試対策としてはかなり重要事項を列挙したつもり、だったのだけれど、1年前に中間試験の出題内容に被せて「これだけは、覚えて」と伝えた内容が、今、どれくらい残っているのか・・・

Bird’s Eyeというか、鳥瞰図というか、僕は全体を把握して「上から目線」で「これと、これ」という伝え方をする。ただ、学生は、地上を必死で歩きながら、項目間の連携を必死で模索する。その「見え方」の違い。言うまでもなく、僕は「点と点」の結びつき、「線と線」による囲い込み、全体が見えている。見えていない立場での「辿り方」を考えながら伝えているつもり、だけれども、やっぱり一番気になるのは、最初は「点」について「覚える」ところか始めたとしても、最終的には全体の「面」がクリアに見えてくる、そうやっていずれは全体がわかるようになると言うこと、そのものを諦めてしまっている子たちなんだろうか。なんだか、「どうせ俺はダメなんだ」みたいな視線が気になって(試験結果の返却直後だったのかなぁ・・・)空回りしっぱなしだったような気がした。能動的に理解する、っていうのは、個別の導入が必要だから、大学の100人教室でやるのと違って、一クラスの人数が少ない(学習塾の延長のような感じな)のは、かなりやりやすいのは間違い無いけれど、この「どうせ、俺はダメ」的な視線、だけは、どう対処したらいいのか・・・

結果を考えすぎると、動けなくなっちゃうんですよねぇ。もっとはっきり言えば、数日前に自殺した三浦春馬さん。「なぜ、芸能人は、こんなにも叩かれるのか」と、東出さんの浮気問題を擁護して、その挙句に、結構叩かれたらしく、悩んでいた、なんていうニュースが流れていた。確かになぁ、僕も、あの年代の頃は、自分がどう思われているかなんて、すごく気にしていた。今は?「知るかよ、そんなもん、俺は俺だ」みたいな感じなんだけど・・・(もうちょっと、気にした方がいいかも知れないんだが・・・)
ネット民も、無責任ですからねぇ。自分がどれだけ他人を苦しめるか、なんてことは、全く考えない。「まさか死ぬとは、思っていなかった。」その一言を口にする「殺人者」は、結構多いみたいだ。逆に言ったら、その程度の認識で受け止めたって、いいのかも知れない。もし何か、自分が間違っていると思ったなら、軌道修正したらいいし、軌道修正したら、あとは、何を言われようが、無視するしかない。「どうせ、無責任に言いたいことを言ってるだけだ」と考えるしかない。極めて個人的に、盗聴・盗撮されて、なんだか、私生活が根こそぎ表に出てしまい、しかも、相手はそれが盗聴・盗撮の結果だと理解していないような状況だったと後から理解して、僕自身も一時期訳がわからなくなった。今でも、フラッシュバックみたいなのは、ある。
何もできなくなった時期も、あった。自分でも生きてるんだか、死んでるんだか、確かに生きてるけれど、親に小遣いをせびって、飲んで、食って、寝て、単なる「人糞製造機」にしか、自分が思えなくなっていた時期もあった。あの頃の自分と、今の自分と、実は何も変わっていない、そんな気もする。僕も、自殺未遂は何度もあるけれど、挙句に辿り着いた結論は、逆だ。「死んだみたいに生きていたって、いいじゃ無いか。」他人なんか、気にしたって仕方ない。そして、「俺は俺」で、今は押し通し続けてる。

30年位前、仕事でボストンに行った。間に土日があったので、街を歩いた。お腹が空いたので、中華料理屋に入った。日本人にとって、「中華料理」っていうのは、どれだけその国向けにアレンジされていても、かなり「ソウルフード」に近いものが出てくるので、海外では助かる。(と言いつつ、アメリカと、オーストラリア、パプアニューギニア、インドネシア、カナダの5か国しか、海外は知りませんけど・・・)

その中華料理屋で、Fortune Cokkieだったか、会計の後、占いみたいな紙切れの入った「お菓子」をもらった。割ってみたら、こんなことが書かれていた。
“Wherever you go, there you are.” (どこに行っても、そこにあなたはいる。)確か、こんな感じだった。
その時は、「なんだよ、これ」、と思った。30年経った今、すごく「深い」な、と思い出している。自分はそこに「存在」している。どんな泥沼みたいな環境でも、そこに自分はいる。そのこと自体を「ごちゃごちゃ」と考えたって仕方ない。「今、自分はここにいる」と、考えるべきはそれだけ。「今、自分はこの仕事をしている」とか、「今、自分は、この勉強をしている。」結果を気にしたって、そんなもん、世の中、何が起きるかわからない。とにかく、今、その場でできることをやるだけ。

自分自身の仕事も、そうかな。どんなに「根拠」が薄弱でも、「俺にはできる」と思って、続けるしかない。迷走を続けていた、30代、40代。今にして思えば、「こいつ、こんなことも知らんのか」みたいな無知を曝け出して、赤面した記憶は、かなりの数ある。(恥ずかしいから、あまり書きたくない。)ましてや、20代、30代で、そんなに、なんでもかんでも、わかる訳ないし、その世代の人がどんなに「間違った」ことを主張しても、「でもね、こういう場合もあるよ」と、それだけは伝えるけれど、基本的には容認する。いつか自分で気付けばいい。

数週間前に、学生には伝えたはずなんだけどなぁ・・・覚えているかなぁ。
国家試験の模擬試験を受けて、相当にショックを受けて、「本気になって勉強を始めた」として、それでも、実際に成績が上がり始めるまでに、どうみても、平均で3ヶ月はかかっている。専任教員時代、他の先生と話をしていても、「あいつ、目の色が変わった。本気になったみたいですね」と、それは共通認識で「そうか、やっとあいつも、やる気になったか」とこちらも理解する、それでも、「結果」として成績が上がり始めるまでに、3ヶ月はかかっているケースがほとんどだった。だって、電気・電子・情報工学・機械工学・物性材料工学の基礎が必要で、その上、臨床医学全般、さらに、専門科目の医療機器の問題が乗ってくる。覚えても覚えても、なかなか、隙間が埋まらない。その間、耐えて、黙々と自習室やら図書室やらで、がんばった学生には、拍手を送りたい。その挙句に、4ヶ月目辺りから、突然、毎回十数点とか、数十点、点数が上がり始めて、そうなると、最後の追い込みでは、僕も2月には「全教科のまとめ」みたいな、ボランティア補講を準備したりした。(今、その時の教材を引っ張り出して、使っている。全科目を網羅してる。)3ヶ月っていうことは、今から本気になれば、まだ間に合うのは間違いないんだけれども、「どうせ自分はダメだ」みたいな発想だけは、捨てて欲しい気がする。

あのアメリカ合衆国大統領、ドナルド・トランプみたいなメンタリティ(だけ)は、見倣って欲しい気がするなぁ。「私は、完全に全てにおいて正しい」みたいな発言をしたみたいで、そういう自信、っていうのは、ある意味で、必要かも知れない。