あれこれ

まとまりもなく・・・法政大学のシラバス入稿の方は、何とか間に合わせた。(情報科学部の大学院は、相当に締め切りが遅い方だったんだなぁ・・・ありがたかったです。学部によっては1週間以上前に締め切りが設定されてた。)多少気が楽になったので、(他に、納期のプレッシャーがきつい仕事はあるけれど・・・)今日は暴走。

ふと思ったことがある。まず、中国。
中国は、新疆ウイグル自治区の問題に関して、何かと「内政干渉だ」と言っているが、他ならない中国が日本に対しては内政干渉したではないか、という話題。何かといえば、首相など公職にある方の靖国神社参拝問題。
曰く、靖国神社には、東條英機などのA級戦犯が合祀されている。だから、靖国参拝はA級戦犯を参拝することに通じ、それは侵略戦争の歴史の肯定であって、容認できない、という主張だったと思う。

ところが、習近平は「戦争を推進する」と明言している。実際に、インドなどを軍事力で「侵略」している。それが正しいか、誤りかは別にして「国益を守るため、国家のために戦争を選択した」のは、東條英機も全く同じだと私は考える。結果的に、戦争に負けたから「戦争犯罪」の罪に問われた。ならば、中国が「戦争」で負けた際には、現在までの習近平が中国国民に向けた発言は、東條英機など「大本営」が当時の大日本帝国国民に向けていた発言と対比するなら、十分に「A級戦犯」に問うことのできる内容ではないか、と思える。当然、状況によっては死刑にされることも覚悟して中国国民を煽っているんだろうとも思うが、少なくとも「国のため」に、その人の理解力に応じて「最適」と思われる国家戦略を選択して、そうして、その判断を誤って破れた人間を、死んだ後も日本非難の口実に使っている。同じことが、そっくり自分自身に起き得るということは、考えないんだろうか、とふと、考えた。

中国は、再三にわたって「靖国参拝」に対して、かなり強い表現を使ってきた。それは「内政」干渉ではないのか?もし、内政干渉ではないと主張するのならば、その根拠を明確に示して欲しいと考える。おそらく、その「根拠」を捻り出したとしても、それは、現在進行形の、新疆ウイグル自治区での迫害や、香港での人権抑圧に関して、世界の多くの国が不快感を示しているその状況にも、そっくり当てはまると思える。自分たち自身が当然のことのように、日本に対して「内政干渉」を繰り返してきた事実を思い返して欲しい、と考えた。

「靖国参拝」に関して言えば、確かにA級戦犯も合祀されているけれども、「赤紙一枚」で国に徴集され、パプアニューギニアばかりではなく、海外で亡くなって、亡くなった事実は戦友などによって確認されてはいるものの遺骨すら確認されていない多くの日本兵も祀られている。むしろ、99%はそちらだろうと思う。遺骨が戻っているならば、家族によって弔われているだろうと、理解している。(あまり、細かいところは把握していないけれども、ニューギニアで亡くなられた兵士の遺族会の方々との会話での、自分の理解。)そうした方々に対して、日本国内の問題として「靖国神社に参拝」することによって、二度と、あなた方ご遺族のような存在は生み出しません、亡くなられた方々に対しても、「大日本帝国」を引き継いだ「日本国」の政治家として、感謝の意を捧げます、と、こうした主張は再三なされて来たと理解しているけれども、中国は(ついでに言えば、韓国も、韓国の場合には、日本国政府が弔意を表した「日本兵」には朝鮮半島出身者が相当数いたにもかかわらず、)「内政干渉」して、その行為にクレームをつけてきた。これが「内政干渉」ではなくて、一体なんだったんだろうか。いや、むしろ、中国共産党が「戦争の準備をしろ」と国民向けに主張をしているのを聞いて、あれは「内政干渉だった」と確信を持って、この一連の「考え方」が思い浮かんだ。日本の「靖国参拝」にクレームをつけたことなど、一切ない、などとは言わせたくない。やったでしょうが、中国は。ならば、それが「内政干渉」ではなく、新疆ウイグル自治区やら、香港問題に関する国際社会の主張の方は「内政干渉だ」と主張する、明確な、論理的な根拠を示して欲しいものだ、と思う。

これが、第一点。次に、第二点。なぜ、唐突に中国の話題を考えだしたかと言えば、言うまでもなく、ミャンマー情勢。中国がどう動くか考えていて、ふと、第一点の話題が思い浮かんだだけ。

ミャンマー。

許可なしの拘束・捜索可能に ミャンマー国軍、関連法停止
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021021400315&g=int

裁判所の許可なく拘束や家宅捜索を実施することを禁じた法律を一時的に停止すると発表した。

国軍はこれに加え、自宅に訪問者が宿泊する場合、届け出を義務付ける法改正を行った。

法律を何だと思っているんだろうか。国会っていうのは、みんなが守るべきルールを決める場所、だと思うんだが、それを勝手に「停止」したり、かってに「改正」(改正?正しく改める?嘘でしょ?改訂でしょ?時事通信の翻訳ミスか?)要するに、ミャンマーは「クーデター政権が定めたルールを国民に適用する=民主的な手続きを踏まない『法律』を押し付ける=『私法』を民間人に押し付ける無法状態になった」、ということだろうな。それを国民に宣言した訳だ。つまり、自分たちが「合法的な存在ではない」と主張しているに等しいと思うんだが、反論できるんだろうか。反論できるものならしてみろ、我々は武力を持っている。国民を殺すぞ、と宣言してるんだろうか。
というのは、本題ではない。

拘束するならしてみろ、という反抗の仕方があると私は思った。
かなりの確信を持って、僕は過去世でこのやり方で勝った記憶がある。無論、今世じゃないけれど(人の意識体は、肉体を抜けても永続的に、ずっと存続し続けていて、今世において経験した内容(単なる丸暗記ではなく)は、魂に刻み込めたなら、間違いなく次に肉体を持った時の自分に引き継げる、という話題として、)自分の経験談を書きたい。(気にしないでください。言いたいことを書いているだけだから、この枕詞は無視していただいて結構。)
ミン・アウン・フライン氏が、ポルポト的な人格だとしたら、この「戦術」は失敗すると思う。根こそぎ殺されてしまう。ただ、私欲しか頭にない程度の人物なら、たぶん、勝ち目があるような気がする。中国共産党の場合には、「指導者個人」の責任に帰結しないから、中国国内ではこのやり方は危険すぎると思うけれど。

ひたすら、クーデター政権に対する反対運動を、今のまま続けたらいい。「恐怖政治」で、民衆に「投獄される」という「恐怖」を与えたなら、いずれは「反対運動が収まるだろう」という判断なんだろうと思う。
ただ、投獄された後、投獄した人の「生存」を保証しないならば、反対運動を続けて、鎮圧される際に殺されても結果は同じ。だったら、むしろクーデター政権側に投獄させたらいい。獄中での「生存権」まで「法律を停止」するか?それを公言したなら、「我々に背いたら殺すぞ」というのと同義だと思う。ミャンマーの方々の反発も無論あるだろうし、今ならば、国際社会の反発は一段階上になると思う。
結果として、最低限、投獄された方々への「食料」の供給は、クーデター軍の責任になる。食事は提供しろと。その「食事の提供」が、民間人の協力なしにできると思っているんだろうか。軍部が片っ端から「投獄」しようとするならば、当然、その「投獄」された方々への「食事の提供」が必須になる。それができずに、「見殺し」にするか、「民衆に頭を下げて食料供給を依頼するか」、その二択にクーデター軍を追い込める、と僕は考える。そうした戦術を取れるように、反クーデターの人たちが、結束するべきだと、僕は考える。

一方では、「クーデター軍の無法措置宣言」を非難する主張を国際社会に訴え続けて、もう一方では、「反対運動」を続け、拘置所だか刑務所だかを「収監」された人々で溢れさせ、収監された人々の「生存権」を巡って、具体的には食料提供などを「武器」にして、クーデター政権と対峙できる、と思える。
無論、言うまでもなく、相手が強硬策に出たとしても、食糧の差し入れはできるように、拘置所や刑務所の役人に、協力させるように、ここでは部族連携などの生活感情を最大限に使って、「拘束」された人々を安易に死なせないように準備をすることも必要だと考えるけれど。

何よりも、クーデターの首謀者はトップ周辺しか押さえていない気がする。だとしたなら、さらに対抗策はある気がする。軍部の最下層、下級兵士や、警察官僚などの最下層の人々を、一人ずつクーデター政権から引き剥がして、民衆側につけていったらいい、と思うし、ミャンマーではそれが可能だという気がする。

結果がどうなるかわからない。こんなことを書いて、責任を負い切れるか。ってか、何事につけ、中心的に責任を持たせてもらうような立場に立たせてもらったことがほぼなくて、末端の「責任」だけは押し付けられる人生ですから、もう、開き直って好き勝手書いてるだけだけれども。信じる信じないは、あなたの勝手です、じゃなかった、役に立つか立たないか、一つの考え方として、参考になる部分があったら、カケラでもいいから参考にしていただいて、とにかくミャンマーに民主主義的な社会を取り戻して欲しいと、切に願う。

第三点。
僕の、おじいちゃん、おばあちゃんの法要を、親父が仕切ってやった時のことだったと記憶している。確かまだ二十代。もう、30年以上前。
僕や弟、姉貴に、「お前たち、ビールと日本酒を持って、一人ずつお酌して、本日はお忙しいところありがとうございましたと、ちゃんと挨拶して回れ」と言った。(今だったら、それに烏龍茶が加わると思う。)
そうして、ぎこちなく挨拶して回って、ある人に、お酌でビールを注いだら「何だ、女じゃねぇのかよ」と言った方がいた。「すみません、男で。」と言いながら、ビールを注いで(お酌して)、「お忙しいところ、どうもありがとうございました」と、紋切り型の挨拶をしたんだけれども・・・
まぁ、親父もね、こういう場面では男だの女だのというのは気にしない人だったから、僕ら姉弟三人に同じように挨拶して回れと言った。ただ、大正から昭和初期の方々には、こういう場での「お酌」は、女、つまり、ぼくのお袋か、姉貴か、だけであるべきだ、的な発想の方々が少なくなくて、この人の発言というのは、別に「不自然」なものではなかった、と記憶している。
いうまでもなく、森元総理の世代。会社でお茶汲みしない女は、雇っておいても意味がない、男性社員の「お嫁さん候補」として雇用したんだから、さっさと社内で(あぶれている男どもとくっついて)結婚してくれ、みたいな価値観が、昔は間違いなくあった、と思う。(個人の感想です。)だからなぁ、あの発言。「単に本音が出ただけ、昔だったら別に何の問題もない話題だったのに、」なんていう感じだろうとは思う。

自治会の会合で「宴会の準備」なんていうのがあると、「女性陣は、宴席の準備に・・・」なんていうのが今でもあって、そこはもう、60代〜80代の女性の方々、心得たもので、きちんと準備を整えてくださる。むしろ、「どうやって、男がやりたいようにするのに、適当に付き合っておくか」みたいなのは、感じない訳じゃないけど、本音を口にしてもらったなら、もう、相当に吹き出すだろうなぁ。

ですけどね、この辺は男の側の論理。きちんと「仕事」をしたくったって、仕事の中身じゃなくて「お茶を入れたかどうか」だけで業務を評価されたりとか、(以下省略。もう、数えたら10や20では済まないほど、具体例が出てくると思う)女性の側からしたら言いたいことは相当にあって、運悪くというか、なんというか、「オリンピック」という全世界が注目し、日本国内の「昭和の価値観」だけでは済まない立場の人が、あの発言をしたという「条件が整って」というべきか、見事に「昭和の長老」をそのまんまに表現してくれたもんだから、集中砲火は当たり前だろうな、と思う。

いい機会じゃなかろうか。じゃないや。これを「いい機会」にすべきなんだ。チャンスは逃すべきじゃない。変えることのできるチャンスがあったなら、徹底的に利用すべきだ。単に森元総理を吊し上げただけじゃなくて、「古い世代の認識」を徹底的に更新するまで、あくまでも「意味のある」議論を展開して、(ここが大事だけれど)具体的にどんな場面で、何をどう変えていくか、これをきっかけにして、なんらかの「あるべき姿」を模索したらいいんじゃないか、と思う。逆に言えば、幸運かもね。「森元総理は、五輪の件で辞任したけど、あなたは?」なんてね、あれは活用できる。森元総理の一見は、相当に「再利用」しやすい素材だという気がする。

第四点。同じく「森元総理」の問題に関して。
「女性が多くいる会議は長引く」ってな感じの発言。そもそも論として、「会議が長引く」のは、悪いことなのか?「会議が長引く」のが悪いことでない、むしろ良いことならば、「女性が多くいる方が、言い方に物事が動く」という解釈は成り立たないのか?そこが、今回の騒ぎの不思議なところで、誰も、「会議が長引く」ところを問題にしていない。

僕が以前在籍していた大学。教務委員長が僕の上の学科長だったから、話を聞けば、事前に事務方から「議事録」を渡されていて、その議事録通りになるように、議事を展開するのが仕事だったから、「意見」を言う人がいたら、結構苦慮したらしい。参加されてる先生方も、そんな会議の時間を取られるのは面倒だから、元々の予定の1時間を30分で終わらせるところか、最初から議事録を配布して「異論のある人はいますか?いませんね!はい終わり」で、2分で終わらせてもらったら、どなたも大喜び、だったんだろうか、なんて思う。だったら、そもそも、なんで会議なんて開くのよ。思うに、国会だってこの延長の気がする。だからこその、森元総理のあの発言。
何のための会議か、って言ったら、この場合なら「学内の、すべての学科の代表者が、この内容に合意しました」という既成事実を作るための場所、というのが本質だろうか。現実に起きている問題を、現実的に対処するための場所じゃない。そういう話題は「終わってから、個人的に」とかで、酒の席に持ち込む、とか、「今日の議題には相応しくないので、その発言は別の場所にしてください」とか、こうやって、「発言潰し」をするための口実なんていくらだってある。
「現実に起きている問題を洗い出す」とか、「それぞれの意見を聞く」とか、「出席者の意見から解決策を模索する」とか、「出席者の共通認識を明確にする」とか、「テーゼとアンチテーゼをぶつけて、止揚を見出す」とか、そういった、そういった諸々の本質的な議論を全て回避して、「はい、みなさん合意しましたね、何も文句はありませんね、合意の下で決まりました」と、その口実を作るため、だけに、会議が存在している。森元総理の「会議が長引く」発言は、まさしくそうした日本的民主主義の現実を露わにしたのではなかったんじゃなかろうか。

って、思うんだけれど、誰もそこを突っ込まない。当たり前だと思っているんだろうか。
ってか、子供の頃から「おかしいと思っても、黙れ、先生の言うことは絶対だ」とか、「上司の発言には逆らうな」とか、それが当たり前になっちゃってるから、結構ネットで色々意見をしている人たちも、この部分に突っ込んだ記事を(少なくとも僕は)見かけていない。おかしくありませんか?

本質に突っ込んだ議論ならば、長引くのは当然。それなのに、この部分が問題にならないのは、あまりにもおかしい。

昔は「総会屋」とかいたらしい。とにかく「株主総会」に潜り込んで、「い〜ぎ〜あ〜り〜(異議あり)」と叫ぶと、大半の「会社役員」の方たちは固まっちゃって、「議論」なんか一切できず、困ってしまう。だもんだから、会議の議事に異論を唱えそうな人(普通、そういう人の意見を聞いて、対応するのが会議だと思うんだが・・・)が事前にわかっていたなら、お金を渡して黙ってもらうと、それが当たり前だった。だから、ちょっと「議論」ができる人がいると警戒されるようになった。金を取られる?どこか根本的に間違っていたんじゃないか、と思うけれど、この「慣行」も昭和の遺物か?

第五点。新型コロナの新規感染者数が、世界的に減っている話題。
日本国内の場合は、違うと思う。検査件数が減少している。だから、というのは、前も書いた。もういい。以下省略。「五輪」の成功は、もしやるなら、祈ります。同時に、その影響で亡くなられる方々の冥福も、先行してお祈りいたします。

第六点。
そもそも、今回僕がこの「立ち位置」(自分の言葉を、自由に、延々と書き続けられること)にこだわって、特定の立場を護持して生活の安定を気にしなかったのは、師匠の存在。師匠がどういう方だと、僕が思っているか、については、書かない。(およそ、誰も聞く耳を持たないと思うから。)ただ、と、書こうと思って、この話題が一番表現が難しいことに気づいた。やめます。それに疲れた。

今日は、日付が変わってからも、それほど経たないうちに寝たい。疲れたから、もう、一切読み返さない。おやすみなさい。